アメリカで見た景色|The Source Diner 安達 真

アメリカへの憧れ

アメリカに憧れるきっかけになったのは、映画だと思う。あと、ちっちゃい頃やっていたアメリカのドラマ。ナイトライダーとか特攻野郎Aチームとか。(笑)映画、ドラマを見ていたのが原体験だと思う。ナイトライダーって車が喋るのよ。悪い敵を倒すんだけどそいつがすごい車なの。「アメリカってこんな車あるの?」って。アメリカに対する憧れに繋がったと思う。アメリカや西洋に対する憧れは自然と刷り込まれていったから。「いつかアメリカ行きたい。」って。アメリカに対する想いはずっとあった。

アメリカで見た景色

人のフランクさとかをマネしたいというか、そうありたいとは思ったかな。日本だと特に従業員とお客さんって立場になるけど、アメリカは対等なの。日本はお客さんが神様だって思っている人たくさんいるだろうし。うちに来る人はあんまりそういう人はいないんだけど。俺が偉そうだからだと思うんだけどさ。(笑)アメリカだと必ず挨拶があるわけ「Hi!」「Hello!」とか。ほぼ挨拶から始まるし、日本みたいにどこ見て言ってるかわからない「いらっしゃいませ」に対してお客さんって「どう返すの?」って話じゃん。だから、俺はあの言葉が嫌いで必ず挨拶をする。まず挨拶から始まって、目を合わす。それが大切だよね。

当時、お店の奥にキッチンを作ることにしていたんだけど、内装をやってくれた友人に「やっぱりキッチンの位置変えたい。」と相談をして変えてもらった。奥にキッチンがあった方が、ストックルームが近くにあったりと便利は便利なの。でも、席が遠いお客さんと触れ合うことが無い。それが嫌だったんだよね。

日常と非日常

お店にずっといるわけでは無いので、街に出るじゃん。自分の生活している街に出る。その時に気持ち良いかどうかは大切。僕らよく旅行行きますと。みんなも旅行好きじゃん。なんで好きかというと色々な理由があると思うけど、日常から非日常に行きたいわけじゃん。そういうものが楽しくて行く。だけど、旅行行かなくても自分の街がそういう街であれば別に毎日生活していて、日常と非日常を行ったり来たりできるようになるなと思っていて。もう無くなっちゃったけど、ニューヨークで働いていた「The Adore」ってお店があるんだけど、The Adoreに関しては俺の日常だったわけ。でも、日本に帰ってきてしまえば完全に非日常だし、働く前も非日常。「俺、ニューヨークのカフェで働くのか。」とんでもない高揚感と緊張と不安。それが働いてしまえば日常になっていったわけ。


アメリカにいた時はよく国内旅行をしていて、サンフランシスコのTriesteに行ったときにそこにいる人ってこのお店に行くことが日常でしか無いわけ。俺だけ非日常でそこにいた。その交錯している感じがすごく良かったし、「その人たちの日常に溶け込みたい。」ってすごい思ったの。そんなこと出来ないんだけど。「こんなお店があるなんてすごい素敵な日常じゃん。」って。

街の日常

お店にはオシャレな人だけでなく、どんな人が来てくれても良い。でも、横柄な態度だけは許さない。俺はあなた達と対等だし、俺のお店のルール内で楽しんでくれればそれで良い。ここは他人の家だから。「他人の家行くときになんで自分のルールを持ち込むの?」って。
逆にオシャレな人しかいないのは嫌なのね。というのは、街の日常になっているカフェや、飲食店って色んな人がいるわけよ。若い人もおじいちゃんもいる。お店もカッコ良いんだけど、カッコつけたカッコ良さじゃ無いのよ。こういう絵がすごく好きだから、お店としてこうありたいと思ってるね。

当初、オープンしてすぐは若い人しか来なかったのね。でも、少しずつ色々な人が来てくれるなという実感はある。でも、これは10年20年やっていないとそういう絵にはならないし、難しいよね。おじいちゃんおばあちゃんが日々使うお店ではありたい。でも、うちはコーヒーだけとかやらないから日常使いはできないんだけど。

たまに近所のおばあさん3人が来て、「今日なにあるだ?」「メニュー見てください。」みたいなやりとりはするね。あの人達何にも見ないから(笑)めんどくさいなって思うんだけど、それがまた面白かったりするんだけどね。見ようとしない。全部聞く。(笑)でも、これは俺がやろうとしてたコミュニケーションだよなって気づいたりする。めんどくさいからメニュー置いといて聞くだけにしているわけだから。おばあさんは俺が忙しくても関係ないの。「何があるだ?」って聞いてくる。でも、これが本来の姿であって、「わからないことがあれば聞いてください。」ってスタンスだけど、出来ていないのに気づかされる。改めて「あっそうか。」って。

「抱きしめてあげなければダメだよ。」

誰に対して商売をしていくかは一番難しいところかなと思ってる。やっぱりマスに向けて商売しないと成り立たないと思っているから。でも、マスの人たち誰でもウェルカムはやりたくない。俺は俺のカッコ良いと思うことをやりつつ、その人達にもアプローチする方法を探らないといけない。例えば、「売れていないインディーズの時の方がカッコ良かったよね。」って言う人いっぱいいるじゃん。メジャーになってやめる人もいると思うけど。でも、「売れてお金稼いでなにがダメなの?」って思うの。昔のファンが離れることは残念かも知れないけど、でもあなた達よりお金くれるんだよって話で。自分のポリシーから外れたことをすることでこんなお金ってもらえるんだって。そのバランスだと思うんだよね。

でも、実際来てくれるお客さんって当初想定していた友達より、そうじゃない人達の方が圧倒的に多いのよ。このお店が好きになって来てくれる人の方が来店頻度は高いし、そういう人っていわゆるマスの人達。だけど、こういう場所に引っかかってくれる。世の中にはもっと入りやすいお店だったり、めんどくさくないお店って沢山あると思うけど。俺はルールを逸脱するとすぐ不機嫌になるから。(笑)でも、それをクリアしてくれればすごいウェルカム。

少し前に心に響いた言葉をもらって、名古屋の「EARLY BIRDS BREAKFAST」や、「Circles」っていうお店をやっている社長さんの言葉。「お店なんて入りづらくて良いんだ。だけどその門を開けて入って来た人に対しては抱きしめてあげなければダメだよ。」って。門を開けるのにすごい勇気を持って来てくれてる。「入りづらい。」ってよく言われるし、「なんのお店かわからない。」って言われる。だから一見さんってほとんど来ない。何かの情報を持っている人がやっと来るお店だと思っている。その言葉を聞いたときにハッとして。そうだなと。

飲食業を変える

飲食業って底辺だと思っていて。働きたくない職業ランキングでもコンビニ店員と並ぶぐらい。本当にそう思っていて。昔は、独立したら儲けられるという夢があったみたいだし、料理人も腐るほどいるっている感じだったみたいなのね。人の流動性は早かったと思うんだけど、地位が上がっていくと給料も貰えるし、独立すれば豊かな生活が送れる構図があったんだけど、今は違う。飲食業に人がいないし、どこも人が足りていない。


24〜27歳のときに働いていたニューヨークのお店は日払いだったんだけど、余裕があったの。週2日休めたし、1日8時間ぐらいしか働いていない。これが俺のキャリアのスタート。日本帰ってきて東京で働いたお店は、時給790円だよ。多分東京の最低賃金だと思うけど。時間もやけに長いじゃん。週1しか休めないし。ほんと嫌だったの。当時の料理長もボロボロになって働いていたし、子供が生まれたばかりだったのに子供とも会えないとか。何をしているんだろうという感じ。「早くアメリカ帰りたい。」って思ってた。毎日ね。

もっと頭使えばお金もらえるはず。でも、現状に疑問を感じない人がほとんど。思考停止しているんだと思う。飲食業の人が地位が低いままなのは嫌だし、変えたいと思っているから。自分のお店は休みはとるし。それでも稼働している時に稼げば良いから。なかなか上手くいかないけどね。ちゃんとやっていれば俺らみたいに休んでも稼げるんだよって示さないと、自分のお店を持ちたいっていう人もいなくなっちゃう。俺よく「生まれ変わったら飲食業やらない。」って言ってるんだけど、大変だもんやっぱり。日本の飲食業の人達が思考停止しているのに物申す為に俺は休む。それ言いながらも俺が稼いでなかったらカッコ悪い。カッコつけていて、稼げないのが一番カッコ悪い。休んでて火の車じゃんってなったらダメなのよ。だから店が稼働している時に、お客さんがバンバンくる、休む時は休むって状況がなければならないんだけどね。難しい。日々考えていないとね。

負けたくはないよね。少なくとも松本の店では一番でいたいし。ナンバーワンよりオンリーワンって言葉があるけど、ナンバーワンじゃないと意味ないでしょって思うから。

心に響くこの一盃|岩波酒造 佐田 直久

将来の姿

出身は新潟県新潟市です。小学校低学年の時に、父親の転勤の関係で東京へ。中学校へ上がるタイミングでまた新潟へ戻って来ました。大学進学時は、特にやりたい事は無く、東京への憧れだけでした。一人暮らしの為に大学へ行ったようなもんです。学生時代はギターが好きでバンドをやっていました。フォークや歌謡曲に始まり、Kiss、ローリングストーンズなどのロックからパンクロックもやっていました。自分たちのオリジナル曲を作って渋谷の音楽ホールでライブもやりました。
音楽と並行してやっていたのは合気道です。社会に出るにあたって自分の精神面も鍛えなければならないと思い、武道を始めました。4年間部活を続けて、黒帯の2段まで取ることができました。

自分の仕事とは

就職の時期では、やりたい事、行きたい会社はありませんでした。とりあえずどこかの企業へ就職しようと思っていました。結局、地元の新潟へ帰り、金融系の会社へ就職します。当時は、特にやりがいを持って働いていたわけでは無く、お金をもらう為に働いていたような感覚です。最初の配属は、高崎店でしたが、5年目での初めての転勤が、長野県松本店でした。生まれて初めて松本にきました。松本で仕事をしながら、「なんていい所なんだ。」と思っていました。日本全国様々な場所に住んでいましたが、松本には他とは違う魅力を感じました。空が綺麗、川が綺麗、山も、花も綺麗。「ずっと住みたいな。」と強く思いました。
この会社には7年ほど働いていました。

