全てにこだわる|焼肉ハウス「大将軍」#2 坂下 拓也

1つの転機

出身は、富山県富山市です。小学生まで富山市に住んでいました。父親が転勤族だったのもあり、中学生からは、長野県長野市で暮らしていました。高校を卒業するまでです。
ずっと小中高とバドミントンをやっていて、スポーツマンでした。勉強は好きではないが、できなくもない。そんな学生でした。
高校時代を振り返ってみると、「とりあえず大学を出れば、就職も困らないかな。」と思っていたので、勉強したいことも特にありませんでした。そんな気持ちもあって、大学は推薦で楽に入学できるところを選びました。福井県の大学です。しかし、大学に入学する前に1つの出来事がありました。それは、入学式の数ヶ月前に両親が離婚したことです。

「大学のお金はどうするのか。」「母親、父親どっちにつくのか。」様々な問題がありましたが、その時考えたことは、「俺は、俺の人生を歩む。誰にもお世話にならない。」といったことです。親達が離婚したせいで、俺が生活できないとなったら、ヒモか何かでしかない。そういうのは好きではないし、学費は俺が出す。家賃も俺が出す。そんな想いでいました。ですが、どうしたって、お金が減っていく中で、1番最初に何が困るかというと、腹が減ること。
本当に。どんだけ一生懸命にやろうとも、能力が高かろうとも。これはそういう環境に身を置いた人にしかわからないと思います。

店長の一言と一杯のレタスチャーハン

腹減ってどうするかというと、大学生な訳だし、賄いのあるところでバイトするしかない。浅はかだね。(笑)「今日から働かせてくれないですか。」といろいろなお店に掛け合いました。時給は少なくても良いから、とにかく賄いが食べられるお店で。そんな中、1番最初に働いたのが、あるチェーン店の中華料理屋でした。
その店長さんも、学生の頃苦労されたみたいで、今までの事を伝えると「気持ちはわかるよ。」と話していただき、出勤初日にレタスチャーハンを作ってくれました。面接に行ってから、次の日です。


そのレタスチャーハンを食べた時に、色々我慢していたことや、境遇、自分の情けなさに、涙が出ました。「なんだこれ。なんでこんなに美味しんですか?」と聞いたら、「これはただのレタスチャーハンだ。俺はお前のために作った訳だけど、食べ物で人を感動させられるんだよ。」と。これを聞いて、「俺はこの人みたいになりたい。」と思いました。
必死に生きていたから、この衝撃を受けたのだと思います。人はいきなりガクッと落ちると、必死に生きる。必死に生きてきたからこそ「こういうのがやりたいんだ。」といったことが見つかってくるんだと思います。俺もお金がなくて、腹が減った状態でなければ、食べた賄いはただのレタスチャーハンだったかもしれない。色々巡った中での、店長の一言と、レタスチャーハンの一杯だったんだよね。「ここだな。」と思いました。それから店長に「俺は食べ物屋を目指す。」と伝えました。「学校をやめます。」と伝えたのは、この出来事があった次の日でした。

頑固親父のラーメン屋

中華料理屋さんでは、とにかく偉くなろうと思いました。まずは、もちろんアルバイトからスタートしましたが、店長からは、「誰から見ても、仕事ができるようになったら、社員も良いんではないか。」とお話しをいただきました。その言葉をいただいてからは、本当にがむしゃらに朝から晩まで働いていました。
しかし、働いていくと、「やはりマニュアルに過ぎないな。」という想いが出てきました。これからも真剣に食の道に携わっていくのであれば、チェーン店ではなく、個人店に飛び込んでみる必要があると感じていました。働いて2年ほど経過した時です。当初の約束通り、「社員になるか。」という話があったのですが、社員になっても、何も変わらないし、自分に保証がつくだけ。「それは違うのではないか。」と思っていました。

