全てにこだわる|焼肉ハウス「大将軍」#2 坂下 拓也

1つの転機

出身は、富山県富山市です。小学生まで富山市に住んでいました。父親が転勤族だったのもあり、中学生からは、長野県長野市で暮らしていました。高校を卒業するまでです。
ずっと小中高とバドミントンをやっていて、スポーツマンでした。勉強は好きではないが、できなくもない。そんな学生でした。
高校時代を振り返ってみると、「とりあえず大学を出れば、就職も困らないかな。」と思っていたので、勉強したいことも特にありませんでした。そんな気持ちもあって、大学は推薦で楽に入学できるところを選びました。福井県の大学です。しかし、大学に入学する前に1つの出来事がありました。それは、入学式の数ヶ月前に両親が離婚したことです。

「大学のお金はどうするのか。」「母親、父親どっちにつくのか。」様々な問題がありましたが、その時考えたことは、「俺は、俺の人生を歩む。誰にもお世話にならない。」といったことです。親達が離婚したせいで、俺が生活できないとなったら、ヒモか何かでしかない。そういうのは好きではないし、学費は俺が出す。家賃も俺が出す。そんな想いでいました。ですが、どうしたって、お金が減っていく中で、1番最初に何が困るかというと、腹が減ること。
本当に。どんだけ一生懸命にやろうとも、能力が高かろうとも。これはそういう環境に身を置いた人にしかわからないと思います。

店長の一言と一杯のレタスチャーハン

腹減ってどうするかというと、大学生な訳だし、賄いのあるところでバイトするしかない。浅はかだね。(笑)「今日から働かせてくれないですか。」といろいろなお店に掛け合いました。時給は少なくても良いから、とにかく賄いが食べられるお店で。そんな中、1番最初に働いたのが、あるチェーン店の中華料理屋でした。
その店長さんも、学生の頃苦労されたみたいで、今までの事を伝えると「気持ちはわかるよ。」と話していただき、出勤初日にレタスチャーハンを作ってくれました。面接に行ってから、次の日です。


そのレタスチャーハンを食べた時に、色々我慢していたことや、境遇、自分の情けなさに、涙が出ました。「なんだこれ。なんでこんなに美味しんですか?」と聞いたら、「これはただのレタスチャーハンだ。俺はお前のために作った訳だけど、食べ物で人を感動させられるんだよ。」と。これを聞いて、「俺はこの人みたいになりたい。」と思いました。
必死に生きていたから、この衝撃を受けたのだと思います。人はいきなりガクッと落ちると、必死に生きる。必死に生きてきたからこそ「こういうのがやりたいんだ。」といったことが見つかってくるんだと思います。俺もお金がなくて、腹が減った状態でなければ、食べた賄いはただのレタスチャーハンだったかもしれない。色々巡った中での、店長の一言と、レタスチャーハンの一杯だったんだよね。「ここだな。」と思いました。それから店長に「俺は食べ物屋を目指す。」と伝えました。「学校をやめます。」と伝えたのは、この出来事があった次の日でした。

頑固親父のラーメン屋

中華料理屋さんでは、とにかく偉くなろうと思いました。まずは、もちろんアルバイトからスタートしましたが、店長からは、「誰から見ても、仕事ができるようになったら、社員も良いんではないか。」とお話しをいただきました。その言葉をいただいてからは、本当にがむしゃらに朝から晩まで働いていました。
しかし、働いていくと、「やはりマニュアルに過ぎないな。」という想いが出てきました。これからも真剣に食の道に携わっていくのであれば、チェーン店ではなく、個人店に飛び込んでみる必要があると感じていました。働いて2年ほど経過した時です。当初の約束通り、「社員になるか。」という話があったのですが、社員になっても、何も変わらないし、自分に保証がつくだけ。「それは違うのではないか。」と思っていました。

