コーヒーが持つ不思議な力|TRACK Coffee 村田 容充/村田 亜希

インタビューをお受けするにあたり、、、
わたしたちのお店のルーツは、自分たちの心の中に留めておくべきだと考えていました。
しかしながら、せっかく頂いた機会ですのでお話しさせていただきます。

仕事と生活

村田容充(以下、T):出身は、大阪府枚方市です。大学卒業後、大阪本社のメーカーに就職し首都圏にて勤務していました。その後、30代で結婚後、息子を授かりました。私が働き方を考え始めるきっかけとなったのは、その息子の誕生です。

残念なことに息子は先天性の疾患を持って生まれてきました。生後間もない頃より大きな手術が続き、入院生活も長く在宅している時も通院と介護が続きました。容態が難しい時期もあり本当に壮絶な日々でした。彼が入院中は親ですら面会時間が短く仕事後では面会時間に間に合わず、さらに、週末の休みも取れない週が続くと息子に会うことが出来なくて、当時は本当に辛かったですね。そういった生活を続けている中、妻が体調を崩してしまい、会社の理解もあり介護休暇を取らせてもらえることになりました。とてもありがたかったです。
その頃より「果たしてこの生活を続けていて良いのだろうか。」と思い、このまま復帰するのか、自宅で息子を診ながらできる職業はないだろうかと、考え始めるようになりました。
焦る気持ちも正直ありましたが、時間を作ってはセミナーの受講や通信講座を受けながら模索していましたね。

不思議な力

村田亜希(以下、A):息子が入院中、病状が思わしくないときは病室に泊まり込んでいる時期もありました。主人が付添いの交代の際にいつも温かいコーヒーを持ってきてくれ、その時飲むコーヒーは、特別温かく感じました。
あらためて「優しい人だな。」と思い、コーヒーは美味しいのはもちろんですが、時には人の心を満たすものだと思いました。
今は大きな病院へ行くと大手コーヒーチェーン店さんが入っていますが、当時は本当に寂しい感じの食堂や自販機の缶コーヒーしか無く、それでも温かい飲み物が飲め、また、主人が持ってきてくれたコーヒーはありがたかったことを覚えています。

T:疲れている時にコーヒーがあるとホッとしますし気持ちを切り替えることができる。
コーヒー1杯に助けられた気持ちがあります。この経験は大きかったと思います。

長野県に来た理由

T:長野県に来た大きな理由の1つは、小児の高度先進医療施設、こども病院があることです。
私たちが長年暮らした横浜市の他に、静岡、兵庫、福岡、仙台、埼玉とありましたが、当時の主治医の先生から長野こども病院の専門医の先生を紹介して頂いたことがきっかけです。
そして何よりもこの自然豊かな環境で息子を育てていきたいと考えたからです。


また、長野県には、学生の頃よりスキーや合宿、登山で訪れる機会も多く、スキー場でもかつてアルバイトをしていました。関西の人にとっては意外なことに長野はとても身近な場所でもあるのです。

A:安曇野で暮らすようになってからも、神奈川のこども医療センターで手術を受ける必要があり横浜に戻る期間がありました。息子も調子が悪い中、環境が変わり検査、手術、治療が続き精神的に不安定になっていました。彼は言葉を発することはできませんが、「安曇野へ戻りたい」と必死に訴えていました。


私たち自身も親類や知人もいない中で、出会った方たちの温かさや繋がりを感じこの環境が一番。他では暮らせないと思いました。朝起きた時に見える山々。清々しい空気や風。広い空。夜にはこぼれてきそうな星空。
雄大な自然に抱かれた地域は日本中にはきっと他にも多くあるかと思いますが、私たちが辿り着いたのは安曇野でした。

“TRACK”…日常の通り道

T:店名にしている“TRACK”は列車の線路、軌道という意味の他に、や動物の通り道、人生の航路という意味もあります。日常の通り道のように、街の方も旅の途中の方も、山の方もフラッと立ち寄って頂きコーヒーを飲みながらホッと過ごしてもらえたら良いかなと思っています。特別なものはありませんが。
そして、お子様からご年配の方まで入りやすい場所でありたいです。テイクアウトもして頂けます。

A:小さなお店ですが、お客様には自然や季節を感じながら寛いでいただきたいです。
大昔になりますが、20代はじめに数か月間過ごしたシアトル近郊の町には地元の方や学生たちが集う居心地の良いカフェが多くありました。季節の植物が店先に咲き、開放的な空間で地元の方に慕われて日常に溶け込んでいましたね。
私たちのお店も風が通り抜けお客様にとって心地よい日常の通り道でありたいです。

ブラボー Bravo!

コーヒー片手に気軽に食べていただけて、コーヒー泥棒(笑)になるようなホームメイドのお菓子をつくりたい一心でできあがったのがブラボーです。
製菓の勉強をした訳ではないので、とにかく試作、試作、試作...を重ねました。
初めは丸い形のシュークリームからはじまり、他にもクッキーシューなど生地づくり、クリームづくりと試行錯誤して作っては、知人や友人たちに試食してもらい、率直な感想や意見を糧に作っていきました。


最終的に行き着いたのがクレアタイプで、かつザクザクとした香ばしい生地の食感を楽しんで頂けるように、ご注文をいただいてからクリームを詰める現在のスタイルとなりました。
「エクレール」は仏語で「雷・稲妻」の意味で、その名前の由来には「稲妻のように素早く食べるべし!」との意味で名付けられた説もあるとか。
「ブラボー」、コーヒー片手にブラブラ歩きながら気軽に食べれるボウ状の、そして思わずブラボー!
と感じていただけるおやつだと嬉しいです。ありがたいことにこの地域は地元の小麦粉、たまごを使えること、添加物は一切使用しないこともポリシーです。

わたしのプライベート

T:もともと身体を動かすことが好きです。短い時間でもジョギングなど体を動かすようにしています。
山に行く機会も増やしていきたいです。
息子ともできる限り自然の中で過ごせる時間をつくりたいですね。この春、彼の卒業記念に仲間たちにサポートをしてもらい息子と一緒に山歩きができたことは家族にとっても良い思い出になりましたね。

最後に一言

Coffee-your pathway to happiness!!!!
ハンドドリップコーヒー、エスプレッソメニューもいろいろございます。
気分転換などに気軽にお越しください!お待ちしております!

自宅のリビングのように|cafe CREEK 平岡 尚志

音楽と過ごした日々

出身は、京都です。大学を卒業するまで住んでいました。大学時代はバンドサークルに入っていて、ハードロックをやっていました。(笑)あまり言いたく無いですけど。(笑)もちろんバンドで生活していくなんて考えもしませんでした。
卒業後の進路は、音楽関係の仕事には興味を持っていたのですが、京都の大学だったので、そう簡単にレコード会社にいけるとは思っていませんでした。銀行などの色々な業種を受けて、入社する会社も決めていましたが、たまたまご縁があり、レコード会社で働くこととなりました。
入社してからは、J-POPの制作、宣伝をしていました。
それからは、音楽業界一筋で、一昨年まで東京で働いていて、2017年の正月明けに安曇野へ引っ越して来ました。

長野に来た理由

安曇野は、学生時代から憧れの場所でした。
高校時代、作家の北杜夫を、愛読していました。旧制松本高校出身で、松本にゆかりのある方です。その頃から安曇野は「いつか暮らしてみたい場所」だったのかもしれません。

音楽関係の仕事で生きていこうと思っていたのですが、50代になって「そろそろ違った道もありかな。」と思い始めました。
かつて妻も同業だったのですが、7.8年前に転職をして、代官山のレストランで働いていたこともあり、食への興味があり、「カフェを開く。」ということを漠然と思い始めたんだと思います。
ただ、いきなりお店を開くといっても、私は、仕事関係のスキルしかないため、東京の料理の学校へ通いながら、自分もスキルアップをして、土地を探してと準備を進めていきました。

当時は、「どうしても〇〇なお店をやりたい!」といった想いはありませんでしたが、まずはカフェ形態でやりたいと思っていました。もともとリフォームが趣味だったので、そういったこだわりも含めて来てくれた人たちが、リラックスできる空間を作りたいと思っていました。
代官山に住んでいる時も、マンションの壁を壊して、自分たちで壁塗ってといったことをしていたぐらいです。(笑)


何かに特化したお店ではなく、自分たちが表現した良い雰囲気でお客様が心地よく過ごせるようにしたいと思っていました。
お店を開く前は、東京の知り合いにはすごい心配されていましたね。(笑)「あんな山奥に行ってお客さん来るの?」と。でも、自分たちなりに調べたし、「なんとかなるかな。」と思っていましたし、なにしろ、ここが気に入ったのであまり心配していませんでした。