そんな事を思っている中、アルバイトで貯めたお金で食べ歩きをする機会がありました。その中で良いお店との出会いがたくさんありました。ある福井県のラーメン屋さんに行きましたが、そのラーメン屋さんが感動的に美味しかった。「ラーメンでこの美味しさどうした。」と。びっくりしました。オープンキッチンなんですが、驚くほど綺麗で、全員坊主で、ハチマキを巻いて、一切笑顔が無い。この姿を見て、「この人たちカッコ良いな。」と強く感じました。これが頑固親父がやっているラーメン屋というやつかと。それから、ずっとチェックしていました。その時は、社員を募集していなかったのですが、数ヶ月後に募集がかかっていました。「これだ。」と思って、すぐに面接をさせていただきました。面接が終わると「明日から来なよ。」とお話をいただきました。その時、返事はしたものの、バイトはあるし、「どうしうよう。」と。
そこで、店長に「良いお店があったので、行きたいです。できれば明日なんですけど」と話をしました。そしたら、「お前のことだから、そう言うと思っていたよ。」と言ってくれて。
それから、一気にラーメン屋の方に頭が切り替わりました。

小さく芽生えた想い

そのラーメン屋は何もかも手作業でやるお店です。厳しいお店でした。寸胴の洗い方一つでも、とにかく怒られる。見える景色が全く異なりました。「今まで何やっていたんだろう。甘く無いな。」と感じました。ある日、親方に、「何がそんなに駆り立てるんですか。」と質問したら、「そりゃ、借金だろう。今日、お客さん来なかったら潰れるんだぞ。」と。もう必死さで負けている。ラーメン屋では、渾身の1杯を「これでどうだ。」とお客さんに出して、その対価として、お金を頂く。この精神を特に叩き込まれました。プロとは、仕事でお金をもらうことができる状態。自分が作ったこの1杯を出している時点でプロということ。アルバイト、社員といった立場は関係ない。このラーメン屋では約5年働いていました。

働いている中で、ラーメン屋の社長とよくお話する場を設けてもらいました。その時、感じたのは、「社長って超えられないな。」という気持ちです。偉くなりたかったのですが、そういう想いでやっていると、やっぱりどこかで行き当たる。「これ以上は、上にいけないな。」と。それが社長でした。
どんだけ仲良くなっても、どんだけ話し込んでも、結局、立場が違う。社長は「俺の喜びとか、悲しみははっきり言って段違い。」と話していました。これがまた羨ましくて。どこか、経営する立場になってみたいという想いが生まれていました。

自分の人生を振り返ってみて、チェーン店の中華料理屋さん、個人店のラーメン屋さんしか経験していないなと感じました。当時、25歳の時です。これで、自分のお店を出すのは、「まだまだだな。」という気持ちがありました。将来の自分に聞いても、「まだ無理。」と言われる。

衝撃の出会い

これだけ長い間仕事をしていると、”誰と働くか”が大切だと感じていました。今度は、人を見たいと思い、社員で入るのではなく、アルバイトを複数掛け持ちしました。朝、昼、夕方、夜中。多い時は4つ掛け持ちしていました。

面接を色々受けている中で、富山の焼肉屋さんに面接に行きました。このお店で後に、師匠になる人に出会います。最初の面接は店長さん。キッチン志望の旨を伝えましたが、「今は、ホールのアルバイトしか募集していない。」とのお話でした。「キッチンで色々学びたい。」と熱く語ったところ、店長さんだけでは、決定ができないので、社長と話してくれとの話をいただきました。
社長との面接の時です。登場した時に、その怖さに衝撃を受けました。ダースベーダーの曲が流れているかのようでした。(笑)空気が全然違う。「うちのキッチンでやりたいらしいな。アルバイトではなく、社員で来いよ。」と。ただ、仮にこのお店が自分にとって、良くなかったら、お互いにとって迷惑がかかる。その想いを伝えると、「なんだ、俺のお店を試すのか。」と。しかし、ここで押し負けたら、一生ペコペコだなと思っていたので、意を決して「一度、試させていただきたいと思います。」と伝えました。この言葉が気に入ったらしくて、「よく言ったな。俺を試すか。明日来いと。」と言っていただきました。また、明日です。(笑)