そんな事を思っている中、アルバイトで貯めたお金で食べ歩きをする機会がありました。その中で良いお店との出会いがたくさんありました。ある福井県のラーメン屋さんに行きましたが、そのラーメン屋さんが感動的に美味しかった。「ラーメンでこの美味しさどうした。」と。びっくりしました。オープンキッチンなんですが、驚くほど綺麗で、全員坊主で、ハチマキを巻いて、一切笑顔が無い。この姿を見て、「この人たちカッコ良いな。」と強く感じました。これが頑固親父がやっているラーメン屋というやつかと。それから、ずっとチェックしていました。その時は、社員を募集していなかったのですが、数ヶ月後に募集がかかっていました。「これだ。」と思って、すぐに面接をさせていただきました。面接が終わると「明日から来なよ。」とお話をいただきました。その時、返事はしたものの、バイトはあるし、「どうしうよう。」と。
そこで、店長に「良いお店があったので、行きたいです。できれば明日なんですけど」と話をしました。そしたら、「お前のことだから、そう言うと思っていたよ。」と言ってくれて。
それから、一気にラーメン屋の方に頭が切り替わりました。

小さく芽生えた想い

そのラーメン屋は何もかも手作業でやるお店です。厳しいお店でした。寸胴の洗い方一つでも、とにかく怒られる。見える景色が全く異なりました。「今まで何やっていたんだろう。甘く無いな。」と感じました。ある日、親方に、「何がそんなに駆り立てるんですか。」と質問したら、「そりゃ、借金だろう。今日、お客さん来なかったら潰れるんだぞ。」と。もう必死さで負けている。ラーメン屋では、渾身の1杯を「これでどうだ。」とお客さんに出して、その対価として、お金を頂く。この精神を特に叩き込まれました。プロとは、仕事でお金をもらうことができる状態。自分が作ったこの1杯を出している時点でプロということ。アルバイト、社員といった立場は関係ない。このラーメン屋では約5年働いていました。

働いている中で、ラーメン屋の社長とよくお話する場を設けてもらいました。その時、感じたのは、「社長って超えられないな。」という気持ちです。偉くなりたかったのですが、そういう想いでやっていると、やっぱりどこかで行き当たる。「これ以上は、上にいけないな。」と。それが社長でした。
どんだけ仲良くなっても、どんだけ話し込んでも、結局、立場が違う。社長は「俺の喜びとか、悲しみははっきり言って段違い。」と話していました。これがまた羨ましくて。どこか、経営する立場になってみたいという想いが生まれていました。

自分の人生を振り返ってみて、チェーン店の中華料理屋さん、個人店のラーメン屋さんしか経験していないなと感じました。当時、25歳の時です。これで、自分のお店を出すのは、「まだまだだな。」という気持ちがありました。将来の自分に聞いても、「まだ無理。」と言われる。

衝撃の出会い

これだけ長い間仕事をしていると、”誰と働くか”が大切だと感じていました。今度は、人を見たいと思い、社員で入るのではなく、アルバイトを複数掛け持ちしました。朝、昼、夕方、夜中。多い時は4つ掛け持ちしていました。

面接を色々受けている中で、富山の焼肉屋さんに面接に行きました。このお店で後に、師匠になる人に出会います。最初の面接は店長さん。キッチン志望の旨を伝えましたが、「今は、ホールのアルバイトしか募集していない。」とのお話でした。「キッチンで色々学びたい。」と熱く語ったところ、店長さんだけでは、決定ができないので、社長と話してくれとの話をいただきました。
社長との面接の時です。登場した時に、その怖さに衝撃を受けました。ダースベーダーの曲が流れているかのようでした。(笑)空気が全然違う。「うちのキッチンでやりたいらしいな。アルバイトではなく、社員で来いよ。」と。ただ、仮にこのお店が自分にとって、良くなかったら、お互いにとって迷惑がかかる。その想いを伝えると、「なんだ、俺のお店を試すのか。」と。しかし、ここで押し負けたら、一生ペコペコだなと思っていたので、意を決して「一度、試させていただきたいと思います。」と伝えました。この言葉が気に入ったらしくて、「よく言ったな。俺を試すか。明日来いと。」と言っていただきました。また、明日です。(笑)

大将軍が出来るまで

働いてみると異常にキッチンの人数が少なかったんですね。なぜなら、働き始めても、厳しすぎてすぐ辞めてしまうんです。どんなに頑張っても1ヶ月。正直、「鬼っているんだ。」と思いました。当時、アルバイトで働き始めましたが、1ヶ月、2ヶ月と経った頃に、すぐに親方に「是非、社員として働かせてください。」と伝えました。その時同時に、「僕は30歳になったら辞めます。独立します。その間修行させてください。」と。