場所に関しては、真っ先に松本か安曇野が良いなと思いました。関西の人間は、北海道や、信州は憧れがあるんですよ。(笑)両親もアルプスが好きでした。あとは、生まれが京都で、代官山に住んでいたので、「負けないくらい素敵な場所が良いな。」という想いはあって、日々北アルプスを見て暮らせる場所=信州かなと。

移住してきて戸惑いはあまり無かったです。
お店始める前は、見知らぬ土地で、はじめての自営業、「この先どうなるかな?」と考えることもありましたが、アルプス眺めていると「まあ、何とかなるか」と思うことができました。
開店前からご近所の方に親切にしていただき、開店したらどんどん知り合いができました。
唯一の夫婦の悩みは、歩いて飲みに行けないこと。(笑)
前は、いくらでも行けるお店があったので。(笑)
とても悩みです。(笑)

試行錯誤の連続

メニューの1つであるハンバーガーに関しては、開店前からある程度明確なイメージを持っていました。ハンバーガーだけは僕がレシピを決めて作っています。


20年以上前、アメリカに行った時に、ある店で食べたハンバーガーがオーガニックな素材を使っていて、とても美味しく、それよりもっと個人で作っている感じに落とし込みたいというイメージがありました。
それから、意識的にハンバーガーを食べるようにはしていて、アメリカはもちろん、フランス、イギリスでも食べてみました。
フランスでも、アメリカのスタイルがすごい流行っているのですが、フランスなので、より料理っぽくなっています。単に挟むだけではないハンバーガーでした。
このような形で、いろんな場所でハンバーガーを食べて、エッセンスを吸収していきながら、今のレシピを作りました。
最初は誰も教えてくれないので、一つ一つ試行錯誤しながらやっていきました。

今は、自分の思い通りに作ることはできていますが、多くの困難がありました。
ちっとも上手くいかないんです。(笑)、なんか一味足りないし、ソースもなかなかビシッと決まりませんでした。そんな中、大きく進んだ、1つのきっかけがありました。

知人のパートナーがロンドンで食肉を手広くやられていたことです。いろんなハンバーガー屋さんにも、お肉を卸していました。そこで、こね具合、挽き方、肉の配合などを教えてもらいました。それを参考にそれから自分で「これだ。」と思えるようなハンバーガーができるようになりました。

私のプライベート

案外インドアなんですよ。本とか映画とかを楽しんでいます。(笑)せっかく白馬の近くに暮らしているので、スキーは続けていきたいと思います。あとは、今お店に置いてある雑貨はヨーロッパに旅行に行った際に、自分達で買い付けて来たものが中心です。頑張って年に1回はヨーロッパに出かけたいと思っています。

お店を通して

「訪れた人に自宅のリビングのように過ごしてもらいたい。」
これが一番の想いです。これからもずっとこの街に住む人に愛されたいというのは、テーマとして持っていきます。その為には、新鮮な素材を使うこと、清潔にすること、お客さんが「歓迎されている」と感じられるような場所であること、を心がけて1つずつ積み重ねていくだけです。いつもそうあらねばと思っています。

是非、お店でお会いできることを楽しみにしています。お待ちしております。

暮らしに合わせる働き方|ヤマとカワ珈琲店 川下 康太

この記事は、ヤマとカワ珈琲店様のサイト上に記載されている、
「今に至るまで」
「珈琲について」
をもとに、インタビュー記事を作成しております。

人生の選択肢

《~開業するまで》
高校や大学でも特にこれといってやりたい事は見つからず、就職の時も「強いて言えば建築好きかな」くらいの感覚で建築資材メーカーの営業マンになった。
言われた通りに仕事をして、それなりに給料をもらい、それなりに楽しい日々を過ごした。

学生時代を振り返ると、熱中したことは、特にありませんでした。
部活は中学までは野球をやっていましたが、高校では続けず、帰宅部として、アルバイトをしていました。
卒業後の進路も、周りがみんな大学に行くし、親も「大学に行ったほうが良い。」と言うので、大学に行く以外の選択肢がありませんでした。その先も、大学に入って、そのまま就職してという人生しか無いような気がしていました。すでに将来のルートはできていて、そのルートをどうクリアしていくかみたいな感じでしか考えていなかったと思います。

大学入試では、どうやって大学に楽して入学できるかを考えました。当時、得意科目が数学、物理、英語だったので、その3科目で入学できる大学を絞り、その中で、「強いて言えば、この学部かな。」と思うところを受験しました。この時、大学4年間で、何が勉強したくてというのは、全くありませんでした。であれば、それなりに良い大学に入学していた方が就職も楽かなと。

就活の時も、特にやりたい仕事はなくて、とりあえず会社に入るというぐらいしか出来ないのではと思っていました。その中で、建築の分野に興味があったので、建築分野で就活を進めて行きました。
入社したのが、建築の資材を作るメーカーだったので、資材を建築の現場であったり、施工会社へ営業に回る仕事をしていました。ずっと営業でした。
サラリーマンとして、7年間働いていて、大阪で4年と、転勤で名古屋に3年いました。
この7年間の中で、当然、不満はそれなりにありましたけど、「そんなもんかなと。」思っていました。やりがいはそんなに感じていなかったです。働いていれば、毎月決まって給料が何十万と入ってきますし、それを自由に、何も気にせず使えるというのは、それなりに楽しかったです。

今までの自分との脱却

30歳を目前に親しい友人が家庭を持つ姿を見る機会が増えた。その時に、生まれて初めてこれからの将来を真剣に考えた。
“これから”を考えたときに分かったことは、自分の“これまで”は何の目標もなく過ごしてきたということだった。
そんな今までの自分から脱却するために作ったのが『ヤマとカワ珈琲店』です。

友人の姿を自分に置き換えた時に、自分の将来について、初めて真剣に考えました。自分もそのまま結婚して、家を買ってということです。大学に入って、就職をしてと決まったルートを歩いてきたことは、今だから思えますが、その時の自分って、何も気づいていなかったと思うんですよ。それ以外の選択肢が無いと思っていたから。周りの友人たちを見て、「このまま俺もいくのかな。」と考えた時に、違和感を感じたというか、「このままで良いのか。」と初めて思いました。


その想いの中で、会社内で自分を変えていくという気持ちは、全く無かったです。違う会社に入るという選択肢も全く無かったです。色々振り返ると、自分で何かをやり遂げたことが無いということが、すごく足りないと思っていました。 学生時代に熱中できたことが1個でもあると、それが少し自信になってあまり引っかからなかったと思うんですよ。でも、人生振り返った時に、本当に何も無かったというのが「やばい!」ってなったんだと思います。
なので、自営業をしたいという一択でした。会社を嫌だというよりも、自分で何かをしたいという想いが強かったです。

そう、だから、別に珈琲が昔から特別好きだったわけでも、どうしても珈琲屋になりたかったわけでもないんです。
とにかく自分が変わるためには、自分で仕事を作って自分の責任でやる自営業しかないと思っていて、「長く続けられる」という視点で自分にできることを考えた時に出てきたのが(ちょうどその時趣味だった)珈琲の焙煎を仕事にすることでした。

珈琲屋をすっごいやりたいわけでは無いんですよ。自営業をしたかったんですよ。その中で、何で食っていけるかを考えた時に、珈琲が出てきたんですね。
もちろん珈琲は好きですけど、「珈琲でなくては絶対ダメ。」という想いは無いです。
自分たちが暮らす中で、気持ちよく働ける職種が珈琲屋なだけで、珈琲をやるためだけに家族を犠牲にするという気持ちは無いです。珈琲を焙煎するのもすごい楽しいですし、珈琲も好きなので、それは十分モチベーションになっています。自営業というのは、自分で仕事を作って、お金をいただいて、暮らしていくということだと思うので、それがたまたまお金を生み出すのが珈琲だっただけなんですよ。

会社を辞めて、個人事業主として生きていこう。そう心に決めたタイミングで、たまたま知人から「長野市に古い空き家を利用した個人店が増えている」という情報を教えてもらった。早速その翌週には長野市に視察に行き、古い空き家を何軒か見せてもらった。家賃の安さや古い建物の趣がとても魅力的に映った。 地元の大阪で店を始めようと考えていたけれど、借金せずに開業できるハードルの低さや、変わるために必死だった自分には、長野市への移住はそう難しいことではありませんでした。

