地元のマスターへの憧れ
私は、富山県出身です。富山県にいたのは中学生までで、高校は全寮制の高校へ1人東京に出て行きました。
当時、親がチャンスをくれて、地元の高校へ行く道と、東京の高校へ行く道を選ばせてくれました。その時に「どっちかわからないけど、東京行った方が良いか。」と思って、飛び込んでみました。
大学へ進学するつもりはあんまりなくて、当時ひねくれていたので、めんどくさいなと思っていました。なんせ全寮制の高校なので楽しみが少なくて、男同士で悪さするだけだったのですが、本を読むのが好きで、ずっと本を読んでいました。
その中で、心理学の本に出会って、読んだ時に、「これ面白いな。」と思い、その出会いから心理学関係の本をとにかく読みあさりました。
「どうせ大学へ行くのなら勉強したいことするか。」と思い、心理学関係の学部、学科を受験し、結果受かったのが大阪でした。
大学4年間は飲みまくって、遊びまくって、勉強しまくってといった感じでした。
ただの学生です。(笑)
当時、アルバイトは飲食関係をしていて、レストランやすし屋、バーのお手伝いをしていました。
その時は飲食をやりたいという気持ちはなく、アルバイトとして漠然と働いていました。
ただ、「面白いな。」という気持ちは当時からありました。
卒業後は大学院を視野に入れていて、心理学の道で将来進むべきかどうかを悩んでいました。
4年生の1、2月の進路が決まるギリギリの時期に、「大学院はやめよう。」と思いました。
理由は心理学を勉強したかっただけで、職業にしたかったわけではないと途中で気づいたからです。その時に、「自分はどう食べていこう」と先の人生について悩みました。
その中で、自分の人生を振り返った時に、どういう瞬間が楽しかったのかを考えると、小さい頃に行っていた「MOKU MOKU」という地元の喫茶店を思い出しました。
小学生から、大学生までずっと通っていた喫茶店です。
そこのマスターがかっこよくて、喫茶店にいくのが楽しくてしょうがなかったんです。
そこのマスターは船乗りさんとして世界を旅したこともあったり、綺麗な奥さんがいたり、スキーもインストラクター級の腕前で、なんでもできるカッコ良いマスターでした。
全部がカッコ良い。
事業計画書で親を説得
飲食のアルバイトをしていた時に感じていた「楽しいな。」と言う気持ちもあって、「これを職に出来ないか。」と感じるようになりました。
そう思った時にはもう心では「よし。これで行こう」と決めていました。
当時、親に大学へ行かせてもらっていて、大学に行った以上はこれを無にすることは出来ないので、親を説得しなければならないと。
それから、「こういうプランで、こういう業態、席数○席、単価○円、売上○円、私の給料はこれぐらいなります。」と事業計画書を書きました。
実家に帰って、お父さん話があると。これを読んでくれと出しまして。
「そこまで考えているなら、好きにせい。その代り後悔するんじゃないぞ。」
と認めてもらい、そこから飲食の道に入りました。
その後は、事業計画書に書いてあった初期投資の額を貯めければならないと思い、会社員になりました。
とにかくお金を貯めなければならなかったので、大事なポイントはお給料でした。
就職課に行って、残り少ない求人情報を見て、全部受けました。
その中で、一番給料が良かったのが、システムエンジニアでの就職でした。
当時、若干景気の良い時だったので、仕事もあって、お給料も良くてといった環境でした。
大阪で就職をしたのですが、大阪という街は非常に楽しい街でして、稼いだお金は全部飲んでしまい、遊びに使ってしましました。
事業計画書の中に、自分の性格は加味していなかったんですね。(笑)
このままやっていてもお金は貯まらないし、経験も積めないしといった想いで、結局、二年弱で退職をしました。
フランスと松本
その後、一度、実家の富山に戻って出版社で営業をしていました。
実家ならお金が貯まると。
飲食店へ営業をしている中で、仲良くなったフレンチのシェフの方と飲む機会がありました。
そこで「飲食をやりたいが、見習いしかやったことありません。」と伝えると、「お前フランス行って来い!」と言われました。
「おれが修行していたお店に紹介状書いてやるよ。」ということでフランスに行くことへ決めました。
そこからガソリンスタンドで働いたりと、お金を貯めていたのですが、フランスに行く前に、私の同級生とバリ島へ行く機会がありました。
ここに松本に来るきっかけがあります。
同級生とバリ島に着いた後、その同級生のお父さんと合流することになりました。
そのお父さんは松本で飲食や旅館を経営している方でした。
「これからフランスへ料理の勉強をします。」と今後の話をしていると、「フランスになんかに行ってまともな料理人になった人を見たことがない。」と言われまして。
そんなことは無いんですけど。
「君は、日本帰ったら松本に来なさい。新しい店を出すから。」と言われまして、冗談かなと最初は思っていましたが、日本に帰国してのほほんとしていたら、「お前はいつ来るんだ。」と言われ、本気だったんだなと。
とりあえず見学のつもりで行ったところ、そのまま働くことになってしまい、松本で暮らすことになりました。
大きい旅館のレストランです。そこでバーテンダー業務があり、店長業務がありという形です。
本当は今頃フランスに行っているつもりでした。(笑)
今のお店(カンティーナわん)は、当時働いていたお店の隣にありました。
仕事が終わったら毎日飲みに行っていたんです。また、大阪時代と変わらず飲んでいるんですよ。
当時は、雇われている身だったので、「本当はこうしたい。」といったやりたいことが沢山ありました。
どうしても誰かのお店だと上の人の許可をもらったりと、出来ないことが出てきます。
その中でフラストレーションが溜まっていって、「この理想を叶えることが出来ないかな。」と模索すると、むしゃくしゃして、酒を飲むといった感じで。
その時に、私の師匠であるわんさんに、「店をやってみたら?」と後押しをされ、お店を持つ流れとなりました。
最初は店長という形で入って、その後、お店を買い取りました。
当時は、お付き合いしている方と結婚しようと思っていて、「雇われ店長では、結婚できないな。」と思っていたんです。(笑)「男ならば一国一城の主として結婚したい。」という想いがあったので、お願いをして、売ってもらうことになりました。
人生いろいろあります。
その時に、お金も足りなかったのですが、当時、付き合いのあったお客さんがお金を貸してくれたりと、いろんな方に応援してもらい、支えられて初めてのお店を開くことが出来ました。
いろんな出会いがあって、いろんなことを吸収して、そのエッセンスがお店に反映されています。