以前、働いていたラーメン屋の親方は、お客さんありきの思考でしたが、焼肉屋さんの親方は、料理ありきの思考。「この料理を食べさせて、美味いと思ってもらえなかったら、お前なんて生きている価値がない。」というぐらいの人でした。和食出身の親方でしたが、やっぱり厳しかった。毎日「どうやって仕返ししてやろう。」と思っていましたよ。(笑)
厳しい親方でしたが、厳しいのは俺の為。それがヒシヒシと伝わってきました。厳しくしてくれているのに、厳しくて辞めるなんて、大馬鹿者だと思っていました。厳しいながらも、愛を感じる。がむしゃらに働いていました。
30歳になったタイミングで、親方に独立の想いを話すと、「うちの看板持って行け。」とお話しをもらいました。実はこのお店、富山の大将軍というお店です。「後にも先にも、名前をあげるのはお前だけだよ。」と。それで看板を掲げさせていただくこととなりました。この焼肉屋では、約4年働いていました。
どこでお店を始めようかと考えていましたが、ふと中学、高校の時に長野市に住んでいたことを思い出し、長野市、松本市を中心に物件を探していました。
色々な親方から学んだことを集約すると、物件のポイントは、完全にオープンキッチンで、料理を魅せることが出来る事。それであって、圧倒的な美味さを出したい。その条件で探していると今の物件と出会うこととなりました。お寿司屋さんの居抜きです。

全てにこだわる

お店では、全部を大切にしています。1つに限定できません。お客さんは、綺麗なお店に行くわけでも無いし、美味いお店に行くわけでも無いし、接客が良いお店に行くわけでも無い。そのお店に行く。「このお店良いかな?」って思って来店する。大事なのは、来店したお客さんが帰る時に「良かった。」と感じるかどうか。そう考えると、大切にすべきことは、全部でしょ。手洗いにこだわっていると言って、従業員に清潔感がなければ、「どうした?」ってなるし。全部にこだわっています。

大事にしていることで言えば、日々感謝をしています。お客さんが来てくれるのは普通なことでは無いし、社員、アルバイト関係なく、従業員が働いてくれるのは、普通では無い。
俺は、今まで親方たちに教わってきたわけだけど、ただ、自分でお店を出すだけで、親方と呼ばれるように。それってそんなに簡単な事では無いと思います。「その責任は俺が絶対取るんだ。」という覚悟だけはあります。誰からも、「この人と働いて良かったな。」と思わせてあげたいと思っています。自分自身が親方達に対して、そう思っているので。いつか、従業員が自分のお店を持つようになったり、他の店舗を任せるようになった時に、初めて親方になる。その時に初めて身を以て感じると思うんだよね。そうなった時に恥ずかしく無いように育ててあげたい。そう思っています。全部が普通のことでは無いと思っているし、一生懸命頑張って当たり前でしょ。
人を育てるなんておこがましいと思っています。それよりも、「一緒にいこうよ。」という感じです。仲良くするの好きなんだよね。結局。お客さんと飲みに行くのも好きだし。中には、焼肉屋なのに、週に3回も来てくださるお客さんがいます。美味いのはもちろんだけど、その上で、うちのスタッフがいるから、俺がいるからと言ってくれる。こんなに嬉しいことはないよね。そういったお客さんの期待に応えるにはどうしたら良いか。毎日、毎日同じメニューでは良く無い。もっと品質を上げていったりとか、新しいことにチャレンジしていったりとか、店舗の改装をしたりとか、色々なやるべきことがある。どこにも手を抜けないんだよね。そういう姿を自分が率先してやって、できることならその姿を学んでいって欲しい。その学んだ従業員が自分の味方だったら、こんなに嬉しいことはない。楽しくてしょうがないと思います。

私のプライベート

趣味あるんです。(笑)当てられたことは無いけど。(笑)趣味は、”知らないことを知ること”です。「知らない!」ってなったら居ても立っても居られないんだよね。例えば、「あの映画見た?」とか、「新しいお店行った?」とかそういうことです。ジャンル問わずアンテナを張っています。ジャンルを狭めることは、こだわりではなく、価値観を狭めているだけ。多くの人が関心を持っていることを自分も試してみるのは、人に流されているのでは無い。知らないことは罪だと思っているので、自分が経験した上で、判断すれば良い。引き出しをいっぱい作っておく状態を作ることは重要だと思っています。ちなみに、今年の社員旅行はスキューバダイビングでした。去年は、富士登山。一昨年は、ディズニーランド。(笑)意味分からないでしょ。(笑)ディズニーランドでは、徹底された清掃、接客、イベントなどは見るべき。富士登山は、日本一の山登ってみたいでしょ。(笑)色々な刺激を受けて、考えることは必要だと思っています。