場所は、本当にどこでも良かったんですよ。たまたま一番最初に候補地に上がってきたのが長野市だったというだけです。名古屋の知り合いに、「長野市が今、善光寺の周辺で空き家を改修したお店がちょっとずつ増えているよ。」という情報だけ教えてもらって、何となく「面白そうだな。」と感じていたので、それからすぐ長野市に行きました。

色々考えても、悪く無かったので、長野市に来たという感じです。当時、「大阪に帰って地元でお店をやろう。」という気持ちが強かったので、ある程度、大阪で物件や、家賃の相場を考えていました。ですが、長野に行って、色々話を聞くと、考えていた金額感よりも、全然安くできることがわかりました。長野には山登りに行ったりもしていたので、何と無く良いイメージもありました。
本格的に、色々とお金を計算すると、借金せずにスタートできる金額感でした。失敗してもマイナスにならないので、「とりあえずやってみて、無理だったらまた考えれば良いか。」と思っていました。

知り合いは誰もいないところからスタートしましたけど、逆にそれぐらいの方が自分の実力を試すなら良いかなと思っていました。もともとが自分の実力を試すというか、自分で1からやりたいということだったので、それならそういう場所でも良いかなとも思っていました。たまたまその場所が新潟だったら、今、新潟にいるでしょうし、それが偶然長野市だったというのは、今考えると何かの縁だったのかもしれないですけど。

暮らしに合わせる

《開業後》
開業1年目は喫茶スペースも作って、ちょっとした食事も提供していました。
珈琲は1日のはじまりに飲むのが好きだからモーニングをやって、せっかく開けるならお昼は食事も出して、珈琲は自家焙煎して、でも人件費はかけたくないから1人で全部やって。と、朝から晩まで忙しく体力的にキツい日々。
思い描いていた暮らしとはちょっと違うかもと感じながらも、飲食店の経験が全く無いこともあって、「こんなもんなんだろう」と自分に言い聞かせていました。
できるだけお店を休まずに、その時に出来ることを繰り返しやっていたら、少しずつお客さんが増えていった。自分の珈琲を求めて来てくれる人たちの声が自信になって、「ちょっと違うかも」という心の声に素直になろうと決意しました。

そして、開業2年目には食事の提供をやめ、4年目には喫茶の営業をやめ、今では珈琲豆の販売専門店になりました。
できることを減らすことで、自分たちに無理がなくなる。無理がなくなると、長く続けることができる。長く続けていると、質が上がる。そんな考えのもと、自分たちのペースや大切にしたいものを定期的に見直し、その都度何かを変える決断をしてきました。

振り返れば開業した当初は会社員時代のようにできるだけ仕事をして、それに合わせて生活をする感覚でした。今は妻や子供がいて、思い描く理想の暮らしに仕事を合わせたいと思っています。
これからも、理想の暮らしは変わっていく。そしてそれに合わせるように、これからも変わっていくであろうヤマとカワ珈琲店にお付き合いいただけますと、幸いです。

開業したての頃は、サラリーマンの感覚がまだ残っていたので、その働きに合わせた暮らし方をしていました。例えば、その場所で暮らしたいわけではないが、転勤になったから、そこに暮らすということです。飲食店だったら、朝から夕方までやるのが普通かなと思って、それに合わせて暮らしていたのですが、「それって違うのでは。」ということをちょっとずつ感じ始めました。
それは家族が増えたことが1つのきっかけです。暮らすというのがベースで、それに仕事を合わせていったほうが良いなと思って変えていきました。暮らしをベースでその隙間で仕事をするという感覚です。

収入を得るだけが仕事ではないと思っています。たくさん忙しかったら、たくさん外食してしまうと思うんですよ。疲れて、自分で作る時間がないから。そしたら出て行くお金も多いから、それってプラスマイナスあまり変わらなくて。労働時間を減らして、自炊をしたり、野菜を作ったりということができれば、出て行くお金が少なくなる。そうすると、残るお金ってそんなに変わらないと思っています。それであれば、収入を増やす努力をするよりも、支出を減らす努力にあてる時間の方が、ストレスが無いと思っています。家族全体で考えた時に、収入だけ増やす必要はなくて、支出を減らせば、収入少なくても良いかなと。なので、その選択をしました。
収入っていくら増えても満足しないんですね。もっと増やそうと思ってしまうから。
それはあんまりだなと思って。できる範囲で売上が増えていけば良いですけど、そこまですごく増やしたいとか、スタッフ雇って、店舗を増やしてというのは今のところ考えていません。

考え続ける

考えることがすごい大切だと思います。
自分自身の中にしか答えがないと思っているので。
考えて、とりあえず自分でやってみないと、納得できないと思います。
その中で、近い将来と、遠い将来を両方考えたほうが良いと思っています。すぐ先の、明日、明後日、1週間、1年後という近い将来。でも、それってしっかりと方向性が定まっていないとダメなので、遠い10年後を見ながら、逆算して、今を考えるというのは、よくやっています。

考える中でも、自分の幸せは理解しようとはしていて、自己分析はいつもしています。今であれば、家族全員の気持ちを分析しますけど。
結局、働くことは、暮らしの一部でしかないので、働くとか、職種ってそんなに必要性がないものだと思っています。生きるためには何が重要かを考えると、楽しくストレス無く生きることだと思うので、それは良く考えます。妻とも話しますし。

日常的に考えています。普通に過ごしている中で、「なんか違うな。」と思うことが多いというか、引っかかるんですよ。そう思った時に、なんで違和感を感じたのかを細かく分析していると、「〇〇と言われたのが嫌だったんだ。」「〇〇の時が嫌だったんだ」というのに気付けてきて、だったらこの行動やめようのように修正できる。

サラリーマン時代に「自営業をなんでやるの?」「自営業をやって将来どうなりたいの?」というのは、すごく考えたんですよ。1年半ほどお金を貯めている期間で。毎日のように。仕事終わった後に、喫茶店行って、ノートにみっちり書いて。その時に癖付いたかもしれないですね。こういう時間は定期的にやらないと気持ち悪いですし、忙しいとなかなかこういった時間は取れないので意識的に考えるようにしています。

私たちが大切にしている3つのこと

1. 毎日飲める
質の良い生豆を使って、美味しい成分の化学変化をしっかり促すように弱火でじっくり火を通します。雑味がなく、甘味やコクが口の中にずっと残っている余韻の長い珈琲を目指しています。ガツンとした一口目のインパクトよりも、飽きのこない毎日飲める味です。
生豆の選定には、うちの焙煎機で美味しく焼ける豆であることと、仕入れ値が高すぎないことをポイントに選んでいます。毎日飲むためには値段もとても重要。日常で飲みやすい値段と、お店を続けていける利益とを考え、ある一定の値段以上の生豆は仕入れないように決めています。決められたその中でいかに高級品に負けない味を持っている銘柄を探し出すか、というところに腕の見せどころがあると考えています。

もちろん珈琲にはこだわりをもっています。ただ、そのこだわりをお客さんにどこまで表現するかというところに気をつけています。
「〇〇農園の〇〇で。」のように、あまりこだわりを表現しすぎてしまうと、お客さんは難しいと感じてしまうのではないかと思っています。
なので、豆選びをこだわったり、美味しい珈琲を作るのは当たり前の大前提として、それをお客さんにいかに難しくなく伝えるかというところに気を使っています。

2. 焙煎機のメンテナンス

火から下ろすタイミングが数秒違うだけで味が変わってしまう焙煎の世界。だからこそ焙煎機のメンテナンスは定期的に行っています。
焙煎機を大きく4つのパートに分けて、毎週1パートずつ掃除しています。外に伸びている煙突部分も季節が変わるごとに掃除しているので、ほとんど汚れ知らずです。
当店の珈琲が「雑味が少ない」とよく言っていただけるのは、日々の掃除のおかげかもしれません。

3. 無理なく続けられる抽出方法の提案

家で飲む珈琲とお店で飲む珈琲は別物です。
お店と同じ味にする為には、技術も必要ですが、コストがかかります。
1杯抽出するのにかける時間や、珈琲豆の量などを考えると、家では家の珈琲があっていいと思います。
淹れる方の性格や生活リズム、台所の広さ、飲む時間帯、珈琲のために使える予算、これらの条件を考えて、珈琲を生活に取り入れられる抽出方法を一緒に考えましょう。
大事なことは、カップに入った珈琲の味だけで判断しないこと。
お湯を沸かして豆を挽くところから、最後に珈琲器具を片付けるところまでが珈琲の時間です。それらを総合して抽出器具を選定しましょう。
月に1度、珈琲抽出ワークショップを開催しております。

