自宅のリビングのように|cafe CREEK 平岡 尚志

音楽と過ごした日々

出身は、京都です。大学を卒業するまで住んでいました。大学時代はバンドサークルに入っていて、ハードロックをやっていました。(笑)あまり言いたく無いですけど。(笑)もちろんバンドで生活していくなんて考えもしませんでした。
卒業後の進路は、音楽関係の仕事には興味を持っていたのですが、京都の大学だったので、そう簡単にレコード会社にいけるとは思っていませんでした。銀行などの色々な業種を受けて、入社する会社も決めていましたが、たまたまご縁があり、レコード会社で働くこととなりました。
入社してからは、J-POPの制作、宣伝をしていました。
それからは、音楽業界一筋で、一昨年まで東京で働いていて、2017年の正月明けに安曇野へ引っ越して来ました。

長野に来た理由

安曇野は、学生時代から憧れの場所でした。
高校時代、作家の北杜夫を、愛読していました。旧制松本高校出身で、松本にゆかりのある方です。その頃から安曇野は「いつか暮らしてみたい場所」だったのかもしれません。

音楽関係の仕事で生きていこうと思っていたのですが、50代になって「そろそろ違った道もありかな。」と思い始めました。
かつて妻も同業だったのですが、7.8年前に転職をして、代官山のレストランで働いていたこともあり、食への興味があり、「カフェを開く。」ということを漠然と思い始めたんだと思います。
ただ、いきなりお店を開くといっても、私は、仕事関係のスキルしかないため、東京の料理の学校へ通いながら、自分もスキルアップをして、土地を探してと準備を進めていきました。

当時は、「どうしても〇〇なお店をやりたい!」といった想いはありませんでしたが、まずはカフェ形態でやりたいと思っていました。もともとリフォームが趣味だったので、そういったこだわりも含めて来てくれた人たちが、リラックスできる空間を作りたいと思っていました。
代官山に住んでいる時も、マンションの壁を壊して、自分たちで壁塗ってといったことをしていたぐらいです。(笑)


何かに特化したお店ではなく、自分たちが表現した良い雰囲気でお客様が心地よく過ごせるようにしたいと思っていました。
お店を開く前は、東京の知り合いにはすごい心配されていましたね。(笑)「あんな山奥に行ってお客さん来るの?」と。でも、自分たちなりに調べたし、「なんとかなるかな。」と思っていましたし、なにしろ、ここが気に入ったのであまり心配していませんでした。

場所に関しては、真っ先に松本か安曇野が良いなと思いました。関西の人間は、北海道や、信州は憧れがあるんですよ。(笑)両親もアルプスが好きでした。あとは、生まれが京都で、代官山に住んでいたので、「負けないくらい素敵な場所が良いな。」という想いはあって、日々北アルプスを見て暮らせる場所=信州かなと。

移住してきて戸惑いはあまり無かったです。
お店始める前は、見知らぬ土地で、はじめての自営業、「この先どうなるかな?」と考えることもありましたが、アルプス眺めていると「まあ、何とかなるか」と思うことができました。
開店前からご近所の方に親切にしていただき、開店したらどんどん知り合いができました。
唯一の夫婦の悩みは、歩いて飲みに行けないこと。(笑)
前は、いくらでも行けるお店があったので。(笑)
とても悩みです。(笑)

試行錯誤の連続

メニューの1つであるハンバーガーに関しては、開店前からある程度明確なイメージを持っていました。ハンバーガーだけは僕がレシピを決めて作っています。


20年以上前、アメリカに行った時に、ある店で食べたハンバーガーがオーガニックな素材を使っていて、とても美味しく、それよりもっと個人で作っている感じに落とし込みたいというイメージがありました。
それから、意識的にハンバーガーを食べるようにはしていて、アメリカはもちろん、フランス、イギリスでも食べてみました。
フランスでも、アメリカのスタイルがすごい流行っているのですが、フランスなので、より料理っぽくなっています。単に挟むだけではないハンバーガーでした。
このような形で、いろんな場所でハンバーガーを食べて、エッセンスを吸収していきながら、今のレシピを作りました。
最初は誰も教えてくれないので、一つ一つ試行錯誤しながらやっていきました。

今は、自分の思い通りに作ることはできていますが、多くの困難がありました。
ちっとも上手くいかないんです。(笑)、なんか一味足りないし、ソースもなかなかビシッと決まりませんでした。そんな中、大きく進んだ、1つのきっかけがありました。

知人のパートナーがロンドンで食肉を手広くやられていたことです。いろんなハンバーガー屋さんにも、お肉を卸していました。そこで、こね具合、挽き方、肉の配合などを教えてもらいました。それを参考にそれから自分で「これだ。」と思えるようなハンバーガーができるようになりました。

私のプライベート

案外インドアなんですよ。本とか映画とかを楽しんでいます。(笑)せっかく白馬の近くに暮らしているので、スキーは続けていきたいと思います。あとは、今お店に置いてある雑貨はヨーロッパに旅行に行った際に、自分達で買い付けて来たものが中心です。頑張って年に1回はヨーロッパに出かけたいと思っています。

お店を通して

「訪れた人に自宅のリビングのように過ごしてもらいたい。」
これが一番の想いです。これからもずっとこの街に住む人に愛されたいというのは、テーマとして持っていきます。その為には、新鮮な素材を使うこと、清潔にすること、お客さんが「歓迎されている」と感じられるような場所であること、を心がけて1つずつ積み重ねていくだけです。いつもそうあらねばと思っています。