大将軍が出来るまで

働いてみると異常にキッチンの人数が少なかったんですね。なぜなら、働き始めても、厳しすぎてすぐ辞めてしまうんです。どんなに頑張っても1ヶ月。正直、「鬼っているんだ。」と思いました。当時、アルバイトで働き始めましたが、1ヶ月、2ヶ月と経った頃に、すぐに親方に「是非、社員として働かせてください。」と伝えました。その時同時に、「僕は30歳になったら辞めます。独立します。その間修行させてください。」と。


以前、働いていたラーメン屋の親方は、お客さんありきの思考でしたが、焼肉屋さんの親方は、料理ありきの思考。「この料理を食べさせて、美味いと思ってもらえなかったら、お前なんて生きている価値がない。」というぐらいの人でした。和食出身の親方でしたが、やっぱり厳しかった。毎日「どうやって仕返ししてやろう。」と思っていましたよ。(笑)
厳しい親方でしたが、厳しいのは俺の為。それがヒシヒシと伝わってきました。厳しくしてくれているのに、厳しくて辞めるなんて、大馬鹿者だと思っていました。厳しいながらも、愛を感じる。がむしゃらに働いていました。
30歳になったタイミングで、親方に独立の想いを話すと、「うちの看板持って行け。」とお話しをもらいました。実はこのお店、富山の大将軍というお店です。「後にも先にも、名前をあげるのはお前だけだよ。」と。それで看板を掲げさせていただくこととなりました。この焼肉屋では、約4年働いていました。
どこでお店を始めようかと考えていましたが、ふと中学、高校の時に長野市に住んでいたことを思い出し、長野市、松本市を中心に物件を探していました。
色々な親方から学んだことを集約すると、物件のポイントは、完全にオープンキッチンで、料理を魅せることが出来る事。それであって、圧倒的な美味さを出したい。その条件で探していると今の物件と出会うこととなりました。お寿司屋さんの居抜きです。

全てにこだわる

お店では、全部を大切にしています。1つに限定できません。お客さんは、綺麗なお店に行くわけでも無いし、美味いお店に行くわけでも無いし、接客が良いお店に行くわけでも無い。そのお店に行く。「このお店良いかな?」って思って来店する。大事なのは、来店したお客さんが帰る時に「良かった。」と感じるかどうか。そう考えると、大切にすべきことは、全部でしょ。手洗いにこだわっていると言って、従業員に清潔感がなければ、「どうした?」ってなるし。全部にこだわっています。

大事にしていることで言えば、日々感謝をしています。お客さんが来てくれるのは普通なことでは無いし、社員、アルバイト関係なく、従業員が働いてくれるのは、普通では無い。
俺は、今まで親方たちに教わってきたわけだけど、ただ、自分でお店を出すだけで、親方と呼ばれるように。それってそんなに簡単な事では無いと思います。「その責任は俺が絶対取るんだ。」という覚悟だけはあります。誰からも、「この人と働いて良かったな。」と思わせてあげたいと思っています。自分自身が親方達に対して、そう思っているので。いつか、従業員が自分のお店を持つようになったり、他の店舗を任せるようになった時に、初めて親方になる。その時に初めて身を以て感じると思うんだよね。そうなった時に恥ずかしく無いように育ててあげたい。そう思っています。全部が普通のことでは無いと思っているし、一生懸命頑張って当たり前でしょ。
人を育てるなんておこがましいと思っています。それよりも、「一緒にいこうよ。」という感じです。仲良くするの好きなんだよね。結局。お客さんと飲みに行くのも好きだし。中には、焼肉屋なのに、週に3回も来てくださるお客さんがいます。美味いのはもちろんだけど、その上で、うちのスタッフがいるから、俺がいるからと言ってくれる。こんなに嬉しいことはないよね。そういったお客さんの期待に応えるにはどうしたら良いか。毎日、毎日同じメニューでは良く無い。もっと品質を上げていったりとか、新しいことにチャレンジしていったりとか、店舗の改装をしたりとか、色々なやるべきことがある。どこにも手を抜けないんだよね。そういう姿を自分が率先してやって、できることならその姿を学んでいって欲しい。その学んだ従業員が自分の味方だったら、こんなに嬉しいことはない。楽しくてしょうがないと思います。