家で飲む珈琲と、お店で飲む珈琲を一緒にするお客様が多くいらっしゃいます。豆を購入されたお客様で「お店で飲んだ珈琲と違う。」という言葉をよく聞くんですよ。お店って少し非日常であって、少し特別な珈琲。家で飲む珈琲は、毎日飲める珈琲。一緒にする必要はないと思っています。
毎日飲む珈琲を美味しく淹れれた方が良いと思っていますが、豆を購入されるお客様って「淹れ方わからないです。」のようになかなか聞かないんですよ。こっちが「聞いて良いですよ。」と伝えても、「大丈夫です。」との返答が返ってくる。

でも、ワークショップを開くと結構人が来るんです。それは、お金を頂いて、時間を割いてといった前提があったほうが、日本人の性格もあってか、聞きやすいからだと思います。
それに対して営業中だと、「忙しいから聞いてはいけないのではないか。」という感覚があるみたいで。

基本、教えるのにお金はいらないんですよ。僕ら豆で売っているので、完成品ではない。液体になって初めて珈琲で、途中のものを売っているので。淹れ方を教えるのは当たり前だと思っています。お客様に教えたいんですけど、ワークショップを開いたほうが、みんな聞いてくれるからやっています。

想いを表現する理由

あえて、サイト上で表現しています。今の時代って、個人店が多いですし、珈琲屋さんなんてどこにでもあるし、違いをみせるのには、想い、こだわりしかない。自分だったら、「安いから買う。」っていうのはあまりしないし、「誰から買う。」というところしかあまり考えない。僕らみたいな自営業が生き抜いていくには、やっぱり、僕が好きだから買ってくれるという人をいかに増やすかだと思っています。ネットで色々買えますし、近くにお店もあるだろうし、差をつけるのは人でしかないと思っています。

取材を受けて、記事にしてもらって、「見ました。」と言って来てくれる人もいますし、やっぱりそういう繋がりの方が強いです。ファンをいかに増やすかですね。珈琲豆もそこまでめちゃめちゃこだわっているとかではなくて、それよりもどう考えているかとか、どういう想いで作っているかの方が大事だと思っています。どの商品でもそうだと思います。

今後の自分

「生きるチカラ」をつけたいです。
どんな場所にいっても、どんな時代になっても生きていけるチカラ。
それはきっと野菜づくりであったり大工作業であったり、そういう手仕事ができるようになりたいです。
ただ、完全自給自足の暮らしに憧れているわけでもないので、珈琲の仕事を続けつつ、自分にとって家族にとってちょうど良いバランスの暮らしができるように目指したいです。

お店が必要とされなくなるまで。|Glocal foods「NAVEL」崎元 伸郎/崎元 生歩子 #2

ストレッチゾーンへようこそ

N:長野に来てから、よく体を動かすようになりました。スポーツは好きだし、山登り、クライミングもします。

K:私は、中高生の頃は、学校で山登りをやっていたのですが、それから「山登りは、もうやらない。」と思っていました。(笑)ずっと、主人の誘いを断っていたのですが、度、嫌々主人に付いて行ったらハマっちゃって。(笑)それから、子供生まれる前は、シーズンだと毎週出かけたりとか、月に1回は必ず2、3泊で山やキャンプに出かけていました。あの体験がなかったら、今の自分が無いと思うぐらいです。(笑)自分らしくなりました。

N:最初、全然やる気無かったんですよ。(笑)1度、クライミングの体験に騙して連れて行きました。
そしたら、すごく楽しんでいて。(笑)僕が最初に始めていたのですが、どんどん上達していきました。(笑)

K:クライミングにはオブザベーションという、観察して考える時間があります。どう登っていくのかを観察して、考える時間です。これは子育てや、料理など日々の生活にも生かされることが多いです。目的を考えて、俯瞰で見て、手段を決める。
なんでもクライミングです。(笑)

N:クライミングと日常が結びつくことは多くあります。例えば、不安レベルについて。人それぞれ、コンフォートゾーンという範囲があります。不安にならない行動範囲です。その先にストレッチゾーン、デンジャーゾーンと大枠で3段階あるんですが、人間ってコンフォートゾーンに居たがるんですよ。日々の習慣行動から逸脱するものはなるべく避けたい。コンフォートゾーンだけでは成長が無いので、新しいことに対してのチャレンジ精神がわかない。その点、ストレッチゾーンは我々の可能性を発揮できる機会を与えてくれます。

K:アウトドアもそうで、いつものフィールドがあって、少しチャレンジするストレッチゾーンがあります。

N:アウトドアってそもそも小さなリスクがいっぱいあるから、本能として楽しいって思えるんだよね。少し普段の生活と違う非日常感は新鮮な体験を与えてくれるし、五感が気持ち良い。
普通の生活をしていると五感が鈍ってきてしまうので、たまにアウトドアフィールドに出かけて、リセットしてあげる。自分の感覚を呼び戻すというか、元に戻してあげる。
自分の感覚を研ぎ澄ますと、選択って自ずと、そこを基準にしてくるはずなんですよ。
それをみんなに体験して欲しいと思っていて、五感を鍛えるワークショップも企画しています。
自分で選択できる人が増えると、恐らく世の中はもっと楽しくなると思います。
「ストレッチゾーンへようこそ。」ですね。(笑)

選択肢を広げる

K:人間は10歳ぐらいまでに感覚が成熟されると言われていて、味覚もほぼ決まってしまいます。

N:10歳までに食べてきたもので、その後の人生が決まってします。なので、リミッターを外してあげたいと思っています。リミッターをつけたままだと、その狭い範囲内での判断基準しか持てない。


「美味しい。」と思うものをもうちょっと広げていってあげる感覚です。自分たちは自然食を提供しているけど、五味に対して理解がある人でないと受け入れられない場合もあります。小さい頃から、化学調味料とかで調理している食事を好んで食べていたら、そういう食事を好きになってしまうので、化学調味料を外した料理を提供したときに、「美味しい。」と思えなくなってしまうかもしれない。
野菜もそうだと思います。化学農法で育てた見た目が綺麗な野菜とか、甘みだけに特化した野菜を美味しいと思って食べていると、苦味とか、滋味深さとかを美味しいと思ってもらえないかも知れない。
そういう想いがあって、五味の授業は子供達にやりたいと思いました。
選択の幅を残してあげたいと思っています。

N:最近の活動として、食育をメインにして活動しています。レストラン空間だけでなく、子供達にまつわる食を調えたいと思っています。売り上げだけとかのプライベートなことの追求ではなく、土台の部分を含めての幸福を訴求していったほうが自分が幸せで、幸福度が高い。

K:食育の映画上映をしたり、市民団体もやっているので、お母さんたちと食育の勉強をしたり、料理教室をしています。

日常の豊かさを求めて

N:最終的には、このお店が必要とされなくなることがゴールだと思っています。

K:外食に依存する生活ではなく、家庭料理を豊かにして欲しいという想いがあります。その為、お店にも自然食品を置いています。家庭の調理を大切にすることが一番自分の体を健康にします。
例えば、お客さんが「美味しかったです。」とお話されれば、提供した料理のレシピを渡します。「このドレッシングはこうやって作るので、ご自宅でやってください。」っといった形でオープンソースです。レシピ公開型のお店です。何も隠さないです。秘伝とか無いです。(笑)
逆に、「ご自宅でやってみてください」というスタンスです。

N:サービスではなく、応援です。料理を提供する人対消費者の関係ではなく、生活する人という括りです。「生き生きと、楽しく幸せに生活する為に、応援したい。」そう思っています。
どんどん豊かに暮らしていく人が増えていけば、社会は幸せになると思います。

K:お店に来て欲しいというよりは、「日々の生活を大切にして欲しい。」ということを伝えたいです。

N:あまり押し付けがましいのは良くないと思っていて、日々の生活にちょっと違う選択を入れて欲しい。大きな変化はいりません。

K:大きな変化って続かないんですね。私はランニングをしているのですが、「私の目標は〇〇分」のようにやると続かないんですよ。そうではなくて、日々のランニングを楽しむことだったり、今日も無事に走れたことを喜ぶことが大切であって、目標とか意気込みとかは続かない。

N:日々の生活する中で、無意識なものも含めて無数の選択が積み重なっています。私たちはその無意識下の選択肢を提供したいと思っています。

ストーリーを届ける

K:「いっかく」という八百屋を穂高神社横に新たにオープンしました。
背景には、生産者さんに対する想いがあります。
生産者さん、提供者、お客さんが全てフラットな形であれば良いのですが、現状そうでは無いと思っています。段階構造になってしまっている。

