地元のマスターへの憧れ|カンティーナわん 砂子 慎哉 #1

地元のマスターへの憧れ

私は、富山県出身です。富山県にいたのは中学生までで、高校は全寮制の高校へ1人東京に出て行きました。
当時、親がチャンスをくれて、地元の高校へ行く道と、東京の高校へ行く道を選ばせてくれました。その時に「どっちかわからないけど、東京行った方が良いか。」と思って、飛び込んでみました。

大学へ進学するつもりはあんまりなくて、当時ひねくれていたので、めんどくさいなと思っていました。なんせ全寮制の高校なので楽しみが少なくて、男同士で悪さするだけだったのですが、本を読むのが好きで、ずっと本を読んでいました。
その中で、心理学の本に出会って、読んだ時に、「これ面白いな。」と思い、その出会いから心理学関係の本をとにかく読みあさりました。
「どうせ大学へ行くのなら勉強したいことするか。」と思い、心理学関係の学部、学科を受験し、結果受かったのが大阪でした。

大学4年間は飲みまくって、遊びまくって、勉強しまくってといった感じでした。
ただの学生です。(笑)
当時、アルバイトは飲食関係をしていて、レストランやすし屋、バーのお手伝いをしていました。
その時は飲食をやりたいという気持ちはなく、アルバイトとして漠然と働いていました。
ただ、「面白いな。」という気持ちは当時からありまた。

卒業後は大学院を視野に入れていて、心理学の道で将来進むべきかどうかを悩んでいました。
4年生の1、2月の進路が決まるギリギリの時期に、「大学院はやめよう。」と思いました。
理由は心理学を勉強したかっただけで、職業にしたかったわけではないと途中で気づいたからです。その時に、「自分はどう食べていこう」と先の人生について悩みました。
その中で、自分の人生を振り返った時に、どういう瞬間が楽しかったのかを考えると、小さい頃に行っていた「MOKU MOKU」という地元の喫茶店を思い出しました。
小学生から、大学生までずっと通っていた喫茶店です。
そこのマスターがかっこよくて、喫茶店にいくのが楽しくてしょうがなかったんです。
そこのマスターは船乗りさんとして世界を旅したこともあったり、綺麗な奥さんがいたり、スキーもインストラクター級の腕前で、なんでもできるカッコ良いマスターでした。
全部がカッコ良い。

事業計画書で親を説得

飲食のアルバイトをしていた時に感じていた「楽しいな。」と言う気持ちもあって、「これを職に出来ないか。」と感じるようになりました。
そう思った時にはもう心では「よし。これで行こう」と決めていました。
当時、親に大学へ行かせてもらっていて、大学に行った以上はこれを無にすることは出来ないので、親を説得しなければならないと。
それから、「こういうプランで、こういう業態、席数○席、単価○円、売上○円、私の給料はこれぐらいなります。」と事業計画書を書きました。
実家に帰って、お父さん話があると。これを読んでくれと出しまして。
「そこまで考えているなら、好きにせい。その代り後悔するんじゃないぞ。」
と認めてもらい、そこから飲食の道に入りました。
その後は、事業計画書に書いてあった初期投資の額を貯めければならないと思い、会社員になりました。

とにかくお金を貯めなければならなかったので、大事なポイントはお給料でした。
就職課に行って、残り少ない求人情報を見て、全部受けました。
その中で、一番給料が良かったのが、システムエンジニアでの就職でした。
当時、若干景気の良い時だったので、仕事もあって、お給料も良くてといった環境でした。
大阪で就職をしたのですが、大阪という街は非常に楽しい街でして、稼いだお金は全部飲んでしまい、遊びに使ってしましました。
事業計画書の中に、自分の性格は加味していなかったんですね。(笑)
このままやっていてもお金は貯まらないし、経験も積めないしといった想いで、結局、二年弱で退職をしました。

フランスと松本

その後、一度、実家の富山に戻って出版社で営業をしていました。
実家ならお金が貯まると。
飲食店へ営業をしている中で、仲良くなったフレンチのシェフの方と飲む機会がありました。
そこで「飲食をやりたいが、見習いしかやったことありません。」と伝えると、「お前フランス行って来い!」と言われました。
「おれが修行していたお店に紹介状書いてやるよ。」ということでフランスに行くことへ決めました。
そこからガソリンスタンドで働いたりと、お金を貯めていたのですが、フランスに行く前に、私の同級生とバリ島へ行く機会がありました。
ここに松本に来るきっかけがあります。

同級生とバリ島に着いた後、その同級生のお父さんと合流することになりました。
そのお父さんは松本で飲食や旅館を経営している方でした。
「これからフランスへ料理の勉強をします。」と今後の話をしていると、「フランスになんかに行ってまともな料理人になった人を見たことがない。」と言われまして。
そんなことは無いんですけど。
「君は、日本帰ったら松本に来なさい。新しい店を出すから。」と言われまして、冗談かなと最初は思っていましたが、日本に帰国してのほほんとしていたら、「お前はいつ来るんだ。」と言われ、本気だったんだなと。
とりあえず見学のつもりで行ったところ、そのまま働くことになってしまい、松本で暮らすことになりました。
大きい旅館のレストランです。そこでバーテンダー業務があり、店長業務がありという形です。
本当は今頃フランスに行っているつもりでした。(笑)

今のお店(カンティーナわん)は、当時働いていたお店の隣にありました。
仕事が終わったら毎日飲みに行っていたんです。また、大阪時代と変わらず飲んでいるんですよ。
当時は、雇われている身だったので、「本当はこうしたい。」といったやりたいことが沢山ありました。
どうしても誰かのお店だと上の人の許可をもらったりと、出来ないことが出てきます。
その中でフラストレーションが溜まっていって、「この理想を叶えることが出来ないかな。」と模索すると、むしゃくしゃして、酒を飲むといった感じで。
その時に、私の師匠であるわんさんに、「店をやってみたら?」と後押しをされ、お店を持つ流れとなりました。
最初は店長という形で入って、その後、お店を買い取りました。
当時は、お付き合いしている方と結婚しようと思っていて、「雇われ店長では、結婚できないな。」と思っていたんです。(笑)「男ならば一国一城の主として結婚したい。」という想いがあったので、お願いをして、売ってもらうことになりました。
人生いろいろあります。
その時に、お金も足りなかったのですが、当時、付き合いのあったお客さんがお金を貸してくれたりと、いろんな方に応援してもらい、支えられて初めてのお店を開くことが出来ました。
いろんな出会いがあって、いろんなことを吸収して、そのエッセンスがお店に反映されています。