最後に一言

「美味いもの食べたい。」「旨いお酒が飲みたい。」
食の要望がある時は、うちのお店を思い出していただいて、是非足を運んでみてください!
お待ちしております!

地元のマスターへの憧れ|カンティーナわん 砂子 慎哉 #1

地元のマスターへの憧れ

私は、富山県出身です。富山県にいたのは中学生までで、高校は全寮制の高校へ1人東京に出て行きました。
当時、親がチャンスをくれて、地元の高校へ行く道と、東京の高校へ行く道を選ばせてくれました。その時に「どっちかわからないけど、東京行った方が良いか。」と思って、飛び込んでみました。

大学へ進学するつもりはあんまりなくて、当時ひねくれていたので、めんどくさいなと思っていました。なんせ全寮制の高校なので楽しみが少なくて、男同士で悪さするだけだったのですが、本を読むのが好きで、ずっと本を読んでいました。
その中で、心理学の本に出会って、読んだ時に、「これ面白いな。」と思い、その出会いから心理学関係の本をとにかく読みあさりました。
「どうせ大学へ行くのなら勉強したいことするか。」と思い、心理学関係の学部、学科を受験し、結果受かったのが大阪でした。

大学4年間は飲みまくって、遊びまくって、勉強しまくってといった感じでした。
ただの学生です。(笑)
当時、アルバイトは飲食関係をしていて、レストランやすし屋、バーのお手伝いをしていました。
その時は飲食をやりたいという気持ちはなく、アルバイトとして漠然と働いていました。
ただ、「面白いな。」という気持ちは当時からありまた。

卒業後は大学院を視野に入れていて、心理学の道で将来進むべきかどうかを悩んでいました。
4年生の1、2月の進路が決まるギリギリの時期に、「大学院はやめよう。」と思いました。
理由は心理学を勉強したかっただけで、職業にしたかったわけではないと途中で気づいたからです。その時に、「自分はどう食べていこう」と先の人生について悩みました。
その中で、自分の人生を振り返った時に、どういう瞬間が楽しかったのかを考えると、小さい頃に行っていた「MOKU MOKU」という地元の喫茶店を思い出しました。
小学生から、大学生までずっと通っていた喫茶店です。
そこのマスターがかっこよくて、喫茶店にいくのが楽しくてしょうがなかったんです。
そこのマスターは船乗りさんとして世界を旅したこともあったり、綺麗な奥さんがいたり、スキーもインストラクター級の腕前で、なんでもできるカッコ良いマスターでした。
全部がカッコ良い。

事業計画書で親を説得

飲食のアルバイトをしていた時に感じていた「楽しいな。」と言う気持ちもあって、「これを職に出来ないか。」と感じるようになりました。
そう思った時にはもう心では「よし。これで行こう」と決めていました。
当時、親に大学へ行かせてもらっていて、大学に行った以上はこれを無にすることは出来ないので、親を説得しなければならないと。
それから、「こういうプランで、こういう業態、席数○席、単価○円、売上○円、私の給料はこれぐらいなります。」と事業計画書を書きました。
実家に帰って、お父さん話があると。これを読んでくれと出しまして。
「そこまで考えているなら、好きにせい。その代り後悔するんじゃないぞ。」
と認めてもらい、そこから飲食の道に入りました。
その後は、事業計画書に書いてあった初期投資の額を貯めければならないと思い、会社員になりました。

とにかくお金を貯めなければならなかったので、大事なポイントはお給料でした。
就職課に行って、残り少ない求人情報を見て、全部受けました。
その中で、一番給料が良かったのが、システムエンジニアでの就職でした。
当時、若干景気の良い時だったので、仕事もあって、お給料も良くてといった環境でした。
大阪で就職をしたのですが、大阪という街は非常に楽しい街でして、稼いだお金は全部飲んでしまい、遊びに使ってしましました。
事業計画書の中に、自分の性格は加味していなかったんですね。(笑)
このままやっていてもお金は貯まらないし、経験も積めないしといった想いで、結局、二年弱で退職をしました。