N:生産者さんのファンになって欲しいと思います。野菜への誠実さや、生産者一人一人のキャラクターであったり。まず知ることだと思います。知れる場所を提供する。そして、野菜に対する想いであったりを届けてあげる。

K:農家さんの食材の一部分だけを切り取って、美味しい、まずいだけではなく、もっと背景的な部分も含めて、提供していきたいと思っています。
良いお野菜は調理していると気持ちが良いし、味がしっかり乗っているお野菜は調味しなくても美味しいです。そういうお野菜がなくなるというのは、私たちが提供したいものが無くなったり、私たちの楽しみもなくなってしまいます。生産者さんを支えていかなければ、扱う素材も無くなってしまうので、自分ごととして捉えています。

N:僕は、純粋に生産者さんを尊敬しています。そして、生産者さん達の努力、チャレンジ精神みたいなものをもっと知って欲しいと思っています。
なので、生産者さんに直接赴いて、様々なものを見て、聞いています。そうすると、私自身がその人の生活の一部になっていきます。僕はその人の野菜を使うことによって、応援することもできる。
さらに、長く応援し続けることが大切だと思っています。


その土地で暮らしていくための信用経済だから。例えば大きなイベントをやって、大きな収入が一時的に入るというのも良いとは思いますが、マーケットに合わせた動きをしていくのは、本来の自然の形では無いと思っています。
生活で結び合っていかないといけないと思っている。打ち上げ花火として結ばれている関係は、お金はもしかしたら儲かるかもしれないけど、続かない。農家さんは工業製品を育てているような気持ちになるし、健康とは別の方向に向かっていく。個人の健康、社会の健康を保っていくためには、細く長くやっていくことが大切だと思います。
顔の見える関係性を大切にしたいと思います。支えられる人数は少ないけれど、お金だけの関係性では無いものを構築していきたいと思います。

K:売れなかったものを持ってきてくれる農家さんとか、格外で安くなってしまったものを持ってきてくださる農家さんもいらっしゃいます。作っている人の気持ちを含めた上での野菜を楽しんでもらう場を体験してもらう。料理を食べるだけの体験以外のことを我々は付加価値として提供していきたいと思っています。

N:余ってしまった野菜もできるだけ活用しています。八百屋は、構造的にやっぱり野菜が余ってしまう。でも、余るものは絶対に廃棄したくない。火曜日が定休日なので、月曜日にお店で余った野菜を使ったパーティーをしています。自分たち家族もそうだし、友人家族や、生産者さんを呼んで食事をしています。ただ、食事を楽しむだけでなく、交流の場にもなっています。
こういった取り組みは、もっと展開できると思っています。お家に眠っている乾物や、買ってはみたけど使わない塩とか、お土産で買ったけど食べないものとか。これがいわゆるフードロスというものです。これらを生かして、穂高全体でも一緒に面白いことをしたいと思っています。

最後に一言

ジビエや、野菜料理を生活の中に取り入れたいと考えているけど、どうやったら良いかと模索している方にはお力になれると思います。家庭料理のヒントとなれれば嬉しいです!

人生を発酵させる。|Glocal foods「NAVEL」 崎元 伸郎 /崎元 生歩子 #1

食と向き合うきっかけ

崎元 伸郎さん(以下、N):神奈川県川崎市出身です。川崎なので、ほぼ首都圏で生活していました。自分で料理は作っていましたが、仕事にするイメージは最初は無かったです。自立する為のツールぐらいしか思っていませんでした。

崎元 生歩子さん(以下、K):私は大分県の出身です。中学校にあがるタイミングで単身上京のような形で、寮に入りました。一貫教育の学校です。私は、高校生の頃に色々なきっかけがありました。高校生の頃がちょうどカフェブームでしたし、ヨーロッパに行く機会があって、それから飲食に興味を持ち始めました。なので、料理は高校の時からやっていて、ワインスクールでバイトもしていました。その後、自然な流れで、ホテルで就職をしました。

N:食へ大きく関心が向いたのは、9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が起きたことが大きなきっかけでした。当時、19歳の時です。日本という国に生まれて、今まで何不自由なく何の気なしに生活していた中で、あの事件をきっかけに、社会の深さというか、社会がどう動いているのかに興味を持ち始めました。それと同時に、自分が本当にやりたいこと、社会に必要とされることをどうマッチングしたら良いのかなと考え始めました。
ワールドトレードセンターは、資本主義経済の象徴みたいなもので、それに対して、ショッキングなアプローチがあったということは、経済構造が破綻しているのでは無いかと感じました。なんとなく、自分が責められているとも思いました。自分には、見えない世界がある。そう考えると、環境破壊や、劣悪な労働環境などの色々なことに目が向くようになりました。

K:同じ歳の私自身は、あのニュースを見て、「大変!」と思っただけだったのですが、主人は、社会の裏側とか、なんでこんなに恨みを買うのかと思ったみたいなんですね。

N:我々に見えない生活を知ろうとせずに、我々が幸せに暮らしているというのは良くないのではないかと感じました。
自分の幸福と、社会の幸福をどう両立させようかと考えた時に思ったのが、食でした。
食が1番僕にとって、ポピュラーだし、「美味しい。」と思うだけで誰もが幸せになる。
自分たちの幸福だけでなく、次の世代の環境を考えて、選択をしていくことの大切さを感じました。

私たちが長野に来た理由

K:畑のあるレストランを目当てに、まず主人が25歳になる時に単身で行きました。
付き合い始めてすぐに「僕はもう長野に行くから。」と言われて。(笑)

N:当時、2人とも東京で野菜に特化した同じナチュラルフレンチレストランで働いていました。色々な場所から有機野菜を取り入れたりしていましたが、お店のある場所で作られているわけでは無い。外から農産物を買って来て、ガソリンを沢山使って飛行機や、トラックで運んで来る。莫大なエネルギーを使って運んで来ることに違和感を感じました。

また、畑になっている野菜の姿を知らないんです。(笑)スーパーに並んでいる野菜の味と、形しか知らない。野菜を手にとって、美味しい、美味しく無いの判断だけをするというのは、お客さんに対しても、生産者さんに対しても、不誠実だと思いました。
これから先、料理をやっていく中で、何より自分自身に不誠実だと思いました。
お客さんに対してのプレゼンテーション能力も高めたかったし、創造性の面でも学びたいと思っていたので、畑のある場所で働きたいと思いました。
たまたま知り合いのお店があったので、行ってみたら、すごい居心地が良く、もうすぐ決めました。思い立ったらすぐ行動しちゃうタイプなので、、。(笑)

K:あまり周囲のことは考えず。(笑)私は、主人が長野に行ってから2年後に移住をしました。長野に来て良かったと思います。
私は都会のレストランで働いていて、尖ったサンダルとかを履いて、都会の人ぶっていたのですが、都会にいたら、お客さんにただ単純に美味しいと思ってもらうことや、日々の売り上げの数字に、多くのウエイトを置いていたので、社会的な問題についてまで考える余裕が無い。
当時は、主人と離れて、お店を転職して、キャリアアップを図ったのですが、仕事のサイクルがすごく早くて、体を壊してしまったりといったこともありました。

そこから、飲食の仕事を辞めて、全く違うアウトドア用品や、スポーツウェアを売っているお店に転職をしました。
職場には、アウトドアが大好きな人たちが周りにいて、「長野良いじゃん。」と勧められました。同じ東京の中でも、こういった価値観ってあるんだということに気づけて、長野県が近く感じるようになりました。

穂高である理由

K:穂高にゆかりは特に無いです。(笑)今のお店を3年前にオープンしたのですが、ずっとこの物件が空いていました。穂高駅の目の前の交差点なのに、10年位ずっと空き物件でした。
グレーのカーテンが閉まっていて、売り物件だったんです。

N:本当にカーテンが閉まって、真っ暗だったんです。死んでいたんです。(笑)
でも、僕はそれが宝に見えたんです。「ここは死んでいたらまずいよね。」って思って、ちょっとした使命感に駆られました。場所ありきで、ここの課題は何かと俯瞰した時に、この街が楽しくなることを表現したいと思いました。

K:穂高の駅前のこの場所だったら何をするのが良いかと考えて今のスタイル。
自分のやりたいことと、この街にはこれが必要では無いかという観点を併せ持ちつつ、お店を作りました。
安曇野の土地の食材のポテンシャルはすごく高いので、それをもっと提供できる場所は欲しかったし、農家さんも欲しいと思っている。

N:穂高の駅前に若い子が楽しめる場所が無かった。
でも、無かったら、「作れば良いじゃん。」って思うんですよ。(笑)
なので、文句を言うなら智恵を出そうよと思っています。まず自分が飛び込んでみないと。