エルドラド15年|カンティーナわん 砂子 慎哉 #2

お客様と向き合う

お店って結局人だと思うんです。
私がいい加減だと、お店もいい加減になるし。私がつまらない人だと、つまらないお店になるし。自分を磨くことは大切なので、いろんな方に出会って、言葉遣いや、振る舞いを勉強してと、出会った方の複合系が私だと思っています。

また、バーの対面接客というものについては一般飲食とやや違ったところがあると思います。
まず、テーブル席があって接客をするというのはお客様と接する時間がすごく少ない。
テーブルの横にべったりついているのはおかしな話なので。
お客様の時間を大切にしてもらって、なにか必要なときに、さっと手を差し伸べるのが、レストラン、居酒屋の仕事だと思います。
でも、バーはもっと近い距離感です。
これだけお客様と向き合って長い時間接客をすることは他の業態だと無いかと思います。
美容師さんと近いものがあると思います。
お客様と向き合うという事は、お客様の人生とも向き合うということです。
いろんなお話を伺います。普通の飲食店や居酒屋では話さないことを話されていると思います。ここにだけ話してくださることは墓場に持って行くというか、それを聞くというのはそれだけ責任が発生するという事なので、そういう意味では有り難いことだと思って受け止めています。

バーテンダー歴は17年目ですが、今までいろんな失敗をしてきました。
「恥って何回かくんですか?」ってぐらい。(笑)
私は、修行らしい修行をほとんどしないままお店に立ったので、、、。
シェイカーぶっ飛ばしたこともありますし、、。
その瞬間スローモーションですよ。
お客さん口開くみたいな。
カクテルの配合を間違えて、お客様大激怒っていうこともありました。
営業中にお客様倒れて救急車呼ぶとか、言えないことも多々ありながら、カウンター越しに17年間いろんなことがありました。

エルドラド15年

最初に出会ったお酒が“エルドラド15年”というお酒でした。
ラム業界の中では、有名なお酒です。
これを最初に飲んだ時に衝撃を受けまして。
当時、20代中ごろでお酒の味がわかったような、わからないような時期でした。
ウィスキーを飲んでるのも少し背伸びをしていた部分もあったんですけど、これを飲んだ時に、「なんだこれは?」と。
素直に美味しいと思えるお酒だったので、目から鱗でした。
そこからお酒の事を調べ出して、「ラムって何?」「他にもいっぱいあるじゃん」と。
とにかく端から買って、端から試して「やっぱりラム好きだな!専門はラムだな!」と思ったんです。
そこから、どんどんラム色を強めていって、今は、ラム酒専門となりました。

日本ではまだマイナーなお酒ですが、世界で見るとメジャーなお酒です。
世界中色々なところで作られていて、今リリースされている銘柄が約4万銘柄あると言われています。
ウィスキーは作れるエリアが限られていたりしますので。
それと、ウィスキーは熟成させてから、商品化されるまで10年かかると言われていて、なのである程度資本力がある先進国でないと作れなかったりという事が起きてしまいます。
それに比べてラム酒はそんなに日にちをかけずに商品化できるので、小さい蒸留所でも作れるお酒なのです。

日本一標高が高い蒸留所

日本には、沖縄を中心に9か所蒸留所があります。
これから自分が建てた蒸留所でラム酒を作りたいと思っています。
少し前までは沖縄に蒸留所に作りたいと思っていたのですが、今は出来れば信州に作ろうと思っています。
信州は、標高が高いので蒸留所を作ることができたら、日本一標高の高い場所で作ったラム酒が出来ます。
日本一になってみたくないですか?
小っちゃい男の夢ですが。(笑)
その時は、「ハイランドラム」という名前を付けたいと思っています。

しかし、信州でサトウキビを栽培するとなると効率が悪い話になってきますので、サトウキビは沖縄の物でやろうと思っています。
サトウキビは足の速い植物なので、加工したサトウキビを輸送するというやり方を考えています。
「ハイテストモラセス」という製法があるのですが、それであれば長野県へ良い状態で持って行くことが出来るので、こちらで蒸留するという流れです。
蒸留所建設という目下の夢です。
お客様からも「楽しみにしているよ!」「いつやるの?」と、言った以上は常に責め立てられているので、やらざるを得ない状況です。
自分で自分の首を絞めたんですけど。(笑)

バーの楽しみ方

初めてのお客様だとよく言われるのが「オススメを下さい。」「美味しいやつを下さい。」
場合によっては、「私に似合うカクテルを下さい。」
せっかくお越し頂いたら自分にあう一本を見つけて帰ってもらいたいなと思っています。
「ラムを飲んでよかったな。」「知らなかったことが知れてよかった。」と思って頂きたいと思います。
その為に私は、お話をさせていただくようにしています。
その方の味覚の話、普段飲むお酒の話です。
これを聞き取った上で、どのお酒を紹介すればお客様にぴったり合うのかというのを経験則の中で感じて、一本ご紹介する。
お酒を選ぶプロとして、お酒を提供するプロとして、その方にとって最適な一杯を探す努力をしています。
当然、100%という精度はいきませんが、90%まで精度を上げてきていると思っています。
もちろんメニューはありますが、あまり役に立ちません。
せっかくですからカウンターに座っていただいたら、なんの話題でも良いのでお話しから始めましょう。
まだAIにはできない仕事だと思っています。

最後に一言

ラムは、味や、香りの表現力がとても豊かなお酒です。
ちなみに当店には、常時、約250種類のラムを取り揃えています。
あなた好みの一本を一緒に探しませんか?