当時、住んでいたアパートの隣人と仲良くなり一緒に遊ぶ機会が多くありました。その方は友人が多く、家に集まって食事をしたり、スポーツをやったりという場に招き入れてくれました。その当時は、お酒がそれほど好きでは無かったのに、仲間たちと話をしながら飲むお酒は「本当に美味しいな。」と感じていました。同時に、自分の姿を見ると「こんな人生で良いのかな。」と自問自答するようになりました。周りの人達は子供がいたのですが、僕ら夫婦にはなかなか子供を授かることができませんでした。その時に思ったのが、「もし子供がいて自分の仕事を聞かれたら胸を張って言える仕事ではない。」そう思いました。心から打ち込める仕事をやりたい。そう強く感じました。であれば、職人だなと。今では酒造りの仕事に就きましたが、醤油や味噌でも良かった。とにかく一つの事に一生懸命打ち込める仕事をしたかった。この気持ちに尽きます。ですが、漠然とした想いだったので、ハローワークへ行ってもなかなか仕事がない状況で、途方に暮れかけていたことがありました。

最後の望み

転職先を探していましたが、なかなか「これだ。」という仕事が見つかりませんでした。でも、その間にも家賃等の支出はある。自分の望みが叶ったわけでは無いですが、工場の仕事が決まりかけていました。ですが、心のモヤモヤは消えず、最後に一度だけとハローワークへ向かいました。そこに待っていたのは、岩波酒造の酒造りの求人でした。見た瞬間「これだ!」と。今までの酒造りは新潟の杜氏(とうじ)=越後杜氏が蔵人を連れて秋から春にかけて1年分のお酒を造るスタイルでしたが、自社社員でお酒を造ろうと方向性を変えたタイミングでした。秋から春は酒造り、その他は営業、配達といった業務内容です。最初は右も左もわからない全くの異業種で大変な時期もありました。


ですが、辞めたいと思った事は全くありません。「良い仕事を見つけることができた。」それだけでした。どの仕事だって、どの役職だって苦労があるのは当たり前。どんどん仕事を任せてもらうことが本当に嬉しかったです。ある時、1人で仕事をしているときに、涙を流したことがありました。「本当に良い仕事を見つけて良かった。」と。やりたい仕事をとことんやれるという事は本当に幸せだと思いました。そして、さらに幸せな事がありました。なんと、子宝にも恵まれたのです。

杜氏一年目

蔵人の中でも責任者を杜氏(とうじ)、その下に頭(かしら)といった役職があります。私には「やりきる。」といった強い気持ちと覚悟があったので、掃除だろうが洗濯だろうがどんな仕事でも一生懸命やっていました。この酒造りの世界では、1人前になるまでに最低15年かかると言われていました。杜氏と頭が担当者を決めていくのですが、その姿をちゃんと見ててくれていたんだと思います。ちょうど15年目に杜氏に任命されました。新潟から杜氏がくるスタイルから歴史が変わる瞬間です。大きなプレッシャーを感じました。良いお酒が造れるか不安で夜も眠れない日々でした。

1年目はとにかく怪我しない、体調を崩さない、やり切ることを目標に据えていました。無事1年間務めることができましたが、その結果、無難なお酒ができてしまった。品評会へ出品しましたが、評価はされない。他の蔵のお酒と飲み比べて「これではダメだ。」と悔しい想いを抱きました。長野県には約60の蔵があり、60の杜氏がいる。当時1年目でしたので、「自分が一番下っ端なんだ。一番下手くそなんだ。」と割り切り、誰よりも頑張らなければならないと、自分を鼓舞していました。

美味しいお酒を

「なんとか賞を取る。」と決意し2年目が始まりました。ですが、ある時「賞を取るよりも普通に飲んで美味しいお酒を造ろう。」と意識が変わり、その瞬間に心がすっと楽になりました。もし賞が取れなくても自分が全ての責任を取れば良い。それが醪(もろみ)にも伝わったのだと思います。9月の長野県清酒品評会でまさかの首席優等賞を受賞!長野県一位です。岩波酒造初の快挙でした。

恐らく長野県中の蔵が驚いたと思いますし、何より自分が一番驚きました。(笑)10月には国税局の関東信越鑑評会があり、それも長野県一位。ダブルで長野県一位です。本当に驚きました。もともと新潟の先輩が培ってきたやり方や教わったものがベースになっていて、それに私の少しの工夫、周りの努力が掴んだ賞だと思っています。

心に響くこの一盃

お酒は人の心に響くものだと思っています。飲んで心が温まる。悩んでいることが小さく思えたり、言えないことが言えたり、精神にも届くものだと思っています。この世の中は色々な人の頑張りで成り立っています。そういった人に美味しいお酒を飲んでもらって「明日も頑張ろう」と前を向いてもらう。そういった人が増えればもっと社会は良くなるのと思っています。自分にとって酒造りは一つの社会貢献です。

プライベートの私

休みの日にはギターを弾いたり、サイクリングをしています。きれな風景を撮ってSNSに上げています。以前、友人がきのこ鍋を作って振舞ってくれた時に、その美味しさにものすごく感動しました。それから山に入ってきのこを取り、食べることも趣味の一つです。
今は辞めてしまいましたが、岩波酒造に入社してから、旨い酒を造るには強く正しい精神と肉体も必要だと思い、空手を習い始め、黒帯2段までとりました。音楽を楽しむ、運動する、自然と親しむ。そういった感覚が五感を研ぎ澄まし、心に響く酒を造る事に繋がるのだと思っています。

佐田杜氏のブログで日々の酒造り様子がチェックできます!
■杜氏のブログ 心に響くこの一盃

壁を乗り越えた先に|四季旬菜酒場「壱」 山田 一世

現実とのギャップ

出身は松本です。学生時代は、小学1年生から野球漬けの日々でした。中学3年生の引退の頃には野球推薦で進学する高校が決まっており、高校入学式前から内定している県外の高校へ入寮し、練習も参加していました。ですが、直前で入学取り消しがあり、一転、県内の高校へ入学することとなります。その後、もちろん野球部に入部しましたが、1年生の夏に退部の決断をしました。県外の学校ではない事にモチベーションが下がってしまった事や、自分が目指したい場所とチームが目指している場所のギャップがありました。この時期はずっと悩んでいましたね。全てのことが嫌になってしまった。学校に行くことも、野球をすることも、、。野球をする為に学校へ行っていたので、難しい時期でした。
この時期に食と携わるきっかけがあります。

卒業後の進路

野球を辞めてから目的も無く学校へ行く毎日。そんな生活の中、バイトをしようと求人誌を開きました。祖母が調理師免許を持っていて、家で料理を手伝っていた経験もあり、昔から食には馴染みがありました。そんなこともあり、数ある求人の中からラーメン屋を選びます。週6、7でバイトしてましたよ。(笑)


ですが、ある時店長が急にいなくなってしまう事件が起きました。いつも通り出勤するとお店の鍵が開いていない。本部に電話したところ「今日は閉めて。」と。それからこのお店では働く事が出来なくなりました。高校生でしたが、ほぼ日中バイトをしていたので稼げないのは困る。その時ちょうど知り合いの出している居酒屋が求人を出しており、新たにバイトを始めることとなります。
高校卒業後は、飲食以外の職種を考えていましたが、飲食店の楽しさに惹かれ、バイト先を運営している会社に就職することとなります。

経営の難しさ

居酒屋では主にキッチン業務を担当していました。1つのお店でずっと働いていたわけではなく、グループ内の様々な店舗で働いていました。労働時間は長いし、給料は安いので心身共に辛い時期はありましたが、毎日成長できる場所でした。出来ない事が出来るようになる。お客様が感謝をしてくれる。それが原動力になっていました。この会社では2年ほど働き、退職を決断します。当時は「自分のお店を持ちたい。」という気持ちはありませんでした。

次に選んだ道はラーメン屋でした。北海道のラーメン屋でしたが、松本に出店する事が決まり、経験のある僕に話が舞い込んで来ました。店長業務です。本当に辛かったです。経営について意識しなければならない立場になったので、お客様に喜んでもらう事だけを考えていた以前とは全く異なる世界でした。
また、給料が出ない時期もあったので、貯めていたお金でなんとかやりくりするような状況でした。なので、酒に逃げるか、今の状況を愚痴るか。そんな状況でした。休みは無いし、給料も出ないし、挙げ句の果てに北海道へ異動になるしと、体力的にも、精神的にも大変な時期でした。
1年ほど働いていました。

先輩の姿

その後、60席ほどある豊科の居酒屋で4年弱ほどお世話になります。高校卒業後、働いていた居酒屋の店長が「自分がスタートした場所。」ということでこのお店を紹介していただきました。きっちりとした和食を出しているお店です。今までのお店は全てがマニュアル通りでしたが、このお店は何も決まっていないので、自分でお皿を選んで、盛り付け方を決めてと真逆のお店でした。今までの飲食人生の中で一番勉強しましたね。本を買って、他のお店へにも積極的に食事に行きました。今までのように全てやらせてもらえる環境では無く、技術が無ければやらせてもらえない。社長が板場をやり、先輩が揚げ場。僕は主に補助の立場でした。とにかく先輩に追いつかなければならない。この気持ちだけでした。


最後の2年ぐらいで社長が担当していた板場を任されるようになりました。自分で献立を組んで宴会をこなしてと、やれることの幅は確実に増えていきました。当時、22歳の時です。
社長の考えは「同じお客さんに、同じ料理を出すな。」ということでしたので、予約の年齢層、男女比、常連なのか新規なのか。色々なことを考えて、メニューを決めていました。しんどい時期は何度もありましたが、この経験がなければ独立の想いは絶対に生まれなかったと思います。

開店までの壁

とにかく「自分のお店を持ちたい。」という気持ちが強かったです。失敗のリスクの方が考えましたけど、失敗して借金を背負っても返せるなと。死ぬほどのリスクでは無いなと思っていました。ですが、開店まではスムーズにいかずいくつもの壁が待っていました。特に人材、店舗探し、融資の面です。人材に関しては、一緒にお店をやる予定だった人が「違う業種にいきたい。」ということで、また0から一緒にやれる人を探さなければならない状況になったこと。


店舗探しでは、以前働いていた飲食グループの1つのお店が空くとのお話をもらって、その場所で開店することを考えていました。ですが、直前になって大手他店に先に契約されてしまった。一緒にやる人もいないし、この時点で独立を諦め、前のお店に戻ることもできたのですが、それはかっこ悪い。その時に、1人でお店をやることを決めました。なので、物件も想定していた席数の半分ほどで探し始めました。
融資では、年齢の若さもあって、門前払いで話を聞いてくれない銀行もありました。商工会議所にも相談しましたが、「厳しいのではないか。」といったお話しかできませんでした。たまたま知り合いの方を通して、ある銀行の支店長とコンタクトを取れる機会を得ました。その場でアドバイスを頂き、それからやっと話が進んでいきました。
困難なことは本当に沢山ありましたが、ここまで来たら、やり切るしか無い。見返してやりたい。その気持ちだけでした。