発酵と腐敗

K:このお店は畜産のお肉は一切使わずに、鹿とイノシシを中心にジビエを使っています。ジビエは狩猟でとる野生のお肉のことです。害獣駆除をされる中で、その9割が破棄されている現状があります。その中で、たくさんのコスト、エネルギーをかけて畜産のお肉を食べるのなら、山のお肉を食べたほうが良い。

N:「発酵と腐敗」を大きなテーマとして持っています。どう人生を発酵させていくかというのが大きなテーマです。食べ物でもそうです。なので、なるべく食べた後に発酵していくものを使いたいと思って、日々調理しています。食を提供していく責任として、その場で美味しいだけでなく、食べた後の食後感だったり、健康といった長期的な視点として見たいと思っています。なるべく発酵するものを提供していきたい。ジビエは腐りづらいんですよ。さらに、抗生物質や、成長促進剤やホルモン剤は使える余地がありません。
美味しく調理すれば、食べられる高級食材だし、提供したお客さんの健康を長期的に考えられるので、積極的に使うようにしています。

K:原体験としてあるのが、子育てです。豚カツとか畜産のお肉を食べると、ホルモン系のもので太らせていたりするので、授乳トラブルが起きてしまいました。
それが、山肉を食べた時にはならなかったんですよ。鹿肉を食べたら大丈夫だった。
動物的な判断ですが、これは子供に食べさせられるものだと思って。体への負担がすごく少ない。
食味だけでなく、体への負荷を考えた時に、子育ての上でも良いなと思いました。

地元のマスターへの憧れ|カンティーナわん 砂子 慎哉 #1

地元のマスターへの憧れ

私は、富山県出身です。富山県にいたのは中学生までで、高校は全寮制の高校へ1人東京に出て行きました。
当時、親がチャンスをくれて、地元の高校へ行く道と、東京の高校へ行く道を選ばせてくれました。その時に「どっちかわからないけど、東京行った方が良いか。」と思って、飛び込んでみました。

大学へ進学するつもりはあんまりなくて、当時ひねくれていたので、めんどくさいなと思っていました。なんせ全寮制の高校なので楽しみが少なくて、男同士で悪さするだけだったのですが、本を読むのが好きで、ずっと本を読んでいました。
その中で、心理学の本に出会って、読んだ時に、「これ面白いな。」と思い、その出会いから心理学関係の本をとにかく読みあさりました。
「どうせ大学へ行くのなら勉強したいことするか。」と思い、心理学関係の学部、学科を受験し、結果受かったのが大阪でした。

大学4年間は飲みまくって、遊びまくって、勉強しまくってといった感じでした。
ただの学生です。(笑)
当時、アルバイトは飲食関係をしていて、レストランやすし屋、バーのお手伝いをしていました。
その時は飲食をやりたいという気持ちはなく、アルバイトとして漠然と働いていました。
ただ、「面白いな。」という気持ちは当時からありまた。

卒業後は大学院を視野に入れていて、心理学の道で将来進むべきかどうかを悩んでいました。
4年生の1、2月の進路が決まるギリギリの時期に、「大学院はやめよう。」と思いました。
理由は心理学を勉強したかっただけで、職業にしたかったわけではないと途中で気づいたからです。その時に、「自分はどう食べていこう」と先の人生について悩みました。
その中で、自分の人生を振り返った時に、どういう瞬間が楽しかったのかを考えると、小さい頃に行っていた「MOKU MOKU」という地元の喫茶店を思い出しました。
小学生から、大学生までずっと通っていた喫茶店です。
そこのマスターがかっこよくて、喫茶店にいくのが楽しくてしょうがなかったんです。
そこのマスターは船乗りさんとして世界を旅したこともあったり、綺麗な奥さんがいたり、スキーもインストラクター級の腕前で、なんでもできるカッコ良いマスターでした。
全部がカッコ良い。

事業計画書で親を説得

飲食のアルバイトをしていた時に感じていた「楽しいな。」と言う気持ちもあって、「これを職に出来ないか。」と感じるようになりました。
そう思った時にはもう心では「よし。これで行こう」と決めていました。
当時、親に大学へ行かせてもらっていて、大学に行った以上はこれを無にすることは出来ないので、親を説得しなければならないと。
それから、「こういうプランで、こういう業態、席数○席、単価○円、売上○円、私の給料はこれぐらいなります。」と事業計画書を書きました。
実家に帰って、お父さん話があると。これを読んでくれと出しまして。
「そこまで考えているなら、好きにせい。その代り後悔するんじゃないぞ。」
と認めてもらい、そこから飲食の道に入りました。
その後は、事業計画書に書いてあった初期投資の額を貯めければならないと思い、会社員になりました。

とにかくお金を貯めなければならなかったので、大事なポイントはお給料でした。
就職課に行って、残り少ない求人情報を見て、全部受けました。
その中で、一番給料が良かったのが、システムエンジニアでの就職でした。
当時、若干景気の良い時だったので、仕事もあって、お給料も良くてといった環境でした。
大阪で就職をしたのですが、大阪という街は非常に楽しい街でして、稼いだお金は全部飲んでしまい、遊びに使ってしましました。
事業計画書の中に、自分の性格は加味していなかったんですね。(笑)
このままやっていてもお金は貯まらないし、経験も積めないしといった想いで、結局、二年弱で退職をしました。

フランスと松本

その後、一度、実家の富山に戻って出版社で営業をしていました。
実家ならお金が貯まると。
飲食店へ営業をしている中で、仲良くなったフレンチのシェフの方と飲む機会がありました。
そこで「飲食をやりたいが、見習いしかやったことありません。」と伝えると、「お前フランス行って来い!」と言われました。
「おれが修行していたお店に紹介状書いてやるよ。」ということでフランスに行くことへ決めました。
そこからガソリンスタンドで働いたりと、お金を貯めていたのですが、フランスに行く前に、私の同級生とバリ島へ行く機会がありました。
ここに松本に来るきっかけがあります。

同級生とバリ島に着いた後、その同級生のお父さんと合流することになりました。
そのお父さんは松本で飲食や旅館を経営している方でした。
「これからフランスへ料理の勉強をします。」と今後の話をしていると、「フランスになんかに行ってまともな料理人になった人を見たことがない。」と言われまして。
そんなことは無いんですけど。
「君は、日本帰ったら松本に来なさい。新しい店を出すから。」と言われまして、冗談かなと最初は思っていましたが、日本に帰国してのほほんとしていたら、「お前はいつ来るんだ。」と言われ、本気だったんだなと。
とりあえず見学のつもりで行ったところ、そのまま働くことになってしまい、松本で暮らすことになりました。
大きい旅館のレストランです。そこでバーテンダー業務があり、店長業務がありという形です。
本当は今頃フランスに行っているつもりでした。(笑)

今のお店(カンティーナわん)は、当時働いていたお店の隣にありました。
仕事が終わったら毎日飲みに行っていたんです。また、大阪時代と変わらず飲んでいるんですよ。
当時は、雇われている身だったので、「本当はこうしたい。」といったやりたいことが沢山ありました。
どうしても誰かのお店だと上の人の許可をもらったりと、出来ないことが出てきます。
その中でフラストレーションが溜まっていって、「この理想を叶えることが出来ないかな。」と模索すると、むしゃくしゃして、酒を飲むといった感じで。
その時に、私の師匠であるわんさんに、「店をやってみたら?」と後押しをされ、お店を持つ流れとなりました。
最初は店長という形で入って、その後、お店を買い取りました。
当時は、お付き合いしている方と結婚しようと思っていて、「雇われ店長では、結婚できないな。」と思っていたんです。(笑)「男ならば一国一城の主として結婚したい。」という想いがあったので、お願いをして、売ってもらうことになりました。
人生いろいろあります。
その時に、お金も足りなかったのですが、当時、付き合いのあったお客さんがお金を貸してくれたりと、いろんな方に応援してもらい、支えられて初めてのお店を開くことが出来ました。
いろんな出会いがあって、いろんなことを吸収して、そのエッセンスがお店に反映されています。

エルドラド15年|カンティーナわん 砂子 慎哉 #2

お客様と向き合う

お店って結局人だと思うんです。
私がいい加減だと、お店もいい加減になるし。私がつまらない人だと、つまらないお店になるし。自分を磨くことは大切なので、いろんな方に出会って、言葉遣いや、振る舞いを勉強してと、出会った方の複合系が私だと思っています。