三代食堂である理由|三代食堂 岡部 賢二

自分がやりたいことは

出身は茨城県です。大学進学時に上京をして、4年半ぐらい東京で暮らしていました。卒業後は、茨城に戻って、栄養士の資格を取りました。
このきっかけは、大学時代のアルバイトにあります。

アルバイトは、とんかつ屋で3年働いていたのと、他には居酒屋や、ホテルで働いていました。良いバイト先であったんですけど、とんかつ屋は近所だったという理由でやっていたので、どちらかというと、何となくやっていた感じです。
とんかつ屋では、最初は皿洗いからなのですが、盛り付けや、かつ丼作りまでいろいろなことを任せてくれました。当時は、「すごい楽しい。」と感じていましたね。

大学の後半から卒業に近づくにつれて、大学では全く関係ないことを勉強していたけど、漠然と「飲食店をやりたい。」という気持ちが芽生えてきました。
そこで、食に関してちゃんと勉強したいという想いから、地元の茨城県に戻り、栄養士の専門学校に入り直しました。
結構東京嫌になっちゃって、、。(笑)
殺伐とした感じとか、疲れてしまったのもあって、田舎に帰ろうと決めました。
別に東京に居続けて、資格を取る必要はないと感じていました。

1人の上司との出会い

専門学校の卒業後は、たまたま職場が長野県に決まって、委託給食と言う形で、老人ホームであったり、学校であったり、その場所にあった給食を作る仕事をしていました。


最初の配属は、老人ホームでした。期間は、1年間です。
その後は、約二年間、池田の方にある障がい者施設で食事を作っていました。
そこで1つの出会いがありました。

私の上司は、もともと京都の割烹で修行をしていた方です。
その上司は、「給食業界はなめれられている。」と言っていて、例えば、カレーを作るにしてもレトルトを入れて、食材を入れて完成となる。料理に凝る習慣がなく、技術を向上するという姿勢が見られないんですね。
それで良いんですけど。食べる側も完成度を求めていないから。
でも、その上司はたまたま働く場所がなく、入りやすい給食業界に入ってきたのですが、技術はあるので、給食だけど、給食らしからぬ味を出すんですよね。(笑)
味付けの段階でダシの比率や、味付けの順番など細かく調整していく。
そこで基本的なことを教えてもらいました。
調理師学校時代の勉強を、上司に弟子入りする形で実践へと変えていきました。
その出会いがなければ、今どうなっていたかわからないですね、、。(笑)

オープン前に山小屋に!?

その後は、2017年4月頭ぐらいに会社を辞めさせていただきました。
前職で働いている時には、もうこの物件は決まっていたので、お店を開く準備をしていたのですが、もろもろやっているうちにお金が足りなくなってしまって、、。(笑)
車も売ったりしたんですけど、サラリーマン時代の貯金でお店を完成するには、足りない状態でした。
また、そこで1つの繋がりがありました。

ここ1年ほど「ヒーターズ」というバンドをやっていて、そのギタリストのオーナーが、山小屋を経営していました。そこから「一緒に働いてみない?」という話をもらって、昔から山には興味があったので、2017年の夏に4ヶ月ほど山小屋で働いていました。
ある程度、お店の工事を出来るところまでやって、あとは6月末から4ヶ月山に行って稼いでいました。
山での業務は、基本的に小屋番と言う受付と、料理が出来るのもあって食事提供もしていました。あとは、道直しという作業があって、登山客の方が登ると道がどんどん崩れてきて、危なくなってくるので、その道を石で固定したり、歩きづらくなってしまうのを砂利で埋めたりしていました。
雪が積もっている時は、ベンガラというチョークがあるんですけど、真っ赤な粉を撒きに行ってマーキングをしたりもします。
そのような生活を送っていました。

予期せぬ事態

山小屋に帰ってからもすぐにお店のオープンはできませんでした。
そこからさらに4ヶ月ぐらいかかってしまって、、。
そもそもここの物件の状態が借りる前はひどい状態だったんです。
大体2ヶ月間山に行く前に基礎を作って、その後、山から下ってきて4ヶ月で上やって、キッチン作ってと言う感じで。思ったより時間がかかってしまいました。

ほぼ、全て自分の手でお店を作ったのですが、みんなやろうとしないだけで出来るんです。(笑)
最初は手探りでやっていて、昔の建築誌を見て「こういう感じにしたいな。」というイメージを持ってやりましたけど、出来ましたね。(笑)
会社辞めてからは、工期が半年、山に行っている期間を含めてほぼ1年かかりました。
オープンは4月3日です。

本当は3月27日ぐらいだったのですが、あばらを折ってしまって、、。(笑)
最後の最後で怪我をしてしまって、2週間ほど延ばしてもらいました。(笑)
めっちゃ高いところならわかるんですけど、70cmぐらいの椅子から結構な勢いで落ちて、、。(笑)
死ぬかと思ったぐらい痛かったですね、、。(笑)
でも、オープニングパーティーは、予定通り開催しました。
店内をステージにして、ライブをやったりして、いろんな人が来てくれて。
結局、当日は興奮しているので痛み感じないんですよ。(笑)
それで乗り切ったのですが、オープニングパーティー終わってから病院に行ったら「やっぱ折れています」と言われて。(笑)
オープン前にものすごいださい怪我をしたという。(笑)
忘れられないです。(笑)

食堂、店名へのこだわり

小っちゃい頃から町の大衆食堂みたいなところに連れて行ってもらっていました。
その後、年を重ねていって、上京して学生をやって、そこで通っていたお店の偉大さに気づきました。
上京して茨城を離れた後に、飲食店をやりたい気持ちがあったので、いろんなお店に行きました。
その中で、昔通っていた記憶に残るようなお店を超える店が何1つ無かったんですよ。
本当に1個もないぐらい無くて。


単純に自分の舌が合っているというのもあるんですけど、何年か毎にブームがあって、料理の技術や食材とかの様々な変化があっても、人の味覚に訴えてくるその美味しさは普遍的で変わらないと思っています。
自分にとってそれが食堂で再現できればという想いがあって、自分の原体験が続けられる場所ができたらと思いました。

「三代(さんだい)食堂さんですか?」とよく聞かれるんですけど、三代(みよ)です。(笑)茨城のひたちの方だと名字でよくあって、母親の旧姓も三代(みよ)でした。
そこからきています。もう1つの理由は祖父の魚屋にあります。