何か変えなければ

ついにオープンです。オープンから最初の時期は、知り合いがきてくれたり、新しいお店目当てに来店されるお客さんがいたりと忙しくさせてもらっていました。ですが、ある程度の時期が経つと暇な日が出始め、大きな不安を抱える毎日でした。当初思い描いていたイメージとは全然違いました。


ですが、駅から離れた場所なのに僕がいるからきてくれたり、僕のお店が好きで来店されるお客さんもいらっしゃいました。その方達の「また来るね。」「美味しいね。」の一言があったから辛い時期も頑張れたと思っています。何かを変えなければならない中で、1年程で移転を決めます。
移転後、お客さんの層も変わりましたし、宴会も取れるようになってきました。メニューもガラッと変わりました。振り返ってみると、1年目の自分はカッコつけていた部分が多くありました。周りが老舗が多く、綺麗な料理を出しているお店が多くあったので、「負けたく無い。」という気持ちで、お客さんに向き合うというよりは、他店を気にしてメニューを作ってました。移転後は、仕入れ先を変えるようになって、食材にもよりこだわるようになりました。シンプルにお客さんのニーズと向き合うようになった結果、自分が出したいものとのギャップがあることに気づいたんです。

今、美味しいものを

大切にしていることは、自分が現場に立つことです。僕がいるから来てくれるお客さんがいる中で、その期待にはしっかり応えなければならない。お客さんの表情、会話などは現場にいないとわからないことです。自分で聞いて、自分で見ることは大切にしています。
また、シンプルに美味しいものを提供したいと思っています。日本は四季があるので、その時美味しいものを食べてもらいたい気持ちが強いです。お店のロゴにも春夏秋冬をモチーフにしたロゴを採用しています。今、旬が無くなってきている食材もあります。夏野菜でも、技術の発展で冬にも栽培できるようになったり、気温上昇によって冬の魚が春に捕れたりといったことです。今美味しいものを提供することを心掛けています。


育成にも力を注いでいます。働いてくれているスタッフが成長できる場を作りたいと思っています。自分自身が先輩に育ててもらったからこそ独立できた想いがありますし、業界をみても若い人が少ない。「自分のお店を持ちたい。」想いを持ってくれる人を1人でも増やせればと思っています。そういった熱い想いを抱えている若い人達で松本を盛り上げたいと思っています。

私のプライベート

海外に行きたいです!暖かいところが好きなので。グアムには毎年行っています。やっぱ良いですね、、。(笑)老後で良いので、暖かいところでお店を持ちたいと思っています。(笑)
野球は今でも本気でやっています。(笑)企業さんのチームが出るような高いレベルのリーグで戦っているので、いつでも本気ですね。(笑)

娘たちの存在|小さなパン屋さん「weggli」小野 綾子 #2

 

踏み出した第一歩

プレオープンの時は、正直不安で一杯でした。事前告知は、ポスティングのみ。日時と、「パン半額」を記載し、1人で近所のご家庭のポストへ入れていきました。果たして本当に「当日、誰か来るのかな」と。そんな気持ちしかありませんでした。前日には、何種類ものパンの段取りをノートに書き出し、待ちに待った当日。


オープン時間には、すごい人がお店の前に並んでたんです!嬉しい悲鳴ですが、レジをまだ慣れていない状況で、オペレーションもままならない状態でした、、。あっという間に完売です。今後のオペレーションなど課題を多く感じましたが、「やっと、スタートが切れた。」とそんな1日でした。

酒粕でパン作り

天然酵母にこだわっています。自家製の天然酵母パンを作るのには時間がかかるけれど、味はやっぱり美味しい。このハードルの高さに惹かれて、パンを作り始めてから「いつか天然酵母で作りたい。」と思い続けていました。

試行錯誤の日々でしたが、初めて作れた時は、「本当に出来た!イースト使わずに出来るんだ!」と、超感動したんです!(笑)それからは、自分好みのパンを目指して、様々な挑戦をしました。培養する酵母によって味は全く異なるので、レーズン、いちご、人参等様々なもので、試していました。最終的に落ち着いたのは、酒粕。季節によって、室温等の変化があるので、当初安定した味を出すのが難しかったのですが、今では夏の暑い時期も納得できるパンを提供できています。この酒粕を酵母に使ったパンをめがけて、来店してくれるお客さんも多くいらっしゃいます。

ミルキーフランス

一番想い入れのあるパンは、ミルキーフランスです。


以前、宅配パン屋の仕事をしていたときに、本当に好きなパンだったんです。自分が好きなパンだったので、売り歩くときもお客さんにすごい勧めやすい。ミルキーフランスを山のように仕入れていました。(笑)その記憶があったので、「パン屋をやるときにはお店に置きたい。」と思っていました。当時の味を再現しようと、試行錯誤。今では、納得のミルキーフランスを置くことができています。常時置いているパンです!!(笑)

誰もが、日常的に

パン屋は日常使いできる場所です。日々のおやつにも、食事にもなる。地域の人に愛されるお店作りを意識しています。お母さんがおやつに「子供に食べさせたい。」と思えるそんなパン屋です。

その為には多くの人が口にできるパンを作らなければならない。今は、アレルギーを持っているお子さんが多くいらっしゃいます。牛乳や脱脂粉乳、卵を入れず、シンプルに美味しいパンを作っています。うちの食パンはパン粥として、離乳食にも使えます。私は子育てが終わった世代なのでわかるのですが、アレルギーを持つお子さんのお母さん達は、色々な苦労をされています。うちのパン屋がその一助になればと思っていて、安心して食べることのできるパンを作り続けたいと思っています。

娘達の言葉

「こんな挑戦をしてしまって大丈夫かな。」と思うことは多くありました。寝られないくらい心配でした。「小野さんやらかしちゃったね。」と言われるのが関の山だと。そこで背中を押してくれたのは娘達でした。「パン屋やろうかな。今まで貯めたお金散財しても良い?」とぽろっと言った時に、「絶対パン屋やった方が良いよ!ママ絶対やるべきだよ!」と何度も言ってくれました。なんの根拠があったのかはわかりませんが、背中を強く押してくれたのは、紛れもなく娘達の存在と娘達の言葉でした。当時の心境を尋ねると、「絶対にママなら上手くやる!」と思ってくれていたみたいです。(笑)

何か挑戦したいと考えている人がいたら、それは是非やるべきだと思います。
「失敗したらどうしよう。」と思い始めると大事な一歩が踏み出せない。そう考えているうちに何年も過ぎて体力的にも厳しくなってしまう。私はパン屋をオープンした時は49歳でした。50歳目前でパン屋を始めたけれども、やって良かったと心から思うし、やらずにパートのおばちゃんになっていたら、どこかで絶対後悔していたと思います。一生後悔する人生になる前に決断をして、勇気を出して一歩踏み出せたことは良かったなと強く思っています。

私のプライベート

ズンバが大好きです。(笑)

フィットネスのプログラムの一種で、ラテン系の音楽や、洋楽の曲に合わせて踊っています。すんごい楽しいんです!(笑)老若男女100人ぐらいで一斉に踊る時もあるんですけど、汗をたくさんかいて、声を出してと、もうパーリーピーポー!(笑)もう10年選手です(笑)

あとは、釣りですね。海釣りは本当に楽しいです!海は得体の知れない魚が釣れたりするので。釣りは時間が限られているので、なかなか行くことができないですが、時間が取れればすぐにでも行きたいです、、、。パン屋を辞めたら海辺に別荘を借りて、釣りをする日々、、そして、近くにフィットネスがあればもう最高ですね!(笑)

最後に一言

小さなお子さんでも安心して食べていただけるようなパン作りをしています。お店に入って大きく深呼吸をしてみてください!幸せの香りがお迎え致しますので、是非weggliにお越しください。お待ちしております!

「パンを作りたい。」|小さなパン屋さん「weggli」小野 綾子 #1

小さなパン屋さん weggli
小野 綾子

退職の決断

出身は松本です。高校卒業後は、「トリマーになりたい。」と思っていました。ですが、当時は専門学校が東京、名古屋ぐらいしかなく、親からは「家から出さない。」と言われていたので、その夢は諦め、地元企業へ就職を決めました。出産を機に退職となりましたが、その会社には10年弱勤めていました。自分は企業の小さな歯車でしかない中で、このままなんとなく勤めていくよりも、結婚して、子供を産んで、子育てをしてという方が魅力的に映りました。30歳手前での決断でした。その時、食に携わりたいという気持ちは全くありませんでした。

将来への不安

それからガッツリ子育てをしていました。ですが、子育てをしながらも手に職がない状態で、「次はなんの仕事をしよう。自分には何にも取り柄が無い。」という不安が強くあり、自分自身が社会に取り残されている様に思えました。


強い危機感を抱いている中で、子育てと並行して仕事ができるワープロを使った日本語文書処理の資格を取ることにしたんです。ゲーム感覚でやれるのが面白くて、夢中でやっていましたよ。(笑)その後、たまたまご近所の奥さんから職場の紹介を受け、文書処理の仕事を始めることとなります。印刷会社に持ち込まれた文書をデータする仕事です。15年ほど勤めていました。楽しかったですね!(笑)子育て中、抱いていた危機感から「何かやらなきゃ。」とたまたま勉強し始めたことが、これだけ続けることができたのは、本当に運が良かったと思います。

幼き記憶

パンを作り始める大きなきっかけは、ヤマダ電機のポイントです。(笑)自宅の電子レンジが壊れてしまって、ヤマダ電機へ買いに行ったところ、ポイントが貯まっていることに気づいたんです。このポイントでオーブンレンジを購入しました。帰宅して、説明書を読むと、「パンが作れる!」と。(笑)


思い返すと、小学生の頃、兄と一緒に小さいトースターでパンを焼いた経験がありました。パンが焼けた瞬間に感動したのを覚えていますが、それよりも「パンって難しい。」という感情の方が大きかった覚えがあります。当時は失敗したけれど、「焼いてみたいな。」と思い挑戦したんです。レシピ通り作ったら、これが美味しい。それから本当にハマり、週末になると朝からバシンバシンとこねて、発酵させてと、1年くらい毎週末作っていました。
その時初めて、「パンを作るのがこんなにも楽しいなら、仕事にしたらもっと楽しいかも。」と思い始めました。
この時は、まだ文書処理の仕事をしていたので、土日だけでもどこかのパン屋さんで勤めることができないかと仕事を探していました。後に、小さなパン屋で働くことになります。