フランスと松本

その後、一度、実家の富山に戻って出版社で営業をしていました。
実家ならお金が貯まると。
飲食店へ営業をしている中で、仲良くなったフレンチのシェフの方と飲む機会がありました。
そこで「飲食をやりたいが、見習いしかやったことありません。」と伝えると、「お前フランス行って来い!」と言われました。
「おれが修行していたお店に紹介状書いてやるよ。」ということでフランスに行くことへ決めました。
そこからガソリンスタンドで働いたりと、お金を貯めていたのですが、フランスに行く前に、私の同級生とバリ島へ行く機会がありました。
ここに松本に来るきっかけがあります。

同級生とバリ島に着いた後、その同級生のお父さんと合流することになりました。
そのお父さんは松本で飲食や旅館を経営している方でした。
「これからフランスへ料理の勉強をします。」と今後の話をしていると、「フランスになんかに行ってまともな料理人になった人を見たことがない。」と言われまして。
そんなことは無いんですけど。
「君は、日本帰ったら松本に来なさい。新しい店を出すから。」と言われまして、冗談かなと最初は思っていましたが、日本に帰国してのほほんとしていたら、「お前はいつ来るんだ。」と言われ、本気だったんだなと。
とりあえず見学のつもりで行ったところ、そのまま働くことになってしまい、松本で暮らすことになりました。
大きい旅館のレストランです。そこでバーテンダー業務があり、店長業務がありという形です。
本当は今頃フランスに行っているつもりでした。(笑)

今のお店(カンティーナわん)は、当時働いていたお店の隣にありました。
仕事が終わったら毎日飲みに行っていたんです。また、大阪時代と変わらず飲んでいるんですよ。
当時は、雇われている身だったので、「本当はこうしたい。」といったやりたいことが沢山ありました。
どうしても誰かのお店だと上の人の許可をもらったりと、出来ないことが出てきます。
その中でフラストレーションが溜まっていって、「この理想を叶えることが出来ないかな。」と模索すると、むしゃくしゃして、酒を飲むといった感じで。
その時に、私の師匠であるわんさんに、「店をやってみたら?」と後押しをされ、お店を持つ流れとなりました。
最初は店長という形で入って、その後、お店を買い取りました。
当時は、お付き合いしている方と結婚しようと思っていて、「雇われ店長では、結婚できないな。」と思っていたんです。(笑)「男ならば一国一城の主として結婚したい。」という想いがあったので、お願いをして、売ってもらうことになりました。
人生いろいろあります。
その時に、お金も足りなかったのですが、当時、付き合いのあったお客さんがお金を貸してくれたりと、いろんな方に応援してもらい、支えられて初めてのお店を開くことが出来ました。
いろんな出会いがあって、いろんなことを吸収して、そのエッセンスがお店に反映されています。

エルドラド15年|カンティーナわん 砂子 慎哉 #2

お客様と向き合う

お店って結局人だと思うんです。
私がいい加減だと、お店もいい加減になるし。私がつまらない人だと、つまらないお店になるし。自分を磨くことは大切なので、いろんな方に出会って、言葉遣いや、振る舞いを勉強してと、出会った方の複合系が私だと思っています。

また、バーの対面接客というものについては一般飲食とやや違ったところがあると思います。
まず、テーブル席があって接客をするというのはお客様と接する時間がすごく少ない。
テーブルの横にべったりついているのはおかしな話なので。
お客様の時間を大切にしてもらって、なにか必要なときに、さっと手を差し伸べるのが、レストラン、居酒屋の仕事だと思います。
でも、バーはもっと近い距離感です。
これだけお客様と向き合って長い時間接客をすることは他の業態だと無いかと思います。
美容師さんと近いものがあると思います。
お客様と向き合うという事は、お客様の人生とも向き合うということです。
いろんなお話を伺います。普通の飲食店や居酒屋では話さないことを話されていると思います。ここにだけ話してくださることは墓場に持って行くというか、それを聞くというのはそれだけ責任が発生するという事なので、そういう意味では有り難いことだと思って受け止めています。