私の祖父は、茨城で魚屋をやっていて、昔は築地で働いていた経験があります。
今も、お店はあるのですが、受け継いで、店主をやっていた、母親のお兄さんが10年ぐらい前に亡くなってしまって、今は、お兄さんの奥さんがお店をやっています。お兄さんには、魚のさばき方を教えてもらったり、すごい優しくしてもらった記憶が今でもあります。
店名は悩んでいて、自分の名前を冠するのには抵抗がありました。しかし、魚屋もそろそろ閉めるという話もあって、同時に自分が「継ぎたい。」という想いもありました。
字は三代(さんだい)で、魚屋ではないけれども、祖父、母、自分で三代目という意味もありますし、三代(みよ)という姓を継ぎたいという想いはすごいあって店名に込めました。

1人で来られる空間作り

自分が落ち着ける場所がすごい欲しいなという気持ちがありました。
茨城や東京にいたときになんとなく落ち着ける場所の条件が、“ちょっと暗めで”“外からあまり見えないけど、外の景色は見える”
そういうお店だと「入りやすいな。」という気持ちになって。

1番優先しているのが、お1人様、もしくは、お2人様の席が一番良い位置にあるという事です。


1人でふらっとごはんとか食べて、リラックスできる環境が良いなと思っていて、なにもしらない店に対面式のカウンターだとちょっと緊張したりするじゃないですか。
お店の人は、喋り慣れているから良いのかもしれないけど。
それを解消するためのスペースを作ってます。
1人用のカウンターは対面式ではなく、外が見える特等席。
「自分だったらどういう店に居続けたいか。」を基本のベースにはしています。

自分がやっている音楽の要素もお店に反映させています。
ミクスチャーというか、音楽だとビートルズの後に出てきたプログレシブロックという60年後期から出てきた音楽が好きで、音楽だけでなく芸術とかとかをまぜこぜにしているものです。もともと分析が好きで、音楽もいろいろ混ざっていると楽しいんですね。建築とかも昔の雑誌と今の雑誌を見比べたり。一見合わなそうなものも混ぜて、お店作りはしていました。

私のプライベート

ずっと音楽をやっているので、その繋がりが今、面白いと思っています。バンドもそうですけど、ソロでもやっていて、三軒隣の「Give me little more」が面白い外国のアーティストを呼んだり、たくさんライブもやるので、すごいインスピレーションが湧く場所になっています。
ソロの時は、結構めちゃくちゃなライブをします。(笑)エフェクターを使って、カリンバと言う民族楽器があるんですけど、どんどんループしていって、、、。
いろいろあるんですよ!(笑)ちょっと説明しづらいので会場に見に来てもらえば!(笑)

最後に一言

これから毎年店を2か月ぐらい閉めて、山小屋に行くと言うサイクルをやっていきますが、うちの店を忘れないでください!!(笑)

ここまで来れた一つの想い|CAFE THE GROVE 由比ヶ浜 秀嗣

いつも見ていた親の姿

出身は長野市です。小学校の時に松本市に引っ越しました。その後、大学進学を機に神奈川へ行き、大学卒業後は二年ぐらいイギリスへ行っていました。
イギリスから長野へ戻ってきたタイミングが、ちょうど冬季オリンピックの時だったので、オリンピックのお伝いをしたりしていました。それから飲食の世界に入った流れです。
もともと親が今、お店をやっている場所でラーメン屋をやっていたので、飲食には小さい頃から馴染みがありました。その為、親の姿を見ていたからなのか、飲食に対しては構えるものは無かった記憶があります。

自分が好きなこととは

大学卒業後は、親のラーメン屋を継ぐつもりは全く無くて、サラリーマンするつもりでした。
就職活動はちゃんとしてはいましたが、「自分は何をしたいのだろう。」を整理していった時にサラリーマンになることに違和感を覚えたことも確かです。
そこで大きな影響を受けたのはイギリスへ行った経験でした。

イギリスへ行く目的は、英語を覚えることでした。
ですが、生活している中で、イギリスは見たことのない様々なお店があって、「こういう店カッコ良いな。将来的にこんなお店を持てたら良いな。」と漠然と思うようになっていました。
こういった気持ちを感じていた中で、「何したいのかな。」といろいろ考えた時に、「人との繋がりが自分は好きだな。」と感じていました。人と話したりといったことです。
実際に、いろんなものを見て、経験することで気持ちの変化が起きてきました。
最終的には、自分でお店を開いても面白いのかなという気持ちはどこかにあったと思います。親を見ていてというのもありますけど。
その中で、「最終的な目標が見えているのならば、最初からやっても良いのではないか。」という想いが出てきました。
これが飲食に飛び込むきっかけです。

一番幸せな手段

この人の繋がりを感じたのは、大学時代のアルバイトです。
レストランや、ホテルの配膳の仕事の飲食関係やお土産屋さん、ガソリンスタンドも経験していました。
“人の繋がり”だけを考えた時に、極端な話、飲食でなくても良かったかもしれません。
ガソリンスタンドでも人と関わることが出来て、どうコミュニケーションとるかを考えながらやることに楽しみを感じていました。
そう考えると、売っているものが違うだけで、接客という意味では同じです。

それでもなぜ飲食なのか。自分自身が食べるのが好きだったし、とにかくコーヒーが好きだった。人と繋がる仕事を考える中で、「どうせなら好きなことをツールに仕事にしたい。」と思うようになりました。
より自分が楽しめる。

飲食人生の第一歩

実は、親のラーメン屋を一度継いでいます。飲食をやるにしても経験がないといけない。そこで親のラーメン屋を継ぎました。

さらに、もう一店舗出す時に自分のやりたいコーヒー屋をやろうと決めていましたが、結局コーヒー屋をやるにしても、自分はずっとラーメンを作り続けなければならないし、「これはダメだ!」と。(笑)
コーヒーのアイデアはどんどん出てきたけど、ラーメンのアイデアは出てこなくなってしまった時期でした。
とはいっても、お客様からお金は頂いているので、このような気持ちでお店を続けるのは、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
自分で作ったものを潰すのは良いですが、親が作ったものを潰すことはしたく無い。
であれば、惜しまれつつ閉店という形を取りました。