クープの魅力

パン屋さんでは、基礎をしっかり学ぶことができました。パン生地を丸める作業は、美味しく作るには基礎の作業です。1日何百個とやっていたので、基礎をしっかりと身につけることができました。ですが、勤めてからの4年間は、主に配達や雑用でした。
パン作りのレベルアップの為に情報収集をしていると、とあるブロガーさんに出会います。

その方は主婦ですが、もの凄くカッコ良いパンを作る。とにかく、美しい。クープ(※)がメリッと開いているフランスパンがとても印象的でした。でも、家庭用のオーブンでこのクープを作ろうとしても絶対に開かないんです。見よう見まねでブロガーさんの作り方を実践してみたこともありました。100均で使えそうなグッズを買って、オーブンをアレンジしてみてと、、、。でも、何時間も発酵に時間をかけて、いざオーブンを開けてみると2割ぐらいしかうまくいっていない。こんな大変な思いしなければ焼けないのであれば、もう諦めようと。それからしばらくフランスパンから離れていました。

※クープ:パンを焼き上げる工程で、ふくらんだ時に表面が割れたりしないよう、焼く直前にパン生地の表面に入れる切り込みのこと。

「パンを作りたい。」

しかし、パン屋に勤めて5年目。社員が1人退職してしまい、パンの製造業務に本格的に携わるようになります。それが業務用のオーブンではいとも簡単にクープの開いたカッコ良いフランスパンが焼けるんです!(笑)

あの頃何年もかけて必死にやってきたのに「業務用オーブンだとこんな簡単にクープが開くのか。」と。70cmの本格的なフランスパンもバシッと焼けるのは快感以外の何ものでも無い。業務用オーブンの威力を知ってしまうわけです。ですが、あることをきっかけにこの年に、そのパン屋を退職することになります。そうすると業務用のオーブンは使うことが出来ない。
「フランスパンを焼きたくて、焼きたくて、、。」もう「作りたい!」という渇望です。せっかく覚えたのにもうあのパンを焼けなくなると思うと、もったいないし、技術も忘れてしまう。でも、逆にあのオーブンさえあれば焼ける。(笑)それからネットでオーブンを必死に探す毎日です。趣味で焼く為に、100万ほどのオーブンを買って、床を補強してとなるとあまりにも現実離れしている。でも、お店を開いてしまえば、業務用のオーブン買えるなと。(笑)「もうやっちゃえ!!」という勢いもありました。どうしても業務用のオーブンが欲しかったんです。(笑)

 

ルーティーンの意味|FIFTY-ONE COFFEE 佐藤 等

私のルーツ

生まれた場所は仙台です。ですが、父が転勤族だったので、ほんの少ししか仙台にはいませんでした。仙台での記憶はほとんどなく、住んだ期間が長いのは愛知県ですので、出身は愛知県と言っています。
小さい頃から野球がずっと好きで、愛知県に住んでいたこともあり、中日ファンでした。父は巨人ファンですが、、。(笑)ごく普通の学生生活を送り、高校卒業後は、環境問題に興味があったので、関東の大学に進学しました。
当時、コーヒーや食の仕事をすることは、全く頭にありませんでした。

衝撃の1杯

コーヒーに興味を持ち始めたのは、大学時代です。とんでもなく美味しいコーヒーに出会ったんです。(笑)卒論を書くために研究室にこもっていた時でした。その大変だった時期に、1つ上の先輩がコーヒーを淹れてくれ、その1杯が超美味しかった。

「これなんですか!?」と聞くと、その先輩はドリップでコーヒーを淹れてくれていたのです。衝撃を受けましたね。それまで缶コーヒーやインスタントコーヒーは飲んでいたのですが、この1杯を頂いてから、コーヒーに興味を持ち始めました。本格的なコーヒーとの出会いです。ですが、卒業後にいきなりコーヒーに関わる仕事を始めようと思ったわけではなく、趣味の1つになったような感覚でした。
卒業後は、技術系の仕事に就きます。

コーヒーを仕事に

技術系の仕事をしながらも、徐々に「コーヒーを仕事にしたい。」という想いが強くなってきた訳ではありません。きっかけは、30歳を過ぎた頃から、当時の仕事に対して「この先このままで良いのかな。」と考える時期があったことです。

今までを振り返った時に、自分に向いているか向いていないかはわからないけれども、仕事にストレスを感じている部分があって、「本当に自分がやりたいことはなんだろう。」と考え始めました。その時に、「好きなコーヒーで仕事をやりたい。」という想いが初めて出てきて、思い切って業種を変えた転職を決断しました。当時、32歳の頃だったと思います。
転職当初は「独立したい。」という想いでは無くて、「コーヒーに関わる仕事をしたい。」という想いでした。なので、3年程、自家焙煎のコーヒー店で焙煎を担当していました。なかなか焙煎の募集は無いのですが、たまたま募集を見つけることができて、「チャンスだ!」と飛び込んだことがきっかけです。

独立の道へ

働いている中で、「自分のお店を持ちたい。」「自分の味を出したい!」と感じるようになりました。欲が出て来たのかもしれません。(笑)
自営業をする決断をしたのは、このようなことを考えている時期に、親族の空き家の話があり、「このチャンスを生かしたい!」と思ったからです。その空き家は、今のお店にあたるのですが、もともと私の父の実家です。私の祖父が、この場所で八百屋をやっていたのですが、亡くなってしまい、空き家になっていました。もちろん自営業をやるリスクはありますが、会社を立てたり、人を雇うような大きなリスクではありません。自分にしか責任が来ないので、「ダメだったらしょうがない。また、違う場所で働けば良い。」と割り切って決断ができました。開き直りの面がありますね。(笑)

前にやっていた仕事と、この仕事を比べた時にどっちが幸せかを考え、自営業にして自分でやることの方が良いと考えました。当時、35、6歳の時です。もし、家族がいれば、家族の想いもあるので、好き勝手動くことはできなかったと思います。今も残念ながら一人ですけど、、。(笑)

店名の由来

僕自身、野球がすごい好きで、お店を開く時は、「野球に関する店名をつけたい。」という想いがありました。野球選手の中で1番好きなのが、イチロー選手。象徴的な背番号は「51」です。

その名前をつけて、「FIFTY-ONE COFFEE」と読んだ時にすごい語呂が良くて、「カッコ良い!」と。イチロー選手を好きになったのは、愛知に住んでいたということもあるのですが、選手としての凄さに惹かれていました。
イチロー選手はルーティーンを大切にする選手としても有名です。ルーティーンと聞くと、単純作業というイメージを持たれる方がおられると思いますが、実は逆です。自分のベースを理解しているかどうかの判断基準になるんです。ルーティーンを毎回続けることによって、何かズレが合った時に、自分でわかる。その時に、どこを修正すれば良いかを理解できる。なのでルーティーンは、とても大切なのです。パフォーマンスを最大限発揮するための目安になっているのです。

私のルーティーンは焙煎の中にあります。常に決められたルーティーン焙煎というものがあり、気候や豆の状態などで、味にズレがでる時に、「どうしたら出したい味がでるのか。」が見えてきます。なので、ルーティーンを決めるということはすごい大切で、ベースを維持するための基準になります。イチロー選手は、選手としてすごいだけでは無く、物事の考え方や会見の言葉などが自分の仕事に置き換えることができるので、それがとても勉強になっています。

余談ですが、イチロー選手のレアな試合を小さい時に見ています!松本市の松商学園とイチロー選手の母校である愛工大名電の甲子園での試合を見に行ったことがあります。当時はまだ有名ではありませんが、、、。今思えばすごい試合を見たなと。(笑)

日常の一部に

「コーヒーをお客様のライフスタイルの中で楽しんで欲しい。」という想いが強いです。なので、スペシャルティコーヒーに特化するといったことなどはせず、焙煎度合い(ロースト)や販売価格のバランスをとって幅広く展開しています。

ご来店された時に、お客様のお好みにどれか1つでも合うことを大切にしていて、バリエーション多く豆の種類を取り揃えています。お店に来れば、何か1つでも好みに合うものがある。そして、「ここのコーヒー、やっぱりうまいね!」と言っていただけることが僕にとってすごく嬉しいことです。お客様のペースで定期的に日常使いができるお店になっていきたいと思っています。気軽に入れるお店を目指しています。

私の逸品

当時、研究室で飲んだコーヒーが今でも1番好きなコーヒーです。キューバの「クリスタルマウンテン」というコーヒーです。正直、お値段の高いコーヒーです。(笑)今、色々なスペシャルティコーヒーが飲める時代になりましたが、クリスタルマウンテンが僕の中ではベストです。

大学時代の衝撃はもちろんあるのですが、色々なコーヒーを飲んできた中でもやっぱり1番美味い。不思議なんですけどね、、。(笑)当店でもクリスタルマウンテンを開店時から販売していましたが、数年前に天候不良等ですごく仕入れ価格が上がってしまって、今は販売していません。その代わりにキューバの一般品を置いています。クリスタルマウンテンの価格が落ち着いてきたら、また、復活させたい想いがあります。もう少しお手頃な価格でお客様が手に入る価格になればと思います。このコーヒーは僕の中で、特別想い入れのあるコーヒーなので、「お店を開く時に必ずキューバのコーヒーは置きたい。」と思っていました。早くクリスタルマウンテンを置くことができればと思っています。

「やりたい。」を実現する為に

まずは、妄想することが良いと思います。自分が「やりたい!」と思うことがあれば、強く妄想してみる。妄想した上で、ちょっと現実に戻って、「果たしてそれが自分に出来るのか。」と冷静に考えてみる。妄想する自分と、見つめ直す自分を作り上げて比較すると見えてくるものがあると思います。良いことばかり考えると失敗する。失敗するというか、何かあった時に修正しづらくなる。両方の視点で考えて、「いける!」と思った自分がいれば、やって良いと思います。ハッキリしなければ辞めた方が良いと思います。

勢いは必ず必要です。きっかけを逃すともう実現できないかも知れないので。ここまで考えて生まれた決断ならば、仮にうまくいかなくてもまた次に進む力が出るし、学びも大きいと思います。

これからのコト

まだ、夢物語ですが、移動販売をやりたいと思っています。お店を2週間ほど休みにして、東北に行ったり、関東に行ったりと場所を限定して、コーヒーを販売したいと思っています。映画で「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」という映画が大好きで、その影響を受けています。ちなみに妄想の中では見えています。(笑)

InstagramなどのSNSを活用して情報を発信していきながら、営業をするのも良いかなと。自分も旅しながら、営業をすると言うスタイルが面白いかなと思います。まだ、妄想段階ではありますが、オープン10年目ぐらいを1つの目安にしたいと思っています。トラック1台買ってと。頑張ります!!!