また、バーの対面接客というものについては一般飲食とやや違ったところがあると思います。
まず、テーブル席があって接客をするというのはお客様と接する時間がすごく少ない。
テーブルの横にべったりついているのはおかしな話なので。
お客様の時間を大切にしてもらって、なにか必要なときに、さっと手を差し伸べるのが、レストラン、居酒屋の仕事だと思います。
でも、バーはもっと近い距離感です。
これだけお客様と向き合って長い時間接客をすることは他の業態だと無いかと思います。
美容師さんと近いものがあると思います。
お客様と向き合うという事は、お客様の人生とも向き合うということです。
いろんなお話を伺います。普通の飲食店や居酒屋では話さないことを話されていると思います。ここにだけ話してくださることは墓場に持って行くというか、それを聞くというのはそれだけ責任が発生するという事なので、そういう意味では有り難いことだと思って受け止めています。

バーテンダー歴は17年目ですが、今までいろんな失敗をしてきました。
「恥って何回かくんですか?」ってぐらい。(笑)
私は、修行らしい修行をほとんどしないままお店に立ったので、、、。
シェイカーぶっ飛ばしたこともありますし、、。
その瞬間スローモーションですよ。
お客さん口開くみたいな。
カクテルの配合を間違えて、お客様大激怒っていうこともありました。
営業中にお客様倒れて救急車呼ぶとか、言えないことも多々ありながら、カウンター越しに17年間いろんなことがありました。

エルドラド15年

最初に出会ったお酒が“エルドラド15年”というお酒でした。
ラム業界の中では、有名なお酒です。
これを最初に飲んだ時に衝撃を受けまして。
当時、20代中ごろでお酒の味がわかったような、わからないような時期でした。
ウィスキーを飲んでるのも少し背伸びをしていた部分もあったんですけど、これを飲んだ時に、「なんだこれは?」と。
素直に美味しいと思えるお酒だったので、目から鱗でした。
そこからお酒の事を調べ出して、「ラムって何?」「他にもいっぱいあるじゃん」と。
とにかく端から買って、端から試して「やっぱりラム好きだな!専門はラムだな!」と思ったんです。
そこから、どんどんラム色を強めていって、今は、ラム酒専門となりました。

日本ではまだマイナーなお酒ですが、世界で見るとメジャーなお酒です。
世界中色々なところで作られていて、今リリースされている銘柄が約4万銘柄あると言われています。
ウィスキーは作れるエリアが限られていたりしますので。
それと、ウィスキーは熟成させてから、商品化されるまで10年かかると言われていて、なのである程度資本力がある先進国でないと作れなかったりという事が起きてしまいます。
それに比べてラム酒はそんなに日にちをかけずに商品化できるので、小さい蒸留所でも作れるお酒なのです。

日本一標高が高い蒸留所

日本には、沖縄を中心に9か所蒸留所があります。
これから自分が建てた蒸留所でラム酒を作りたいと思っています。
少し前までは沖縄に蒸留所に作りたいと思っていたのですが、今は出来れば信州に作ろうと思っています。
信州は、標高が高いので蒸留所を作ることができたら、日本一標高の高い場所で作ったラム酒が出来ます。
日本一になってみたくないですか?
小っちゃい男の夢ですが。(笑)
その時は、「ハイランドラム」という名前を付けたいと思っています。

しかし、信州でサトウキビを栽培するとなると効率が悪い話になってきますので、サトウキビは沖縄の物でやろうと思っています。
サトウキビは足の速い植物なので、加工したサトウキビを輸送するというやり方を考えています。
「ハイテストモラセス」という製法があるのですが、それであれば長野県へ良い状態で持って行くことが出来るので、こちらで蒸留するという流れです。
蒸留所建設という目下の夢です。
お客様からも「楽しみにしているよ!」「いつやるの?」と、言った以上は常に責め立てられているので、やらざるを得ない状況です。
自分で自分の首を絞めたんですけど。(笑)

バーの楽しみ方

初めてのお客様だとよく言われるのが「オススメを下さい。」「美味しいやつを下さい。」
場合によっては、「私に似合うカクテルを下さい。」
せっかくお越し頂いたら自分にあう一本を見つけて帰ってもらいたいなと思っています。
「ラムを飲んでよかったな。」「知らなかったことが知れてよかった。」と思って頂きたいと思います。
その為に私は、お話をさせていただくようにしています。
その方の味覚の話、普段飲むお酒の話です。
これを聞き取った上で、どのお酒を紹介すればお客様にぴったり合うのかというのを経験則の中で感じて、一本ご紹介する。
お酒を選ぶプロとして、お酒を提供するプロとして、その方にとって最適な一杯を探す努力をしています。
当然、100%という精度はいきませんが、90%まで精度を上げてきていると思っています。
もちろんメニューはありますが、あまり役に立ちません。
せっかくですからカウンターに座っていただいたら、なんの話題でも良いのでお話しから始めましょう。
まだAIにはできない仕事だと思っています。

最後に一言

ラムは、味や、香りの表現力がとても豊かなお酒です。
ちなみに当店には、常時、約250種類のラムを取り揃えています。
あなた好みの一本を一緒に探しませんか?

世界中の人に会える場所|Healthy Penguin Cafe ルーニーマイケル/ルーニー千春

松本で生活した理由

喋るのへたくそだからな、、、。(笑)
無理だよ、、、。(笑)

もともと料理がすごい好きで家でよく料理を作っていました。
「カフェを開きたい。」という思いはもともと持っていて、松本に来てから4か月ほどカフェで働いていました。
でも、実際は、松本に来てから4か月後にオープンするなんて思ってもなかったよね。(笑)
当時は「いつか開く。」ぐらいに思っていました。(笑)たまたま良い物件が空いていたのです。

私はオーストラリア出身ですが、オーストラリアでの仕事に飽きてきて、新しいことをしたいと思っていました。それが松本に来た一番のきっかけです。少し日本語を勉強したことがあるので、日本語を覚えたかったこともあり、ワーホリで日本へ行きました。
そこで今の妻に連絡をしたんです。
妻は、学生時代にワーホリでオーストラリアに来ていた経験があり、そこで出会いました。それからはずっとお友達の関係でいたのですが、私が日本へ行く時に、妻以外お友達がいなかったので、当時、会った以来に連絡をしました。
その後、付き合って、結婚して、、、。(笑)

それから、日本でまずは二人で長く定住する場所を探していました。
私は、スノーボードが好きで、最初、新潟や北海道のスキー場で働いていた経験があります。長野はスノーボードも出来て、妻の実家である神奈川にも近い。
オーストラリア人の友達が松本に住んでいて、「すごい良いところだよ。」ということも言われていました。
実際に住んでみると環境的にも東京よりも人が少なくて、ゆったりとしたペースが良い。
松本のことがすごい好きになりました。

店名に込められたエピソード

妻にプロポーズをする時に、オリジナルなプロポーズで伝えたいと思っていました。
そう考えた時にペンギンのプロポーズの仕方がすごい可愛くて、そのようにプロポーズをしました。
オスペンギンがプロポーズの時に、メスペンギンに小石を渡すんです。
メスペンギンがその石を拾い上げたら、結婚成立です。(笑)
本当です!!(笑)

なので、私は、プロポーズの時にフォトアルバムと石をあげました。
そこから「ヘルシーペンギンカフェ」という名前が付けられています。
あとは、ヘルシーはカフェの象徴的な言葉なので、覚えやすい名前かなとも思います。
それから、友達からも親からもペンギンにまつわるプレゼントをもらうようになりました!(笑)

カフェを通して私たちが出来ること

カフェは去年の12月にオープンしたので、半年を過ぎたくらいになります。
お店のこだわりは、100%植物性原材料を使用していて、卵や乳製品などの動物性の食材は一切使っていないこと。
どんな人でも楽しめるというのは私たちのやりたかったことです。様々な食事制限がある人がいるとは思うのですが、この場所に来れば誰でも楽しく食べることが出来るというのが良いかなと思いました。
環境問題や、野菜、果物の持つパワーを意識していて、このお店にきて「体の調子が良いな。」と思ってくれれば、良いかなと思いました。
私達も普段から食にすごい気をつけているので、その想いを反映しています。

このようなカフェの形になったのは、自分でビジネスをするのならば、社会や環境問題、自然に貢献できるようなビジネスをしたいと思っていたからです。
オーストラリアには健康や、環境問題に配慮したカフェはとても多くあります。
例えば、ストローをステンレスにしてプラスチックは使わないことや、ラップを使わないといったことです。
私達もこのようなビーガンカフェがすごい好きで通っていたのですが、松本にはこういったお店がないと思っていました。
ただ、良い空間、美味しい料理を提供するだけではなく、環境問題などを考えなければならない時代かなと考えています。
今、子どもがいて、将来のことを考えるとすごい大切な問題かなと思います。
ビジネスとなるとこういったことに目を向けるのは難しかったりするのですが、意識してお店づくりをしています。