しかし、その当時は大人という大人に猛反対されました。

開店までの大きな壁

「せっかくお客さんが入っているのにどうしてコーヒー屋にするの?」
「コーヒー屋なんて儲かるはずがない。」
会計士、銀行、両親、周りの人から猛反対です。
銀行の人にはコーヒー屋をやらない方が良い理由のレポートも出されたりして。(笑)
それは結構きつかったです。(笑)
でも、そのままでは悔しいので、次の日にはどうしてやりたいのかというレポートを銀行に返しました。(笑)
その当時は仕事しながら、銀行を説得して、会計士さんを説得してと、走り回っていました。

でも、ある時から「こういう事出来ますか?」「できますよ。こういう事も出来ますよ」のように、自分がボールを投げたら2つ3つになって返ってくるようになってきました。そうなると自分の中で導かれているのではないかと感じる部分もあって、根拠のない自信、勘違いとも言うんですが、、。(笑)
上手くいく気が何となくしていました。
でも、今、同じことをやろうと思ったら本当に嫌です。(笑)

辛くてもやり続けられた理由

やっぱり、「ただただ、コーヒーが好きだった。」
これにつきます。
コーヒーは子どもの頃から好きでした。コーヒー牛乳から始まって、次は、ミルク、砂糖を入れてと、ずっとコーヒーは好きで飲んでいました。
これは、親の影響もあります。親がコーヒー好きで家に常にコーヒーがある状態だった為です。
コーヒーが好きで調べていくと、いろいろ見えてくるものがあって、「コーヒーって奥深い」「面白い」と感じるようになりました。

コーヒーから生まれた違和感

ある時からただ、コーヒーを飲むだけではなくなりました。

単純に飲み物として面白いし、視点を変えてみると、生産国からは稼ぐ重要なモノになる。
当時、フェアトレードという言葉を良く聞く時代でした。
なんとなく自分の中で、それはチャリティーと同じ感覚があって、言葉自体に違和感を覚えていました。オープンしてからも考えていたことの1つです。

ある時に出会ったのが、コーヒーハンターと呼ばれる川島良彰さんの記事でした。
その記事を読んだ時に、「これだ。」と思うものがありました。
その記事には、「フェアトレードは一過性の側面が強く、お金持ちの国が貧しい国を支える構図が見える。そうなると、常に生産国は貧しくないとならないよね?」という問いでした。これを読んだ時に、モヤモヤが取れて、この記事が自分の想いがうまく言語化されていると気付きました。
美味しいモノを作っている生産国にはちゃんと対価を払わなければならない。
そして、最終的にコーヒーをカップにした時に、お客様が「美味しい」と飲んでもらう。中間業者、焙煎業者、消費者も泣くことが無く、コーヒーを通してみんながハッピーになる。こういった持続可能な世界が作れれば、みんながハッピーになれるよねと。
フェアトレードはもちろん良いと思っています。ですが、1つのきっかけにしかならないと感じていて、より一歩進んだ時にそれが持続可能になればよりハッピーになれると思います。生産国を貧しく位置づける必要は全くないと思いますし。

お店に散りばめられたこだわり

このお店は、以前のログハウスのラーメン屋がベースになっています。
店づくりのコンセプトは、男の人も気軽に来れるお店です。


カフェは女性が行く場所というイメージが少なからずあると思っていて、そうではなくて男の人も気軽に行ける場所が作れればと思っています。
“木”“レザー”“鉄”をキーワードにして、男ぽっさをアピールしたいと思っています。

例えば、お店の入口も鉄骨を使っていて、この色にはすごいこだわりました。
イメージの色味を出すために一回酸のプールにつけなければならなくて、関西に鉄骨を持っていって作ってもらいました。(笑)
そういったこだわりが店内に散りばめられています。
床もあえて隙間を空けているように、洗練されているよりも、武骨な感じを作りながら、隙がある不完全さを出しています。

隣には、ビーンズショップがあって、土蔵を使っています。
もともと祖父が管理していた建物で、よく言っているのは家の形をしたゴミ箱状態でした。当時、祖父がなんでも入れてしまっていたので。(笑)
それを1人で分別して、ごみを捨てに行ってというのを続けて、お店に使えるようになりました。
松本は蔵の街で色んな場所に残っていますが、うちの蔵は雰囲気が全く違います。
外見は当時のままですが、中を完全に洋風に振って、内と外にどれだけのギャップを作れるかを意識して作っています。蔵なのにシャンデリアがあります。(笑)

お客様の物語を感じる

オープンして12年目になります。
12年間お店をやっていると、結婚してなかった人が結婚しました。子どもが生まれました。といったようにお客さんの物語がどんどん進んでいて、一緒に共有できるというのは面白いと感じています。お店も成長していきますが、お客さんと一緒に歩んでいるんだなと実感しています。なので、お店としてもどれだけお客さんの傍らにいれるのかというのは同時に考えます。
入籍した日にお店でご飯を食べてくれた人が、毎年結婚記念日に来てくれたりして、そういうことがあるとやっぱり嬉しいです。
新しい出会いがあれば、転勤でいなくなってしまうお客さんもいますが、お客さんの物語を、お店をやりながら感じています。
今日も子連れの家族が来店してくださいましたが、「次は子どもが1人で来れるまで続けられたら良いな。」とか思いますね。

私の逸品

今までいろんなコーヒーの種類を扱ってきてそれぞれに思い入れはありますが、その中でも特にタンザニアに思い入れがあります。

それは、自分が一番好きなコーヒーだからです。人間って正直で自分が好きなコーヒーを淹れていると、普段より勝手に力が入ると言うか、「この豆のもっと良いところ引き出してやろう。」と無意識に思ってしまいます。
もちろん全部の豆をそう思っているのですが。(笑)
コーヒーの仲間を作っていて、他の焙煎業者の方にもタンザニアは好評なので、是非飲んでもらえたらと思います。

私のプライベート

バイクに18歳の時から乗っています。ずっと直しながら、同じバイクを20年間乗り続けています。湘南爆走族読んでいました。(笑)
今の時期だとビーナスラインが気持ち良いですね。
普段、お客さんとお話しさせていただいているので、休みの日は一人の時間を大切にしています。多くこういった時間をとれるわけではないですが、意識してとるようにしています。
バイクは一人で行って、走ってとすごく良い時間になっています。

最後に一言

「コーヒーを通して、生産者からお客様まで皆がハッピーに!」

この願いを込めて、カフェ、ビーンズショップともに営業しています!
是非、足を運んでください!