私のプライベート

当初はコーヒーが趣味でしたが今は趣味を仕事にしたため、今の趣味は「スポーツ観戦」となります。特に野球が好きでシーズンが始まるとプロ野球とメジャーリーグ双方の試合結果に一喜一憂するなど忙しくまた激熱な日々となります。(笑)
このほかにはサッカーも好きでやはり松本市のチーム「松本山雅FC」を応援しています。営業日の関係でなかなかアルウィンに行くことはできませんが「One Soul」魂で勝利を祈っています!

また相澤病院さんが当店近くにあることもあり、スピードスケートの小平選手も応援しています。
スポーツはやっぱりいいですね~!!!

最後に一言

色々なコーヒーの楽しみ方をご提案させていただきます!
ご来店お待ち申し上げます。

FIFTY-ONE COFFEE
■住所 長野県松本市深志3-8-19
■営業時間 11:00-18:00 木曜日・第3金曜日、年末年始 ※臨時休業あり
■TEL 0263-87-2537

コーヒーが持つ不思議な力|TRACK Coffee 村田 容充/村田 亜希

インタビューをお受けするにあたり、、、
わたしたちのお店のルーツは、自分たちの心の中に留めておくべきだと考えていました。
しかしながら、せっかく頂いた機会ですのでお話しさせていただきます。

仕事と生活

村田容充(以下、T):出身は、大阪府枚方市です。大学卒業後、大阪本社のメーカーに就職し首都圏にて勤務していました。その後、30代で結婚後、息子を授かりました。私が働き方を考え始めるきっかけとなったのは、その息子の誕生です。

残念なことに息子は先天性の疾患を持って生まれてきました。生後間もない頃より大きな手術が続き、入院生活も長く在宅している時も通院と介護が続きました。容態が難しい時期もあり本当に壮絶な日々でした。彼が入院中は親ですら面会時間が短く仕事後では面会時間に間に合わず、さらに、週末の休みも取れない週が続くと息子に会うことが出来なくて、当時は本当に辛かったですね。そういった生活を続けている中、妻が体調を崩してしまい、会社の理解もあり介護休暇を取らせてもらえることになりました。とてもありがたかったです。
その頃より「果たしてこの生活を続けていて良いのだろうか。」と思い、このまま復帰するのか、自宅で息子を診ながらできる職業はないだろうかと、考え始めるようになりました。
焦る気持ちも正直ありましたが、時間を作ってはセミナーの受講や通信講座を受けながら模索していましたね。

不思議な力

村田亜希(以下、A):息子が入院中、病状が思わしくないときは病室に泊まり込んでいる時期もありました。主人が付添いの交代の際にいつも温かいコーヒーを持ってきてくれ、その時飲むコーヒーは、特別温かく感じました。
あらためて「優しい人だな。」と思い、コーヒーは美味しいのはもちろんですが、時には人の心を満たすものだと思いました。
今は大きな病院へ行くと大手コーヒーチェーン店さんが入っていますが、当時は本当に寂しい感じの食堂や自販機の缶コーヒーしか無く、それでも温かい飲み物が飲め、また、主人が持ってきてくれたコーヒーはありがたかったことを覚えています。

T:疲れている時にコーヒーがあるとホッとしますし気持ちを切り替えることができる。
コーヒー1杯に助けられた気持ちがあります。この経験は大きかったと思います。

長野県に来た理由

T:長野県に来た大きな理由の1つは、小児の高度先進医療施設、こども病院があることです。
私たちが長年暮らした横浜市の他に、静岡、兵庫、福岡、仙台、埼玉とありましたが、当時の主治医の先生から長野こども病院の専門医の先生を紹介して頂いたことがきっかけです。
そして何よりもこの自然豊かな環境で息子を育てていきたいと考えたからです。


また、長野県には、学生の頃よりスキーや合宿、登山で訪れる機会も多く、スキー場でもかつてアルバイトをしていました。関西の人にとっては意外なことに長野はとても身近な場所でもあるのです。

A:安曇野で暮らすようになってからも、神奈川のこども医療センターで手術を受ける必要があり横浜に戻る期間がありました。息子も調子が悪い中、環境が変わり検査、手術、治療が続き精神的に不安定になっていました。彼は言葉を発することはできませんが、「安曇野へ戻りたい」と必死に訴えていました。


私たち自身も親類や知人もいない中で、出会った方たちの温かさや繋がりを感じこの環境が一番。他では暮らせないと思いました。朝起きた時に見える山々。清々しい空気や風。広い空。夜にはこぼれてきそうな星空。
雄大な自然に抱かれた地域は日本中にはきっと他にも多くあるかと思いますが、私たちが辿り着いたのは安曇野でした。

“TRACK”…日常の通り道

T:店名にしている“TRACK”は列車の線路、軌道という意味の他に、や動物の通り道、人生の航路という意味もあります。日常の通り道のように、街の方も旅の途中の方も、山の方もフラッと立ち寄って頂きコーヒーを飲みながらホッと過ごしてもらえたら良いかなと思っています。特別なものはありませんが。
そして、お子様からご年配の方まで入りやすい場所でありたいです。テイクアウトもして頂けます。

A:小さなお店ですが、お客様には自然や季節を感じながら寛いでいただきたいです。
大昔になりますが、20代はじめに数か月間過ごしたシアトル近郊の町には地元の方や学生たちが集う居心地の良いカフェが多くありました。季節の植物が店先に咲き、開放的な空間で地元の方に慕われて日常に溶け込んでいましたね。
私たちのお店も風が通り抜けお客様にとって心地よい日常の通り道でありたいです。

ブラボー Bravo!

コーヒー片手に気軽に食べていただけて、コーヒー泥棒(笑)になるようなホームメイドのお菓子をつくりたい一心でできあがったのがブラボーです。
製菓の勉強をした訳ではないので、とにかく試作、試作、試作...を重ねました。
初めは丸い形のシュークリームからはじまり、他にもクッキーシューなど生地づくり、クリームづくりと試行錯誤して作っては、知人や友人たちに試食してもらい、率直な感想や意見を糧に作っていきました。


最終的に行き着いたのがクレアタイプで、かつザクザクとした香ばしい生地の食感を楽しんで頂けるように、ご注文をいただいてからクリームを詰める現在のスタイルとなりました。
「エクレール」は仏語で「雷・稲妻」の意味で、その名前の由来には「稲妻のように素早く食べるべし!」との意味で名付けられた説もあるとか。
「ブラボー」、コーヒー片手にブラブラ歩きながら気軽に食べれるボウ状の、そして思わずブラボー!
と感じていただけるおやつだと嬉しいです。ありがたいことにこの地域は地元の小麦粉、たまごを使えること、添加物は一切使用しないこともポリシーです。

わたしのプライベート

T:もともと身体を動かすことが好きです。短い時間でもジョギングなど体を動かすようにしています。
山に行く機会も増やしていきたいです。
息子ともできる限り自然の中で過ごせる時間をつくりたいですね。この春、彼の卒業記念に仲間たちにサポートをしてもらい息子と一緒に山歩きができたことは家族にとっても良い思い出になりましたね。

最後に一言

Coffee-your pathway to happiness!!!!
ハンドドリップコーヒー、エスプレッソメニューもいろいろございます。
気分転換などに気軽にお越しください!お待ちしております!

全てにこだわる|焼肉ハウス「大将軍」#2 坂下 拓也

1つの転機

出身は、富山県富山市です。小学生まで富山市に住んでいました。父親が転勤族だったのもあり、中学生からは、長野県長野市で暮らしていました。高校を卒業するまでです。
ずっと小中高とバドミントンをやっていて、スポーツマンでした。勉強は好きではないが、できなくもない。そんな学生でした。
高校時代を振り返ってみると、「とりあえず大学を出れば、就職も困らないかな。」と思っていたので、勉強したいことも特にありませんでした。そんな気持ちもあって、大学は推薦で楽に入学できるところを選びました。福井県の大学です。しかし、大学に入学する前に1つの出来事がありました。それは、入学式の数ヶ月前に両親が離婚したことです。

「大学のお金はどうするのか。」「母親、父親どっちにつくのか。」様々な問題がありましたが、その時考えたことは、「俺は、俺の人生を歩む。誰にもお世話にならない。」といったことです。親達が離婚したせいで、俺が生活できないとなったら、ヒモか何かでしかない。そういうのは好きではないし、学費は俺が出す。家賃も俺が出す。そんな想いでいました。ですが、どうしたって、お金が減っていく中で、1番最初に何が困るかというと、腹が減ること。
本当に。どんだけ一生懸命にやろうとも、能力が高かろうとも。これはそういう環境に身を置いた人にしかわからないと思います。

店長の一言と一杯のレタスチャーハン

腹減ってどうするかというと、大学生な訳だし、賄いのあるところでバイトするしかない。浅はかだね。(笑)「今日から働かせてくれないですか。」といろいろなお店に掛け合いました。時給は少なくても良いから、とにかく賄いが食べられるお店で。そんな中、1番最初に働いたのが、あるチェーン店の中華料理屋でした。
その店長さんも、学生の頃苦労されたみたいで、今までの事を伝えると「気持ちはわかるよ。」と話していただき、出勤初日にレタスチャーハンを作ってくれました。面接に行ってから、次の日です。


そのレタスチャーハンを食べた時に、色々我慢していたことや、境遇、自分の情けなさに、涙が出ました。「なんだこれ。なんでこんなに美味しんですか?」と聞いたら、「これはただのレタスチャーハンだ。俺はお前のために作った訳だけど、食べ物で人を感動させられるんだよ。」と。これを聞いて、「俺はこの人みたいになりたい。」と思いました。
必死に生きていたから、この衝撃を受けたのだと思います。人はいきなりガクッと落ちると、必死に生きる。必死に生きてきたからこそ「こういうのがやりたいんだ。」といったことが見つかってくるんだと思います。俺もお金がなくて、腹が減った状態でなければ、食べた賄いはただのレタスチャーハンだったかもしれない。色々巡った中での、店長の一言と、レタスチャーハンの一杯だったんだよね。「ここだな。」と思いました。それから店長に「俺は食べ物屋を目指す。」と伝えました。「学校をやめます。」と伝えたのは、この出来事があった次の日でした。