バーテンダー歴は17年目ですが、今までいろんな失敗をしてきました。
「恥って何回かくんですか?」ってぐらい。(笑)
私は、修行らしい修行をほとんどしないままお店に立ったので、、、。
シェイカーぶっ飛ばしたこともありますし、、。
その瞬間スローモーションですよ。
お客さん口開くみたいな。
カクテルの配合を間違えて、お客様大激怒っていうこともありました。
営業中にお客様倒れて救急車呼ぶとか、言えないことも多々ありながら、カウンター越しに17年間いろんなことがありました。

エルドラド15年

最初に出会ったお酒が“エルドラド15年”というお酒でした。
ラム業界の中では、有名なお酒です。
これを最初に飲んだ時に衝撃を受けまして。
当時、20代中ごろでお酒の味がわかったような、わからないような時期でした。
ウィスキーを飲んでるのも少し背伸びをしていた部分もあったんですけど、これを飲んだ時に、「なんだこれは?」と。
素直に美味しいと思えるお酒だったので、目から鱗でした。
そこからお酒の事を調べ出して、「ラムって何?」「他にもいっぱいあるじゃん」と。
とにかく端から買って、端から試して「やっぱりラム好きだな!専門はラムだな!」と思ったんです。
そこから、どんどんラム色を強めていって、今は、ラム酒専門となりました。

日本ではまだマイナーなお酒ですが、世界で見るとメジャーなお酒です。
世界中色々なところで作られていて、今リリースされている銘柄が約4万銘柄あると言われています。
ウィスキーは作れるエリアが限られていたりしますので。
それと、ウィスキーは熟成させてから、商品化されるまで10年かかると言われていて、なのである程度資本力がある先進国でないと作れなかったりという事が起きてしまいます。
それに比べてラム酒はそんなに日にちをかけずに商品化できるので、小さい蒸留所でも作れるお酒なのです。

日本一標高が高い蒸留所

日本には、沖縄を中心に9か所蒸留所があります。
これから自分が建てた蒸留所でラム酒を作りたいと思っています。
少し前までは沖縄に蒸留所に作りたいと思っていたのですが、今は出来れば信州に作ろうと思っています。
信州は、標高が高いので蒸留所を作ることができたら、日本一標高の高い場所で作ったラム酒が出来ます。
日本一になってみたくないですか?
小っちゃい男の夢ですが。(笑)
その時は、「ハイランドラム」という名前を付けたいと思っています。

しかし、信州でサトウキビを栽培するとなると効率が悪い話になってきますので、サトウキビは沖縄の物でやろうと思っています。
サトウキビは足の速い植物なので、加工したサトウキビを輸送するというやり方を考えています。
「ハイテストモラセス」という製法があるのですが、それであれば長野県へ良い状態で持って行くことが出来るので、こちらで蒸留するという流れです。
蒸留所建設という目下の夢です。
お客様からも「楽しみにしているよ!」「いつやるの?」と、言った以上は常に責め立てられているので、やらざるを得ない状況です。
自分で自分の首を絞めたんですけど。(笑)

バーの楽しみ方

初めてのお客様だとよく言われるのが「オススメを下さい。」「美味しいやつを下さい。」
場合によっては、「私に似合うカクテルを下さい。」
せっかくお越し頂いたら自分にあう一本を見つけて帰ってもらいたいなと思っています。
「ラムを飲んでよかったな。」「知らなかったことが知れてよかった。」と思って頂きたいと思います。
その為に私は、お話をさせていただくようにしています。
その方の味覚の話、普段飲むお酒の話です。
これを聞き取った上で、どのお酒を紹介すればお客様にぴったり合うのかというのを経験則の中で感じて、一本ご紹介する。
お酒を選ぶプロとして、お酒を提供するプロとして、その方にとって最適な一杯を探す努力をしています。
当然、100%という精度はいきませんが、90%まで精度を上げてきていると思っています。
もちろんメニューはありますが、あまり役に立ちません。
せっかくですからカウンターに座っていただいたら、なんの話題でも良いのでお話しから始めましょう。
まだAIにはできない仕事だと思っています。

最後に一言

ラムは、味や、香りの表現力がとても豊かなお酒です。
ちなみに当店には、常時、約250種類のラムを取り揃えています。
あなた好みの一本を一緒に探しませんか?