私のプライベート

趣味あるんです。(笑)当てられたことは無いけど。(笑)趣味は、”知らないことを知ること”です。「知らない!」ってなったら居ても立っても居られないんだよね。例えば、「あの映画見た?」とか、「新しいお店行った?」とかそういうことです。ジャンル問わずアンテナを張っています。ジャンルを狭めることは、こだわりではなく、価値観を狭めているだけ。多くの人が関心を持っていることを自分も試してみるのは、人に流されているのでは無い。知らないことは罪だと思っているので、自分が経験した上で、判断すれば良い。引き出しをいっぱい作っておく状態を作ることは重要だと思っています。ちなみに、今年の社員旅行はスキューバダイビングでした。去年は、富士登山。一昨年は、ディズニーランド。(笑)意味分からないでしょ。(笑)ディズニーランドでは、徹底された清掃、接客、イベントなどは見るべき。富士登山は、日本一の山登ってみたいでしょ。(笑)色々な刺激を受けて、考えることは必要だと思っています。

最後に一言

「美味いもの食べたい。」「旨いお酒が飲みたい。」
食の要望がある時は、うちのお店を思い出していただいて、是非足を運んでみてください!
お待ちしております!

自宅のリビングのように|cafe CREEK 平岡 尚志

音楽と過ごした日々

出身は、京都です。大学を卒業するまで住んでいました。大学時代はバンドサークルに入っていて、ハードロックをやっていました。(笑)あまり言いたく無いですけど。(笑)もちろんバンドで生活していくなんて考えもしませんでした。
卒業後の進路は、音楽関係の仕事には興味を持っていたのですが、京都の大学だったので、そう簡単にレコード会社にいけるとは思っていませんでした。銀行などの色々な業種を受けて、入社する会社も決めていましたが、たまたまご縁があり、レコード会社で働くこととなりました。
入社してからは、J-POPの制作、宣伝をしていました。
それからは、音楽業界一筋で、一昨年まで東京で働いていて、2017年の正月明けに安曇野へ引っ越して来ました。

長野に来た理由

安曇野は、学生時代から憧れの場所でした。
高校時代、作家の北杜夫を、愛読していました。旧制松本高校出身で、松本にゆかりのある方です。その頃から安曇野は「いつか暮らしてみたい場所」だったのかもしれません。

音楽関係の仕事で生きていこうと思っていたのですが、50代になって「そろそろ違った道もありかな。」と思い始めました。
かつて妻も同業だったのですが、7.8年前に転職をして、代官山のレストランで働いていたこともあり、食への興味があり、「カフェを開く。」ということを漠然と思い始めたんだと思います。
ただ、いきなりお店を開くといっても、私は、仕事関係のスキルしかないため、東京の料理の学校へ通いながら、自分もスキルアップをして、土地を探してと準備を進めていきました。

当時は、「どうしても〇〇なお店をやりたい!」といった想いはありませんでしたが、まずはカフェ形態でやりたいと思っていました。もともとリフォームが趣味だったので、そういったこだわりも含めて来てくれた人たちが、リラックスできる空間を作りたいと思っていました。
代官山に住んでいる時も、マンションの壁を壊して、自分たちで壁塗ってといったことをしていたぐらいです。(笑)