是非、お店でお会いできることを楽しみにしています。お待ちしております。

「たまり」の記憶|かめのや 斎藤 博久 #1

「たまり」の記憶

飲食に最初に携わった経験は、大学のアルバイトです。京都にある古着屋系列のカフェでやっていました。ちょっと変なお店。(笑)一階は古着屋、二階はカフェといった業態でした。
もともと喫茶店をやりたくて、飲食に興味があったので、夜の居酒屋ではなく、コーヒーを出すカフェとか喫茶店でやろうと思っていました。

少し遡ると、もともと地元に「たまり」という古い喫茶店があって、そこが大好きでした。おっさんのたまり場でたばこの煙で濃霧になっているお店です。(笑)
おじさん、おばちゃんばっかりの横の繋がりでしかない喫茶店。(笑)
お店は5、6席しかないけどずっと人がいて、天気の話だの野球の話を一生しているみたいな空間。(笑)
横が駄菓子屋さんだったので小学生のころから存在は知っていて、中学生の頃から通っていました。そこから徐々に休みの日に顔を出すようになりました。
父親がたばこ吸わない、酒も飲まない人だったのですが、「たまり」には、違ったベクトルの大人がいて、いろんな話を聞ける。そこの場所は大人が可愛がってくれることが嬉しくかったのを覚えています。今でいうとサロン的な横の繋がり的な交流の場としての喫茶店がまだ残っていたところがあって、それが「すごい良いな。」と思っていました。コミュニティーとしての場所が自然と出来上がっている。
コーヒーがうまいことに越したことないけど、「コーヒーまずくてもこいつら来るんだろうな。」みたいな!(笑)味は二の次の付属品で、マスターやママさんが商品となっている。生活の一部のような場所を作りたいなと思いました。
そのころから漠然と喫茶店のマスターになろうと思っていました。

「人が良いところを選べ。」

就活の時は、二択で迷っていました。いわゆるサラリーマンと、修行だと思って給料が安くても飲食店で働くかでした。
ちょうど就活をしている頃に、二つ上の姉がいろいろやりたいことがあって、会社を辞めたとの連絡がありました。
ギターやりたい、フランス語やりたいとか本当にいろいろやりたいことがあって、当時並行してやっていたけど、「時間足りない!」と言い始めて、親がすごい心配をしていました。
そのことがあって当時は、飲食の方に気持ちが傾いていたのですが、全く親孝行をしてこなかったので、「兄弟二人して心配かけるのも。」と思ってとりあえずサラリーマンになろうと思いました。
それから業種問わずいろいろ探して、立ち飲みやスナックのおじさんから情報収集をしていました。多くの人が言っていたのは、「仕事はどの仕事でもしんどいから。しんどい時に自分が潰れないようにするのは、周りの人。だから、会社を見に行って人が良いとこを選べ。」ということでした。
それから200何社説明会に行ったけど、5社に絞って、その中の1社建築系の会社に行きました。

営業に没頭した4年半

入社してから、期間は4年半ほど営業をしていました。めっちゃ楽しかった。(笑)
当時は、ルート営業でしたが、自分で先方の懐に飛び込んでいって、信頼関係がどんどん厚くなっていく手ごたえがモチベーションになっていました。
人に好かれていく過程が楽しかったです。(笑)営業最高です。(笑)
前の会社は、岐阜、長野が営業担当だったのですが、月曜日に車で現地に入って、金曜日の夕方に帰ってくる一週間かけてゆっくり回るスケジュールでした。車だったので3か月で3万8千kmとか。(笑)長野、岐阜は会社としてはそんなに遠くない部類にはいっていたので車での移動でした。(笑)でも、慣れるもので、帰りノンストップ4時間半で帰れます。(笑)
自分で全部スケジュールを立てることができて、売上の各月の配分も自由でした。かなり個人に裁量があって半分自営業みたいな感じだったので、そこもすごい楽しいポイントでした。
毎日飲んで帰るみたいなそんな日々でした。(笑)

その中で、県民性をいろいろ感じることがあって、三重は人見知り。岐阜は都会に近いほど、人見知り感が少ない。長野は広いので地域によって人柄が異なる印象を受けました。良い悪いではなく、松本はすごい観光客がいるし、移住者も多いので、新しいものを受け入れる土壌があって、排他的ではないし、おおらかに感じていました。テンション満点で受け入れてくれるわけではないけど、気にしてくれてみんなワクワクしているみたいなそういう流れがあると思いました。
長野市は、駅前はチェーン店が多くて、面白いお店見つけようとすると駅から離れていたりする。街が間延びしていて遊ぼうと思っても、車が必要かなといった感じなのですが、松本は街がまとまっているので、長野市に仕事がある時も松本に泊まって、朝頑張って長野市まで走るみたいなことをしていました。(笑)
松本がすごい好きでした。

たまたま嫁さんが松本に住んでいて、生活を考えてみても「松本だったら良いかな。」と思えました。営業時代にある程度知っていた街でもあったので、むしろ住んでみたいな気持ちがありました。
生活を考えた時に、住みやすいし、人も良いし、無職になってしまうけど、引っ越しを真剣に考えました。

当時は、会社では昇進も決まって後輩も入ってきてというタイミングで、「頑張ってくれ!」と社長や本部長に期待をされていたのですが、その一か月後に「彼女と結婚したいのでやめます。」と伝えました。(笑)
すごい会社からはかわいがってもらっていたので引き留められたのですが、一人一人話をして納得してもらってといったことをしていました。
そこでいろんな人が言ってくれたのが「仕事上、引き留めなければならない。けど、個人的にはお前の人生だから好きにしろ。仕事上今からこう言うけど、おれはこう思っている。でもどっちもおれの本音ではあるから考えてくれ」と。
なんて良い人たちなんだと思いました。(笑)
この会社は人で選んだけど、ちゃんと選んで良かったなとこの時に再度思いましたね。