頑固親父のラーメン屋

中華料理屋さんでは、とにかく偉くなろうと思いました。まずは、もちろんアルバイトからスタートしましたが、店長からは、「誰から見ても、仕事ができるようになったら、社員も良いんではないか。」とお話しをいただきました。その言葉をいただいてからは、本当にがむしゃらに朝から晩まで働いていました。
しかし、働いていくと、「やはりマニュアルに過ぎないな。」という想いが出てきました。これからも真剣に食の道に携わっていくのであれば、チェーン店ではなく、個人店に飛び込んでみる必要があると感じていました。働いて2年ほど経過した時です。当初の約束通り、「社員になるか。」という話があったのですが、社員になっても、何も変わらないし、自分に保証がつくだけ。「それは違うのではないか。」と思っていました。

そんな事を思っている中、アルバイトで貯めたお金で食べ歩きをする機会がありました。その中で良いお店との出会いがたくさんありました。ある福井県のラーメン屋さんに行きましたが、そのラーメン屋さんが感動的に美味しかった。「ラーメンでこの美味しさどうした。」と。びっくりしました。オープンキッチンなんですが、驚くほど綺麗で、全員坊主で、ハチマキを巻いて、一切笑顔が無い。この姿を見て、「この人たちカッコ良いな。」と強く感じました。これが頑固親父がやっているラーメン屋というやつかと。それから、ずっとチェックしていました。その時は、社員を募集していなかったのですが、数ヶ月後に募集がかかっていました。「これだ。」と思って、すぐに面接をさせていただきました。面接が終わると「明日から来なよ。」とお話をいただきました。その時、返事はしたものの、バイトはあるし、「どうしうよう。」と。
そこで、店長に「良いお店があったので、行きたいです。できれば明日なんですけど」と話をしました。そしたら、「お前のことだから、そう言うと思っていたよ。」と言ってくれて。
それから、一気にラーメン屋の方に頭が切り替わりました。

小さく芽生えた想い

そのラーメン屋は何もかも手作業でやるお店です。厳しいお店でした。寸胴の洗い方一つでも、とにかく怒られる。見える景色が全く異なりました。「今まで何やっていたんだろう。甘く無いな。」と感じました。ある日、親方に、「何がそんなに駆り立てるんですか。」と質問したら、「そりゃ、借金だろう。今日、お客さん来なかったら潰れるんだぞ。」と。もう必死さで負けている。ラーメン屋では、渾身の1杯を「これでどうだ。」とお客さんに出して、その対価として、お金を頂く。この精神を特に叩き込まれました。プロとは、仕事でお金をもらうことができる状態。自分が作ったこの1杯を出している時点でプロということ。アルバイト、社員といった立場は関係ない。このラーメン屋では約5年働いていました。

働いている中で、ラーメン屋の社長とよくお話する場を設けてもらいました。その時、感じたのは、「社長って超えられないな。」という気持ちです。偉くなりたかったのですが、そういう想いでやっていると、やっぱりどこかで行き当たる。「これ以上は、上にいけないな。」と。それが社長でした。
どんだけ仲良くなっても、どんだけ話し込んでも、結局、立場が違う。社長は「俺の喜びとか、悲しみははっきり言って段違い。」と話していました。これがまた羨ましくて。どこか、経営する立場になってみたいという想いが生まれていました。

自分の人生を振り返ってみて、チェーン店の中華料理屋さん、個人店のラーメン屋さんしか経験していないなと感じました。当時、25歳の時です。これで、自分のお店を出すのは、「まだまだだな。」という気持ちがありました。将来の自分に聞いても、「まだ無理。」と言われる。

衝撃の出会い

これだけ長い間仕事をしていると、”誰と働くか”が大切だと感じていました。今度は、人を見たいと思い、社員で入るのではなく、アルバイトを複数掛け持ちしました。朝、昼、夕方、夜中。多い時は4つ掛け持ちしていました。

面接を色々受けている中で、富山の焼肉屋さんに面接に行きました。このお店で後に、師匠になる人に出会います。最初の面接は店長さん。キッチン志望の旨を伝えましたが、「今は、ホールのアルバイトしか募集していない。」とのお話でした。「キッチンで色々学びたい。」と熱く語ったところ、店長さんだけでは、決定ができないので、社長と話してくれとの話をいただきました。
社長との面接の時です。登場した時に、その怖さに衝撃を受けました。ダースベーダーの曲が流れているかのようでした。(笑)空気が全然違う。「うちのキッチンでやりたいらしいな。アルバイトではなく、社員で来いよ。」と。ただ、仮にこのお店が自分にとって、良くなかったら、お互いにとって迷惑がかかる。その想いを伝えると、「なんだ、俺のお店を試すのか。」と。しかし、ここで押し負けたら、一生ペコペコだなと思っていたので、意を決して「一度、試させていただきたいと思います。」と伝えました。この言葉が気に入ったらしくて、「よく言ったな。俺を試すか。明日来いと。」と言っていただきました。また、明日です。(笑)

大将軍が出来るまで

働いてみると異常にキッチンの人数が少なかったんですね。なぜなら、働き始めても、厳しすぎてすぐ辞めてしまうんです。どんなに頑張っても1ヶ月。正直、「鬼っているんだ。」と思いました。当時、アルバイトで働き始めましたが、1ヶ月、2ヶ月と経った頃に、すぐに親方に「是非、社員として働かせてください。」と伝えました。その時同時に、「僕は30歳になったら辞めます。独立します。その間修行させてください。」と。


以前、働いていたラーメン屋の親方は、お客さんありきの思考でしたが、焼肉屋さんの親方は、料理ありきの思考。「この料理を食べさせて、美味いと思ってもらえなかったら、お前なんて生きている価値がない。」というぐらいの人でした。和食出身の親方でしたが、やっぱり厳しかった。毎日「どうやって仕返ししてやろう。」と思っていましたよ。(笑)
厳しい親方でしたが、厳しいのは俺の為。それがヒシヒシと伝わってきました。厳しくしてくれているのに、厳しくて辞めるなんて、大馬鹿者だと思っていました。厳しいながらも、愛を感じる。がむしゃらに働いていました。
30歳になったタイミングで、親方に独立の想いを話すと、「うちの看板持って行け。」とお話しをもらいました。実はこのお店、富山の大将軍というお店です。「後にも先にも、名前をあげるのはお前だけだよ。」と。それで看板を掲げさせていただくこととなりました。この焼肉屋では、約4年働いていました。
どこでお店を始めようかと考えていましたが、ふと中学、高校の時に長野市に住んでいたことを思い出し、長野市、松本市を中心に物件を探していました。
色々な親方から学んだことを集約すると、物件のポイントは、完全にオープンキッチンで、料理を魅せることが出来る事。それであって、圧倒的な美味さを出したい。その条件で探していると今の物件と出会うこととなりました。お寿司屋さんの居抜きです。

全てにこだわる

お店では、全部を大切にしています。1つに限定できません。お客さんは、綺麗なお店に行くわけでも無いし、美味いお店に行くわけでも無いし、接客が良いお店に行くわけでも無い。そのお店に行く。「このお店良いかな?」って思って来店する。大事なのは、来店したお客さんが帰る時に「良かった。」と感じるかどうか。そう考えると、大切にすべきことは、全部でしょ。手洗いにこだわっていると言って、従業員に清潔感がなければ、「どうした?」ってなるし。全部にこだわっています。

大事にしていることで言えば、日々感謝をしています。お客さんが来てくれるのは普通なことでは無いし、社員、アルバイト関係なく、従業員が働いてくれるのは、普通では無い。
俺は、今まで親方たちに教わってきたわけだけど、ただ、自分でお店を出すだけで、親方と呼ばれるように。それってそんなに簡単な事では無いと思います。「その責任は俺が絶対取るんだ。」という覚悟だけはあります。誰からも、「この人と働いて良かったな。」と思わせてあげたいと思っています。自分自身が親方達に対して、そう思っているので。いつか、従業員が自分のお店を持つようになったり、他の店舗を任せるようになった時に、初めて親方になる。その時に初めて身を以て感じると思うんだよね。そうなった時に恥ずかしく無いように育ててあげたい。そう思っています。全部が普通のことでは無いと思っているし、一生懸命頑張って当たり前でしょ。
人を育てるなんておこがましいと思っています。それよりも、「一緒にいこうよ。」という感じです。仲良くするの好きなんだよね。結局。お客さんと飲みに行くのも好きだし。中には、焼肉屋なのに、週に3回も来てくださるお客さんがいます。美味いのはもちろんだけど、その上で、うちのスタッフがいるから、俺がいるからと言ってくれる。こんなに嬉しいことはないよね。そういったお客さんの期待に応えるにはどうしたら良いか。毎日、毎日同じメニューでは良く無い。もっと品質を上げていったりとか、新しいことにチャレンジしていったりとか、店舗の改装をしたりとか、色々なやるべきことがある。どこにも手を抜けないんだよね。そういう姿を自分が率先してやって、できることならその姿を学んでいって欲しい。その学んだ従業員が自分の味方だったら、こんなに嬉しいことはない。楽しくてしょうがないと思います。

私のプライベート

趣味あるんです。(笑)当てられたことは無いけど。(笑)趣味は、”知らないことを知ること”です。「知らない!」ってなったら居ても立っても居られないんだよね。例えば、「あの映画見た?」とか、「新しいお店行った?」とかそういうことです。ジャンル問わずアンテナを張っています。ジャンルを狭めることは、こだわりではなく、価値観を狭めているだけ。多くの人が関心を持っていることを自分も試してみるのは、人に流されているのでは無い。知らないことは罪だと思っているので、自分が経験した上で、判断すれば良い。引き出しをいっぱい作っておく状態を作ることは重要だと思っています。ちなみに、今年の社員旅行はスキューバダイビングでした。去年は、富士登山。一昨年は、ディズニーランド。(笑)意味分からないでしょ。(笑)ディズニーランドでは、徹底された清掃、接客、イベントなどは見るべき。富士登山は、日本一の山登ってみたいでしょ。(笑)色々な刺激を受けて、考えることは必要だと思っています。

最後に一言

「美味いもの食べたい。」「旨いお酒が飲みたい。」
食の要望がある時は、うちのお店を思い出していただいて、是非足を運んでみてください!
お待ちしております!