ミートパイから学んだおもてなし |High-Five COFFEE STAND 髙木 徹仁 #1

喫茶店のマスターになります!

出身は長野県塩尻市です。
大学進学を機に神奈川へ出て、2016年に長野県に戻ってきました。
高校卒業から飲食に携わっていて、関東近辺のチェーン店や、喫茶店などで働いていました。一回ラーメン屋を挟みましたが、、、。(笑)

17,18歳の時は、漠然と「喫茶店のマスターになるな」と思っていました。(笑)
きっかけは、今はもう無いのですが、高校生の時に良く足を運んでいた喫茶店です。
それまでファストフード店とかしか行ったことがなかったのですが、その喫茶店に行った時に初めて自分を一人のお客さんとして接してくれたことが嬉しくて通っていました。

それがある日お店に行ったら、道路拡張の為に閉店になったと張り紙があって、急にお店が閉まってしまいました。
通っていたお店が潰れてしまったことにすごく悲しんだ覚えがあります。
しばらくこの出来事から気持ちがふわふわしていたのですが、ちょうどその頃に進路相談の面談がありました。
担任から「お前どうするんだ。」と聞かれた時に、「喫茶店のマスターになります!」と気付いたら言っていました。(笑)

今のお店は、当時のスタイルとかは別に継いでないですけど、なんとなく良かったと思っていた店があったという事実を継いでいきたいと思って、漠然と「お店を開きたい。」と思っていました。

その喫茶店は、コーヒーも特別なこだわりは無かったかもしれないけど、学校さぼっている人とか、仕事の合間の人とかが入れ替わりお客さんとして来ていて、いつも誰かがいるお店でした。
サービスを受けたと自覚をしたのが、ナポリタンを注文して、食べ終わった後に、「ナポリタン少し少なかった気がするから、ミートパイ焼いたから食べて」と言われて、そんなサービスあるのかと。(笑)
機転というか、高校生の自分には少なかったのではないかと言う憶測で足してくれたのではないかと。
今までそんなことをされたことがなかったので。(笑)
ファストフード店ではある程度マニュアル通りのサービスしか提供されない中で、自分個人として気をつかってもらってミートパイを出してくれたことが嬉しくて、すごいおなか一杯だったのですが食べました。(笑)

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ナチョ・リブレの一コマ|High-Five COFFEE STAND 髙木 徹仁 #2

 

ナチョ・リブレの一コマ

もともとお店を夫婦でやろうとは決めていなかったです。
一人で出来るかなと思っていたら、一人で出来なかった。
デザインとか含めてですけど。(笑)

やっぱり二人でやっていると出来ることの幅が変わってきます。
実際に、お店の多くのデザインは妻が手掛けています。
僕の飲食目線から見たデザインと、単純にデザインの観点から見た妻のデザインとを組み合わせてやっています。
結局誰かに頼むとなると、その人に箔はつくけど、どうしてもその人のテイストが入ってしまう気がする。それよりも出来なくても絞り出してオリジナルとして形にすれば、誰ともかぶらないからという意味で基本的には自分たちでやっています。

様々な飲食店を経験したので、未知だったのは自家焙煎ぐらいです。(笑)
焙煎は趣味程度に、自宅でコンロを使ってやったりといった経験しかなかったのですが、どうせこうやって表現していくなら、豆を自分で作るべきだなと思って。
そこからすぐに焙煎機を買って、練習をして、コーヒーマイスターを持っている上司に意見を聞きながらオープン前まで試行錯誤をしていました。
オープン当初は、納得できるものに辿り着くまでに時間がかかりましたが、今は安定してイメージしたものが作れています。

お店をやっていく中で、「こだわる必要がないところにこだわる。」という想いがあります。
例えば、店名。すごく悩むところだと思うのですが、前提として意味の無い名前にしたくて。「高木コーヒー」でもよかったのですが。(笑)

意味なく覚えやすいアイコンとなる名前はないかなと探していました。
その中で「ナチョ・リブレ」というコメディーのプロレス映画を見ていて、タッグマッチの相方とジャックブラックが仲直りするときに、「Hifh five!」と言っていて、「なにこれ!」と。(笑)
で、調べたら「ハイタッチ」という意味で「これで良いじゃん!」って感じです。(笑)

面白いを追求する

地元の人がこのお店だけではなく、色々なお店を通って面白いと思ってもらうことで良い街になっていけば良いのではと思っています。
松本の面白いところは、駅を少し歩いていくと面白いお店が多くあるという事だと思っているので。

後々にいろんな考想を形にしていければと思うんですけど、もし、面白くないとお客様が思ってしまったら、きっと大きな資本が来て飲まれてしまうのではないかという思いもあります。
その中で、今のところ個人店ですけど、個人店としての立ち回りが出来て、周りのお店と連携を取りながら盛り上がっていければ良いと思っています。

そういったところでお店同士の横の繋がりも増えています。今取り組んでいるプロジェクトは、もともと「Film ABOUT COFFEE」というコーヒーのドキュメンタリー映画があり、それを共同で上映しないかということで関わりあったのがきっかけです。

それから今では、地方でもありますが、コーヒーフェスといって全国のロースターさんとかが集まるイベントがあり、そういったこともゆくゆくは松本で出来ないかなという想いがあります。こだわって焙煎をやられている方にお声掛けをしたり、されたりしてコミュニティーを作って、いろいろ出来たら楽しいと感じています。
お店の人目線でどうやってコーヒーをアプローチしていくかというところを考える仲間がちょっとずつ増えているかなというところですね。

夢はブルータス!!