世界中の人に会える場所

お店をオープンしてから半年以上経ちましたが、オープン当初思っていたよりやることが多いと感じています。(笑)
そういった大変な部分もありますが、お客様から「美味しかったよ」「また、来ます」といった言葉をたくさん頂けることがすごくうれしく思っています。

また、お店をやっていて好きなところが海外のお客様がたくさん来店してくださると言うところです。松本市は東京みたいな大都会ではないのに、世界中の人の会えるんですよ!
旅人に会えて、いろんな旅の思い出を聞かせてくれて、自分も旅をしているような気分にしてもらえる。ヨーロッパ、南米、北米、アジア、世界中から来店されます。
特に、私はスコットランド人であり、オーストラリア人であるので、同じ故郷の方が来るのは地元の話ができて嬉しいです。
これは想定していない本当にうれしい誤算でした。
松本には、すごく良いコミュニティーがあります!
結構外国人通しの知り合いも多いんですよ。

Healthy Penguin Caféのこれから

今、カフェを中心に営業していますが、イベントなどを通していろんな方が来られる場所になって欲しいと思っていて、コミュニティーとしての機能を充実させたいと思っています。ここのお店に来て下さるお客様同士が仲良くなる姿を見ると、とても嬉しい気持ちになるので、こういったことが多く起きてほしいと思います。
「Healthy」という言葉には食事だけでなく、いろんな要素があるかと思います。
なので、ヨガなどといった様々なものを取り入れて、バランスの良いライフスタイルを提供していければと思います!
上手くしゃべれない、、、。(笑)

昔ながらの味で世代を繋げる|豆まめ 丸山 則文

“たまたま”から始まった料理人人生

一番最初に飲食に携わったのは、高校時代にバイトを探していて、たまたま雑誌に載っていた近くの小さい洋食屋さんに応募したことです。
そのアルバイト先では、最初、厨房に入りましたが、チーフが良い人だったのと、小さい店という事もあり、何でもやらせてくれました。そこから「料理がおもしろいな。」と感じていきました。魚をさばくとか、色々やらせていただけたので、続けることが出来ましたが、下積みを何年もやってとなると飽きちゃったかもしれないですね、、、。(笑)

高校卒業してからもしばらくそのお店で働いていました。私は横浜出身ですが、家族が長野県でペンションをやる予定がありました。ですが、その予定が長引いていて、なかなか動きだせない時に、兄貴夫婦と「もう長野に行った方が良い。」という判断で長野県へ引っ越しました。ペンションのスタートです。当時25歳の時でした。

働きながら抱いていた違和感

ペンションは7、8年やっていましたが、私が松本市の奈川の方と結婚することになったので、そのタイミングでペンションを出ることとなりました。
30歳過ぎの時です。
その後は、ゲレンデで食堂をやっていました。ゲレ食のキッチンです。
今まではペンションで一人前ずつ作っていたのが、どばっとオーダーが来て、それを捌くといった仕事に変わりました。
ですが、料理をずっとやっていたので、ゲレ食でも「ここはこだわりたい。」といったように所々で色を出していました。

その後の転機は、スキー場が食堂を閉鎖することになってしまったことです。
その時の想いは、「ずっと飲食やってきたし、夫婦でなにかやりたい。」といった想いでした。
それを形にするように、奈川でカフェを始めました。
松本市の施設を借りて、9年間やっていました。
カフェでは食堂や、お土産を扱っていましたが、その時抱いていた気持ちは、「ただ、お土産屋さんの横流しで売っていたのでは面白くない。」という気持ちでした。

うす焼きとの出会い

そんな違和感を抱いている中で、カフェに来たお客さんに、たまたま女房が作ったうす焼きを出しました。そのお客さんはうす焼きを食べて「珍しい!!」と言ったんです。
このシーンを見た時に直感的に「これだ。」と思いました。
色々な具材が入るし、家の畑も生かせる。豆や、リンゴを入れても面白い。おやつにもなる。
これがうす焼きを商売にしようと思ったきっかけです。

しかし、うす焼きを商売にしたいと地元の方に話すと、意外な反応が返ってきました。
「うす焼きを売るの!?」という反応です。
第三者の目から見ると、「地元食材を使った素朴な食べ物をもっと外に出したい。」という想いでしたが、地元の人は、その時にある物でうす焼きを作る認識しかありません。
ですが、私には地元食材をうまく使って、こだわりを詰めることで良いものが出来るのではないかという可能性をとても感じていました。

うす焼きの商品化

女房にうす焼きの作り方を聞くと、「みんな目分量で作っている。」との答えでした。その時家にあった食材を使うので、その時によって味が違ったりといったことが起きます。
本当に各家庭で味が違っていて、うす焼き自体に味付けをせず、味噌をつけて食べたり、砂糖醤油つけて食べたりという人もいます。
味にある程度の答えが無いものをレシピにするのは難しいので、女房が作っていた味を基本にしてレシピにしています。

レシピだけでなく、食材にもこだわっています。なるべく国産、長野県産、自分の畑の食材を使いたい。安心して食べることができる食材を使っています。
例えば、長野県産の小麦粉、中力粉なので、もっちりとした触感が楽しめる。
砂糖はキビ砂糖。卵は会田のたまご。お水は、松本の湧水を汲んできて使っています。
誰がつくったかがわかる食材を使いたいし、これは自分でも気になることで意識的にやっています。

「うす焼きっておせんべい?」

お店を始めての苦悩はうす焼きを知らない人が、うす焼きの文字を見た時に県外の人は見当もつかないことです。(笑)
「おせんべいかな?」と想像してお店に来るひともいますし。(笑)
名前を変えて販売することも違うなと感じていました。
「うす焼きってなんだろう。」とお店の前を通り過ぎてしまう人に、足を止めてもらって、食べてもらいたい。

食べてもらえれば美味しいと感じてもらう自信はあったのですが、食べてもらう第一歩を踏み出せずにいました。
今のお店は観光の人もいるし、地元の人もいるしといった客層ですが、外国から来た方に対してどう伝えるかは課題でした。
出た答えは松本のローカルのパンケーキ。これを表記してからは、観光客はローカルの物を食べたいと思って来ているのでお店に足を運んでくれるようになりました。
食べてもらうと、「美味しい!」と食べてくれます。

通販もやっていて冷凍発送もしています。
自然解凍をして、トーストで温めてもらえば美味しく食べることができます。
一口でも良いから食べてもらう。粉の美味しさ、豆の美味しさを味わってもらいたいと思っています。

うす焼きへの想い

このお店を通してうす焼きがどんどん広まっていけばと思っています。
うす焼きに馴染みがあるのは上の世代。近所のおばあちゃんがお店に来てくれて、懐かしんでいっています。
ある時に来た奥さんは、「よく母親が作ってくれた。今度作ってみようかな。」と言ってくれます。
うす焼きは栄養もあり、健康に良い子どものおやつにぴったりです。
上の世代に馴染みのあるうす焼きが、次の世代へ、また次の世代へと繋がってほしい。
そう願っています。

私がうす焼きにこだわる理由

自分で作ってもう10何年になりますが、す焼きを食べる度に「美味しい。」と思います。
自画自賛ではないですが、素直にそう思います。それが理由です。
閉店後にお店で残ったうす焼きを、嫁、娘がいる家族に持ち帰っても、同じ反応が返ってきます。
飽きない。それだけ自分が好きで、毎日食べても美味しいと思います。
季節を感じる食材を使用していて、身体にも良い。
こういったものをもっと食べてもらいたい。
それだけの想いです。

私のプライベート

休みの日はずっと家の畑です。
豆、じゃがいも、そばといったうす焼きに入れる食材を出来るだけ作っていきたいと思っているので、この時期はずっと畑です。(笑)

最後に一言

うす焼きは、季節によってさまざまな食材を使っていて、100以上の種類があります。
高原野菜の甘さや、美味しさは食べてもらえば分かると思うので、是非お店に足を運んでください!

 

「30才までに長野でコーヒー屋を開く!」|High-five COFFEE STAND 髙木 徹仁/髙木 尚美

High-five COFFEE STANDを営む二人は、異なるバックグランドを持つから面白い。

二つの視点が混じり合い、一つの空間が作られている。

二人の背景を、想いを知ることで、
もっとお店に行くのが面白くなるはず。
もっとコーヒーを飲むのが面白くなるはず。