自宅のリビングのように|cafe CREEK 平岡 尚志

音楽と過ごした日々

出身は、京都です。大学を卒業するまで住んでいました。大学時代はバンドサークルに入っていて、ハードロックをやっていました。(笑)あまり言いたく無いですけど。(笑)もちろんバンドで生活していくなんて考えもしませんでした。
卒業後の進路は、音楽関係の仕事には興味を持っていたのですが、京都の大学だったので、そう簡単にレコード会社にいけるとは思っていませんでした。銀行などの色々な業種を受けて、入社する会社も決めていましたが、たまたまご縁があり、レコード会社で働くこととなりました。
入社してからは、J-POPの制作、宣伝をしていました。
それからは、音楽業界一筋で、一昨年まで東京で働いていて、2017年の正月明けに安曇野へ引っ越して来ました。

長野に来た理由

安曇野は、学生時代から憧れの場所でした。
高校時代、作家の北杜夫を、愛読していました。旧制松本高校出身で、松本にゆかりのある方です。その頃から安曇野は「いつか暮らしてみたい場所」だったのかもしれません。

音楽関係の仕事で生きていこうと思っていたのですが、50代になって「そろそろ違った道もありかな。」と思い始めました。
かつて妻も同業だったのですが、7.8年前に転職をして、代官山のレストランで働いていたこともあり、食への興味があり、「カフェを開く。」ということを漠然と思い始めたんだと思います。
ただ、いきなりお店を開くといっても、私は、仕事関係のスキルしかないため、東京の料理の学校へ通いながら、自分もスキルアップをして、土地を探してと準備を進めていきました。

当時は、「どうしても〇〇なお店をやりたい!」といった想いはありませんでしたが、まずはカフェ形態でやりたいと思っていました。もともとリフォームが趣味だったので、そういったこだわりも含めて来てくれた人たちが、リラックスできる空間を作りたいと思っていました。
代官山に住んでいる時も、マンションの壁を壊して、自分たちで壁塗ってといったことをしていたぐらいです。(笑)


何かに特化したお店ではなく、自分たちが表現した良い雰囲気でお客様が心地よく過ごせるようにしたいと思っていました。
お店を開く前は、東京の知り合いにはすごい心配されていましたね。(笑)「あんな山奥に行ってお客さん来るの?」と。でも、自分たちなりに調べたし、「なんとかなるかな。」と思っていましたし、なにしろ、ここが気に入ったのであまり心配していませんでした。

場所に関しては、真っ先に松本か安曇野が良いなと思いました。関西の人間は、北海道や、信州は憧れがあるんですよ。(笑)両親もアルプスが好きでした。あとは、生まれが京都で、代官山に住んでいたので、「負けないくらい素敵な場所が良いな。」という想いはあって、日々北アルプスを見て暮らせる場所=信州かなと。

移住してきて戸惑いはあまり無かったです。
お店始める前は、見知らぬ土地で、はじめての自営業、「この先どうなるかな?」と考えることもありましたが、アルプス眺めていると「まあ、何とかなるか」と思うことができました。
開店前からご近所の方に親切にしていただき、開店したらどんどん知り合いができました。
唯一の夫婦の悩みは、歩いて飲みに行けないこと。(笑)
前は、いくらでも行けるお店があったので。(笑)
とても悩みです。(笑)

試行錯誤の連続

メニューの1つであるハンバーガーに関しては、開店前からある程度明確なイメージを持っていました。ハンバーガーだけは僕がレシピを決めて作っています。


20年以上前、アメリカに行った時に、ある店で食べたハンバーガーがオーガニックな素材を使っていて、とても美味しく、それよりもっと個人で作っている感じに落とし込みたいというイメージがありました。
それから、意識的にハンバーガーを食べるようにはしていて、アメリカはもちろん、フランス、イギリスでも食べてみました。
フランスでも、アメリカのスタイルがすごい流行っているのですが、フランスなので、より料理っぽくなっています。単に挟むだけではないハンバーガーでした。
このような形で、いろんな場所でハンバーガーを食べて、エッセンスを吸収していきながら、今のレシピを作りました。
最初は誰も教えてくれないので、一つ一つ試行錯誤しながらやっていきました。

今は、自分の思い通りに作ることはできていますが、多くの困難がありました。
ちっとも上手くいかないんです。(笑)、なんか一味足りないし、ソースもなかなかビシッと決まりませんでした。そんな中、大きく進んだ、1つのきっかけがありました。

知人のパートナーがロンドンで食肉を手広くやられていたことです。いろんなハンバーガー屋さんにも、お肉を卸していました。そこで、こね具合、挽き方、肉の配合などを教えてもらいました。それを参考にそれから自分で「これだ。」と思えるようなハンバーガーができるようになりました。

私のプライベート

案外インドアなんですよ。本とか映画とかを楽しんでいます。(笑)せっかく白馬の近くに暮らしているので、スキーは続けていきたいと思います。あとは、今お店に置いてある雑貨はヨーロッパに旅行に行った際に、自分達で買い付けて来たものが中心です。頑張って年に1回はヨーロッパに出かけたいと思っています。

お店を通して

「訪れた人に自宅のリビングのように過ごしてもらいたい。」
これが一番の想いです。これからもずっとこの街に住む人に愛されたいというのは、テーマとして持っていきます。その為には、新鮮な素材を使うこと、清潔にすること、お客さんが「歓迎されている」と感じられるような場所であること、を心がけて1つずつ積み重ねていくだけです。いつもそうあらねばと思っています。

是非、お店でお会いできることを楽しみにしています。お待ちしております。

暮らしに合わせる働き方|ヤマとカワ珈琲店 川下 康太

この記事は、ヤマとカワ珈琲店様のサイト上に記載されている、
「今に至るまで」
「珈琲について」
をもとに、インタビュー記事を作成しております。

人生の選択肢

《~開業するまで》
高校や大学でも特にこれといってやりたい事は見つからず、就職の時も「強いて言えば建築好きかな」くらいの感覚で建築資材メーカーの営業マンになった。
言われた通りに仕事をして、それなりに給料をもらい、それなりに楽しい日々を過ごした。

学生時代を振り返ると、熱中したことは、特にありませんでした。
部活は中学までは野球をやっていましたが、高校では続けず、帰宅部として、アルバイトをしていました。
卒業後の進路も、周りがみんな大学に行くし、親も「大学に行ったほうが良い。」と言うので、大学に行く以外の選択肢がありませんでした。その先も、大学に入って、そのまま就職してという人生しか無いような気がしていました。すでに将来のルートはできていて、そのルートをどうクリアしていくかみたいな感じでしか考えていなかったと思います。

大学入試では、どうやって大学に楽して入学できるかを考えました。当時、得意科目が数学、物理、英語だったので、その3科目で入学できる大学を絞り、その中で、「強いて言えば、この学部かな。」と思うところを受験しました。この時、大学4年間で、何が勉強したくてというのは、全くありませんでした。であれば、それなりに良い大学に入学していた方が就職も楽かなと。

就活の時も、特にやりたい仕事はなくて、とりあえず会社に入るというぐらいしか出来ないのではと思っていました。その中で、建築の分野に興味があったので、建築分野で就活を進めて行きました。
入社したのが、建築の資材を作るメーカーだったので、資材を建築の現場であったり、施工会社へ営業に回る仕事をしていました。ずっと営業でした。
サラリーマンとして、7年間働いていて、大阪で4年と、転勤で名古屋に3年いました。
この7年間の中で、当然、不満はそれなりにありましたけど、「そんなもんかなと。」思っていました。やりがいはそんなに感じていなかったです。働いていれば、毎月決まって給料が何十万と入ってきますし、それを自由に、何も気にせず使えるというのは、それなりに楽しかったです。

今までの自分との脱却

30歳を目前に親しい友人が家庭を持つ姿を見る機会が増えた。その時に、生まれて初めてこれからの将来を真剣に考えた。
“これから”を考えたときに分かったことは、自分の“これまで”は何の目標もなく過ごしてきたということだった。
そんな今までの自分から脱却するために作ったのが『ヤマとカワ珈琲店』です。

友人の姿を自分に置き換えた時に、自分の将来について、初めて真剣に考えました。自分もそのまま結婚して、家を買ってということです。大学に入って、就職をしてと決まったルートを歩いてきたことは、今だから思えますが、その時の自分って、何も気づいていなかったと思うんですよ。それ以外の選択肢が無いと思っていたから。周りの友人たちを見て、「このまま俺もいくのかな。」と考えた時に、違和感を感じたというか、「このままで良いのか。」と初めて思いました。


その想いの中で、会社内で自分を変えていくという気持ちは、全く無かったです。違う会社に入るという選択肢も全く無かったです。色々振り返ると、自分で何かをやり遂げたことが無いということが、すごく足りないと思っていました。 学生時代に熱中できたことが1個でもあると、それが少し自信になってあまり引っかからなかったと思うんですよ。でも、人生振り返った時に、本当に何も無かったというのが「やばい!」ってなったんだと思います。
なので、自営業をしたいという一択でした。会社を嫌だというよりも、自分で何かをしたいという想いが強かったです。

そう、だから、別に珈琲が昔から特別好きだったわけでも、どうしても珈琲屋になりたかったわけでもないんです。
とにかく自分が変わるためには、自分で仕事を作って自分の責任でやる自営業しかないと思っていて、「長く続けられる」という視点で自分にできることを考えた時に出てきたのが(ちょうどその時趣味だった)珈琲の焙煎を仕事にすることでした。

珈琲屋をすっごいやりたいわけでは無いんですよ。自営業をしたかったんですよ。その中で、何で食っていけるかを考えた時に、珈琲が出てきたんですね。
もちろん珈琲は好きですけど、「珈琲でなくては絶対ダメ。」という想いは無いです。
自分たちが暮らす中で、気持ちよく働ける職種が珈琲屋なだけで、珈琲をやるためだけに家族を犠牲にするという気持ちは無いです。珈琲を焙煎するのもすごい楽しいですし、珈琲も好きなので、それは十分モチベーションになっています。自営業というのは、自分で仕事を作って、お金をいただいて、暮らしていくということだと思うので、それがたまたまお金を生み出すのが珈琲だっただけなんですよ。

会社を辞めて、個人事業主として生きていこう。そう心に決めたタイミングで、たまたま知人から「長野市に古い空き家を利用した個人店が増えている」という情報を教えてもらった。早速その翌週には長野市に視察に行き、古い空き家を何軒か見せてもらった。家賃の安さや古い建物の趣がとても魅力的に映った。 地元の大阪で店を始めようと考えていたけれど、借金せずに開業できるハードルの低さや、変わるために必死だった自分には、長野市への移住はそう難しいことではありませんでした。

場所は、本当にどこでも良かったんですよ。たまたま一番最初に候補地に上がってきたのが長野市だったというだけです。名古屋の知り合いに、「長野市が今、善光寺の周辺で空き家を改修したお店がちょっとずつ増えているよ。」という情報だけ教えてもらって、何となく「面白そうだな。」と感じていたので、それからすぐ長野市に行きました。