これからのお店に関しては、松本に留まってこのお店だけを守り抜きたいという想いは少し違っていて、これからコーヒー屋をやっていく中で、例えば「この街にもあれば良いな」とか、「この街でコーヒー屋やるのかな」ということがイメージできれば、松本以外の場所にもお店を出していきたい将来的な想いもあります。
夢は中央線を繋げることですかね!(笑)

あと、コーヒー屋でブルータスに載りたいんです!(笑)
理由は、単純に好きな雑誌だから!(笑)
自分が読んでいる雑誌に載りたい!(笑)
ブルータス、ポパイ、、、、、。あと、全然違うけどジャンプに載りたい!(笑)
どんな関わりで載れるんだろう。
オリンピックとかでないと無理かな~、、。

最後に一言

「絶対に来てくれよな!!」
(悟空風)

「たまり」の記憶|かめのや 斎藤 博久 #1

「たまり」の記憶

飲食に最初に携わった経験は、大学のアルバイトです。京都にある古着屋系列のカフェでやっていました。ちょっと変なお店。(笑)一階は古着屋、二階はカフェといった業態でした。
もともと喫茶店をやりたくて、飲食に興味があったので、夜の居酒屋ではなく、コーヒーを出すカフェとか喫茶店でやろうと思っていました。

少し遡ると、もともと地元に「たまり」という古い喫茶店があって、そこが大好きでした。おっさんのたまり場でたばこの煙で濃霧になっているお店です。(笑)
おじさん、おばちゃんばっかりの横の繋がりでしかない喫茶店。(笑)
お店は5、6席しかないけどずっと人がいて、天気の話だの野球の話を一生しているみたいな空間。(笑)
横が駄菓子屋さんだったので小学生のころから存在は知っていて、中学生の頃から通っていました。そこから徐々に休みの日に顔を出すようになりました。
父親がたばこ吸わない、酒も飲まない人だったのですが、「たまり」には、違ったベクトルの大人がいて、いろんな話を聞ける。そこの場所は大人が可愛がってくれることが嬉しくかったのを覚えています。今でいうとサロン的な横の繋がり的な交流の場としての喫茶店がまだ残っていたところがあって、それが「すごい良いな。」と思っていました。コミュニティーとしての場所が自然と出来上がっている。
コーヒーがうまいことに越したことないけど、「コーヒーまずくてもこいつら来るんだろうな。」みたいな!(笑)味は二の次の付属品で、マスターやママさんが商品となっている。生活の一部のような場所を作りたいなと思いました。
そのころから漠然と喫茶店のマスターになろうと思っていました。

「人が良いところを選べ。」

就活の時は、二択で迷っていました。いわゆるサラリーマンと、修行だと思って給料が安くても飲食店で働くかでした。
ちょうど就活をしている頃に、二つ上の姉がいろいろやりたいことがあって、会社を辞めたとの連絡がありました。
ギターやりたい、フランス語やりたいとか本当にいろいろやりたいことがあって、当時並行してやっていたけど、「時間足りない!」と言い始めて、親がすごい心配をしていました。
そのことがあって当時は、飲食の方に気持ちが傾いていたのですが、全く親孝行をしてこなかったので、「兄弟二人して心配かけるのも。」と思ってとりあえずサラリーマンになろうと思いました。
それから業種問わずいろいろ探して、立ち飲みやスナックのおじさんから情報収集をしていました。多くの人が言っていたのは、「仕事はどの仕事でもしんどいから。しんどい時に自分が潰れないようにするのは、周りの人。だから、会社を見に行って人が良いとこを選べ。」ということでした。
それから200何社説明会に行ったけど、5社に絞って、その中の1社建築系の会社に行きました。

営業に没頭した4年半

入社してから、期間は4年半ほど営業をしていました。めっちゃ楽しかった。(笑)
当時は、ルート営業でしたが、自分で先方の懐に飛び込んでいって、信頼関係がどんどん厚くなっていく手ごたえがモチベーションになっていました。
人に好かれていく過程が楽しかったです。(笑)営業最高です。(笑)
前の会社は、岐阜、長野が営業担当だったのですが、月曜日に車で現地に入って、金曜日の夕方に帰ってくる一週間かけてゆっくり回るスケジュールでした。車だったので3か月で3万8千kmとか。(笑)長野、岐阜は会社としてはそんなに遠くない部類にはいっていたので車での移動でした。(笑)でも、慣れるもので、帰りノンストップ4時間半で帰れます。(笑)
自分で全部スケジュールを立てることができて、売上の各月の配分も自由でした。かなり個人に裁量があって半分自営業みたいな感じだったので、そこもすごい楽しいポイントでした。
毎日飲んで帰るみたいなそんな日々でした。(笑)

その中で、県民性をいろいろ感じることがあって、三重は人見知り。岐阜は都会に近いほど、人見知り感が少ない。長野は広いので地域によって人柄が異なる印象を受けました。良い悪いではなく、松本はすごい観光客がいるし、移住者も多いので、新しいものを受け入れる土壌があって、排他的ではないし、おおらかに感じていました。テンション満点で受け入れてくれるわけではないけど、気にしてくれてみんなワクワクしているみたいなそういう流れがあると思いました。
長野市は、駅前はチェーン店が多くて、面白いお店見つけようとすると駅から離れていたりする。街が間延びしていて遊ぼうと思っても、車が必要かなといった感じなのですが、松本は街がまとまっているので、長野市に仕事がある時も松本に泊まって、朝頑張って長野市まで走るみたいなことをしていました。(笑)
松本がすごい好きでした。

たまたま嫁さんが松本に住んでいて、生活を考えてみても「松本だったら良いかな。」と思えました。営業時代にある程度知っていた街でもあったので、むしろ住んでみたいな気持ちがありました。
生活を考えた時に、住みやすいし、人も良いし、無職になってしまうけど、引っ越しを真剣に考えました。

当時は、会社では昇進も決まって後輩も入ってきてというタイミングで、「頑張ってくれ!」と社長や本部長に期待をされていたのですが、その一か月後に「彼女と結婚したいのでやめます。」と伝えました。(笑)
すごい会社からはかわいがってもらっていたので引き留められたのですが、一人一人話をして納得してもらってといったことをしていました。
そこでいろんな人が言ってくれたのが「仕事上、引き留めなければならない。けど、個人的にはお前の人生だから好きにしろ。仕事上今からこう言うけど、おれはこう思っている。でもどっちもおれの本音ではあるから考えてくれ」と。
なんて良い人たちなんだと思いました。(笑)
この会社は人で選んだけど、ちゃんと選んで良かったなとこの時に再度思いましたね。

歴史を繋ぐ場所|かめのや 斎藤 博久 #2

 
 
 

歴史を繋ぐ場所

松本に行ったら、「仕事はなんでも良いな。」という想いと、そういえば「喫茶店やりたかった。」なという二つの気持ちがありました。前職は仕事が楽しすぎて「喫茶店をやりたい。」気持ちを忘れていたので、「喫茶店やってみようかな。」という想いがどちらかと言うと強かったです。当時、26歳だったので、30歳までやって食えなかったら諦めようと。
30歳だったらどこかの会社がもらってくれるだろうとそういう気持ちで始めました。

二か月くらいニートして、その後、派遣に登録したのですが、工場で働いていたら、めちゃめちゃ開業準備の時間が無くて、、。
そこから、また無職になって物件を探しだしたぐらいに、嫁さんが「ここなんか前喫茶店で、今は休業しているけど、どうかな?」という話がありました。
その日にそのお店を見に行ったのですが、もちろん店内を見ても、暗いから何も見えませんでした。この物件の持ち主である翁堂さんの本店へ突撃で行って、「そこ貸していただきたいのですが、今どういう状況になっているのですか。」と飛び込み営業をしました。(笑)
5分後には社長に会えて、そのままお店の中を見せてもらい、たばこを吸いながら、昔話を聞かせてもらいました。
前職の営業力が生きました。(笑)

この物件は候補物件の1つという認識だったのですが、内覧させてもらった時に庭を見て、「こんな物件は他には無いと。絶対にない。」と。(笑)
基本的には1人でやるイメージだったのでコーヒースタンドとか、ちっちゃい喫茶店のような形でやろうと考えていたのですが、やっぱりこの内装と庭を見てしまったので、家賃とかも聞かずに「ここだな。」と思いました。ここでやってみてダメだったらしょうがないぐらいの衝撃でした。ただ、僕の他にも5,6件ぐらい借りたいと言う話が来ていて、翁堂さんも僕に貸す気は、最初無かったようです。初めて社長さんにお会いした時の昔話を聞いていると、「60年前に社長のお母さんが開いたお店で、自分のお母さんが始めたお店なので思い入れが強い。」という話でした。
なので、違う人に貸してしまうと雰囲気が変わってしまう。これがすごい嫌だと。
このお店でフランス料理をやりたい人がいたみたいなのですが、カウンターが狭いので、カウンターをつぶさないと出来ないという話で、それは絶対に嫌と話されていました。
僕は「この雰囲気すごい好きです。どこも変える必要ないですよ。」と本心で話しながら、そこから「やってみるか。」と話を頂いた流れになります。

ここのお店と、思い出のお店「たまり」が重なっているのは、こんなに立派な作りではないんですけど、やっぱりカッコ良い大人がたばこを吸っているイメージが重なりました。
シャンデリアがあるのですが、これもともとは透明なクリスタルで、これが何十年分かのヤニで琥珀色になっているんです。そういう歴史が詰まっているんです。自分でお店やるにあたってメリットは自分の想いを前面に出せるということがあるんですけど、こういう歴史は、もちろん0なわけで、そういう人の想いみたいなモノがここに詰まっているんだなと。
椅子一つとっても、ここでじいちゃん、ばあちゃんたちがたばこを吸っている場面が想像できるというのがあって「良いな!」と思いました。

喫茶店にこだわる

自分が行きたいお店を作りました。僕は喫茶店をやりたかったけど、こういう内装に出会ったのはたまたまで奇跡みたいな話です。もしスケルトンでなにもない空間であれば、最大限努力して、自分の行きたい店を実現すると思いますけど、こういう物件ありきの商売の場合は、物件の状態がどうかで左右されてしまう。
でも、ここは自分の趣味どストライク真ん中だったので、全然変えなくて良かった。むしろ変えない方が良い。たまたまこういう店をやらせてもらっているのですが、僕は大満足です。(笑)
最近の建築の話で言うと、昔のお店は、高度経済成長期の後押しがあって、個人のこだわりが強い特徴的なお店が沢山あった。そういう店ってすごいカッコ良いなと思うけど、そういう店はこれから飲食が盛り上がってくるぞという経済の後押しがあったから。
ここでお客さん呼んでやるぞというすごいエネルギーがあった時代。
資本をかけて、こだわりを出しても大丈夫だった時代。
今は、特注でいろいろ作ってくれる職人さんとかもほとんどいなくて、店に置いてある椅子も「今は誰が作れるの?」という話で。
そう考えると今作れないものが沢山あるし、今できないものは全部残したいと言う想いがあります。
最近できるお店で言うと、そんなに外見の違いは感じなく、ぱっと見で、スペインバルだったらスペインバルってすぐにわかる。
けど、こういう入りにくいお店で開けたらまさか庭があるとは思わない。(笑)


そういう驚きは割と今は少ないと思います。ガラス張りで中がわかるお店が多くて、開ける楽しみがあるお店が少ない。ドアを開ける楽しみがすごい好きで、中が分からなければわからないほど開けたくなる。(笑)そういうタイプの人間です。
新しいお店は発見が少ない。そんな感じがします。
中も全部見えるし、メニューもわかるし、こだわりも全部書いてあるし、これ以上喋ることないみたいな。(笑)
どっからコミュニケーションとるのかな?と、あと天気の話しかすることない!(笑)

かめのやのこれから

個人としては最近子どもが生まれたので、あんまりお気楽にもしてられないと。稼がなきゃならないので。なんでもバランスだと思うのですが、頑張りすぎてもいけないし。
今のお店は8割方常連さんで成り立っていて、ただ、お店のキャパを考えると、せっかく豆も焙煎しているので販路を拡大していかなければならないと思っています。
その一つに物販に力を入れていきたいと思います。
ドリップパックという商材があるのですが、いろんなコーヒー屋さんをみてみると1,2種類しか置いてない状態です。今うちのは豆の種類が14種類ある中で、豆売りもしているのですが、ドリップパックであれば、いろんな種類を一個ずつという楽しみがあるので、であれば14種類売ってしまおうと思っています。
結局、飲んでおいしいなと思っても、家でコーヒーを入れるのは大変という中で、器具を持っていなくても楽しめるような形にしていきます。
そういう意味では、喫茶店と、豆を焙煎しているコーヒー専門店の境目を狙っていて、コーヒー好きな人も、コーヒー好きじゃない人も気軽にコーヒーを買っていける。
そんな状況にしたいと思っています。
是非、気軽にお店に足を運んでください。