色々考えても、悪く無かったので、長野市に来たという感じです。当時、「大阪に帰って地元でお店をやろう。」という気持ちが強かったので、ある程度、大阪で物件や、家賃の相場を考えていました。ですが、長野に行って、色々話を聞くと、考えていた金額感よりも、全然安くできることがわかりました。長野には山登りに行ったりもしていたので、何と無く良いイメージもありました。
本格的に、色々とお金を計算すると、借金せずにスタートできる金額感でした。失敗してもマイナスにならないので、「とりあえずやってみて、無理だったらまた考えれば良いか。」と思っていました。

知り合いは誰もいないところからスタートしましたけど、逆にそれぐらいの方が自分の実力を試すなら良いかなと思っていました。もともとが自分の実力を試すというか、自分で1からやりたいということだったので、それならそういう場所でも良いかなとも思っていました。たまたまその場所が新潟だったら、今、新潟にいるでしょうし、それが偶然長野市だったというのは、今考えると何かの縁だったのかもしれないですけど。

暮らしに合わせる

《開業後》
開業1年目は喫茶スペースも作って、ちょっとした食事も提供していました。
珈琲は1日のはじまりに飲むのが好きだからモーニングをやって、せっかく開けるならお昼は食事も出して、珈琲は自家焙煎して、でも人件費はかけたくないから1人で全部やって。と、朝から晩まで忙しく体力的にキツい日々。
思い描いていた暮らしとはちょっと違うかもと感じながらも、飲食店の経験が全く無いこともあって、「こんなもんなんだろう」と自分に言い聞かせていました。
できるだけお店を休まずに、その時に出来ることを繰り返しやっていたら、少しずつお客さんが増えていった。自分の珈琲を求めて来てくれる人たちの声が自信になって、「ちょっと違うかも」という心の声に素直になろうと決意しました。

そして、開業2年目には食事の提供をやめ、4年目には喫茶の営業をやめ、今では珈琲豆の販売専門店になりました。
できることを減らすことで、自分たちに無理がなくなる。無理がなくなると、長く続けることができる。長く続けていると、質が上がる。そんな考えのもと、自分たちのペースや大切にしたいものを定期的に見直し、その都度何かを変える決断をしてきました。

振り返れば開業した当初は会社員時代のようにできるだけ仕事をして、それに合わせて生活をする感覚でした。今は妻や子供がいて、思い描く理想の暮らしに仕事を合わせたいと思っています。
これからも、理想の暮らしは変わっていく。そしてそれに合わせるように、これからも変わっていくであろうヤマとカワ珈琲店にお付き合いいただけますと、幸いです。

開業したての頃は、サラリーマンの感覚がまだ残っていたので、その働きに合わせた暮らし方をしていました。例えば、その場所で暮らしたいわけではないが、転勤になったから、そこに暮らすということです。飲食店だったら、朝から夕方までやるのが普通かなと思って、それに合わせて暮らしていたのですが、「それって違うのでは。」ということをちょっとずつ感じ始めました。
それは家族が増えたことが1つのきっかけです。暮らすというのがベースで、それに仕事を合わせていったほうが良いなと思って変えていきました。暮らしをベースでその隙間で仕事をするという感覚です。

収入を得るだけが仕事ではないと思っています。たくさん忙しかったら、たくさん外食してしまうと思うんですよ。疲れて、自分で作る時間がないから。そしたら出て行くお金も多いから、それってプラスマイナスあまり変わらなくて。労働時間を減らして、自炊をしたり、野菜を作ったりということができれば、出て行くお金が少なくなる。そうすると、残るお金ってそんなに変わらないと思っています。それであれば、収入を増やす努力をするよりも、支出を減らす努力にあてる時間の方が、ストレスが無いと思っています。家族全体で考えた時に、収入だけ増やす必要はなくて、支出を減らせば、収入少なくても良いかなと。なので、その選択をしました。
収入っていくら増えても満足しないんですね。もっと増やそうと思ってしまうから。
それはあんまりだなと思って。できる範囲で売上が増えていけば良いですけど、そこまですごく増やしたいとか、スタッフ雇って、店舗を増やしてというのは今のところ考えていません。

考え続ける

考えることがすごい大切だと思います。
自分自身の中にしか答えがないと思っているので。
考えて、とりあえず自分でやってみないと、納得できないと思います。
その中で、近い将来と、遠い将来を両方考えたほうが良いと思っています。すぐ先の、明日、明後日、1週間、1年後という近い将来。でも、それってしっかりと方向性が定まっていないとダメなので、遠い10年後を見ながら、逆算して、今を考えるというのは、よくやっています。

考える中でも、自分の幸せは理解しようとはしていて、自己分析はいつもしています。今であれば、家族全員の気持ちを分析しますけど。
結局、働くことは、暮らしの一部でしかないので、働くとか、職種ってそんなに必要性がないものだと思っています。生きるためには何が重要かを考えると、楽しくストレス無く生きることだと思うので、それは良く考えます。妻とも話しますし。

日常的に考えています。普通に過ごしている中で、「なんか違うな。」と思うことが多いというか、引っかかるんですよ。そう思った時に、なんで違和感を感じたのかを細かく分析していると、「〇〇と言われたのが嫌だったんだ。」「〇〇の時が嫌だったんだ」というのに気付けてきて、だったらこの行動やめようのように修正できる。

サラリーマン時代に「自営業をなんでやるの?」「自営業をやって将来どうなりたいの?」というのは、すごく考えたんですよ。1年半ほどお金を貯めている期間で。毎日のように。仕事終わった後に、喫茶店行って、ノートにみっちり書いて。その時に癖付いたかもしれないですね。こういう時間は定期的にやらないと気持ち悪いですし、忙しいとなかなかこういった時間は取れないので意識的に考えるようにしています。

私たちが大切にしている3つのこと

1. 毎日飲める
質の良い生豆を使って、美味しい成分の化学変化をしっかり促すように弱火でじっくり火を通します。雑味がなく、甘味やコクが口の中にずっと残っている余韻の長い珈琲を目指しています。ガツンとした一口目のインパクトよりも、飽きのこない毎日飲める味です。
生豆の選定には、うちの焙煎機で美味しく焼ける豆であることと、仕入れ値が高すぎないことをポイントに選んでいます。毎日飲むためには値段もとても重要。日常で飲みやすい値段と、お店を続けていける利益とを考え、ある一定の値段以上の生豆は仕入れないように決めています。決められたその中でいかに高級品に負けない味を持っている銘柄を探し出すか、というところに腕の見せどころがあると考えています。

もちろん珈琲にはこだわりをもっています。ただ、そのこだわりをお客さんにどこまで表現するかというところに気をつけています。
「〇〇農園の〇〇で。」のように、あまりこだわりを表現しすぎてしまうと、お客さんは難しいと感じてしまうのではないかと思っています。
なので、豆選びをこだわったり、美味しい珈琲を作るのは当たり前の大前提として、それをお客さんにいかに難しくなく伝えるかというところに気を使っています。

2. 焙煎機のメンテナンス

火から下ろすタイミングが数秒違うだけで味が変わってしまう焙煎の世界。だからこそ焙煎機のメンテナンスは定期的に行っています。
焙煎機を大きく4つのパートに分けて、毎週1パートずつ掃除しています。外に伸びている煙突部分も季節が変わるごとに掃除しているので、ほとんど汚れ知らずです。
当店の珈琲が「雑味が少ない」とよく言っていただけるのは、日々の掃除のおかげかもしれません。

3. 無理なく続けられる抽出方法の提案

家で飲む珈琲とお店で飲む珈琲は別物です。
お店と同じ味にする為には、技術も必要ですが、コストがかかります。
1杯抽出するのにかける時間や、珈琲豆の量などを考えると、家では家の珈琲があっていいと思います。
淹れる方の性格や生活リズム、台所の広さ、飲む時間帯、珈琲のために使える予算、これらの条件を考えて、珈琲を生活に取り入れられる抽出方法を一緒に考えましょう。
大事なことは、カップに入った珈琲の味だけで判断しないこと。
お湯を沸かして豆を挽くところから、最後に珈琲器具を片付けるところまでが珈琲の時間です。それらを総合して抽出器具を選定しましょう。
月に1度、珈琲抽出ワークショップを開催しております。

家で飲む珈琲と、お店で飲む珈琲を一緒にするお客様が多くいらっしゃいます。豆を購入されたお客様で「お店で飲んだ珈琲と違う。」という言葉をよく聞くんですよ。お店って少し非日常であって、少し特別な珈琲。家で飲む珈琲は、毎日飲める珈琲。一緒にする必要はないと思っています。
毎日飲む珈琲を美味しく淹れれた方が良いと思っていますが、豆を購入されるお客様って「淹れ方わからないです。」のようになかなか聞かないんですよ。こっちが「聞いて良いですよ。」と伝えても、「大丈夫です。」との返答が返ってくる。

でも、ワークショップを開くと結構人が来るんです。それは、お金を頂いて、時間を割いてといった前提があったほうが、日本人の性格もあってか、聞きやすいからだと思います。
それに対して営業中だと、「忙しいから聞いてはいけないのではないか。」という感覚があるみたいで。

基本、教えるのにお金はいらないんですよ。僕ら豆で売っているので、完成品ではない。液体になって初めて珈琲で、途中のものを売っているので。淹れ方を教えるのは当たり前だと思っています。お客様に教えたいんですけど、ワークショップを開いたほうが、みんな聞いてくれるからやっています。

想いを表現する理由

あえて、サイト上で表現しています。今の時代って、個人店が多いですし、珈琲屋さんなんてどこにでもあるし、違いをみせるのには、想い、こだわりしかない。自分だったら、「安いから買う。」っていうのはあまりしないし、「誰から買う。」というところしかあまり考えない。僕らみたいな自営業が生き抜いていくには、やっぱり、僕が好きだから買ってくれるという人をいかに増やすかだと思っています。ネットで色々買えますし、近くにお店もあるだろうし、差をつけるのは人でしかないと思っています。

取材を受けて、記事にしてもらって、「見ました。」と言って来てくれる人もいますし、やっぱりそういう繋がりの方が強いです。ファンをいかに増やすかですね。珈琲豆もそこまでめちゃめちゃこだわっているとかではなくて、それよりもどう考えているかとか、どういう想いで作っているかの方が大事だと思っています。どの商品でもそうだと思います。

今後の自分

「生きるチカラ」をつけたいです。
どんな場所にいっても、どんな時代になっても生きていけるチカラ。
それはきっと野菜づくりであったり大工作業であったり、そういう手仕事ができるようになりたいです。
ただ、完全自給自足の暮らしに憧れているわけでもないので、珈琲の仕事を続けつつ、自分にとって家族にとってちょうど良いバランスの暮らしができるように目指したいです。