何かに特化したお店ではなく、自分たちが表現した良い雰囲気でお客様が心地よく過ごせるようにしたいと思っていました。
お店を開く前は、東京の知り合いにはすごい心配されていましたね。(笑)「あんな山奥に行ってお客さん来るの?」と。でも、自分たちなりに調べたし、「なんとかなるかな。」と思っていましたし、なにしろ、ここが気に入ったのであまり心配していませんでした。

場所に関しては、真っ先に松本か安曇野が良いなと思いました。関西の人間は、北海道や、信州は憧れがあるんですよ。(笑)両親もアルプスが好きでした。あとは、生まれが京都で、代官山に住んでいたので、「負けないくらい素敵な場所が良いな。」という想いはあって、日々北アルプスを見て暮らせる場所=信州かなと。

移住してきて戸惑いはあまり無かったです。
お店始める前は、見知らぬ土地で、はじめての自営業、「この先どうなるかな?」と考えることもありましたが、アルプス眺めていると「まあ、何とかなるか」と思うことができました。
開店前からご近所の方に親切にしていただき、開店したらどんどん知り合いができました。
唯一の夫婦の悩みは、歩いて飲みに行けないこと。(笑)
前は、いくらでも行けるお店があったので。(笑)
とても悩みです。(笑)

試行錯誤の連続

メニューの1つであるハンバーガーに関しては、開店前からある程度明確なイメージを持っていました。ハンバーガーだけは僕がレシピを決めて作っています。


20年以上前、アメリカに行った時に、ある店で食べたハンバーガーがオーガニックな素材を使っていて、とても美味しく、それよりもっと個人で作っている感じに落とし込みたいというイメージがありました。
それから、意識的にハンバーガーを食べるようにはしていて、アメリカはもちろん、フランス、イギリスでも食べてみました。
フランスでも、アメリカのスタイルがすごい流行っているのですが、フランスなので、より料理っぽくなっています。単に挟むだけではないハンバーガーでした。
このような形で、いろんな場所でハンバーガーを食べて、エッセンスを吸収していきながら、今のレシピを作りました。
最初は誰も教えてくれないので、一つ一つ試行錯誤しながらやっていきました。

今は、自分の思い通りに作ることはできていますが、多くの困難がありました。
ちっとも上手くいかないんです。(笑)、なんか一味足りないし、ソースもなかなかビシッと決まりませんでした。そんな中、大きく進んだ、1つのきっかけがありました。

知人のパートナーがロンドンで食肉を手広くやられていたことです。いろんなハンバーガー屋さんにも、お肉を卸していました。そこで、こね具合、挽き方、肉の配合などを教えてもらいました。それを参考にそれから自分で「これだ。」と思えるようなハンバーガーができるようになりました。

私のプライベート

案外インドアなんですよ。本とか映画とかを楽しんでいます。(笑)せっかく白馬の近くに暮らしているので、スキーは続けていきたいと思います。あとは、今お店に置いてある雑貨はヨーロッパに旅行に行った際に、自分達で買い付けて来たものが中心です。頑張って年に1回はヨーロッパに出かけたいと思っています。

お店を通して

「訪れた人に自宅のリビングのように過ごしてもらいたい。」
これが一番の想いです。これからもずっとこの街に住む人に愛されたいというのは、テーマとして持っていきます。その為には、新鮮な素材を使うこと、清潔にすること、お客さんが「歓迎されている」と感じられるような場所であること、を心がけて1つずつ積み重ねていくだけです。いつもそうあらねばと思っています。

是非、お店でお会いできることを楽しみにしています。お待ちしております。

暮らしに合わせる働き方|ヤマとカワ珈琲店 川下 康太

この記事は、ヤマとカワ珈琲店様のサイト上に記載されている、
「今に至るまで」
「珈琲について」
をもとに、インタビュー記事を作成しております。

人生の選択肢

《~開業するまで》
高校や大学でも特にこれといってやりたい事は見つからず、就職の時も「強いて言えば建築好きかな」くらいの感覚で建築資材メーカーの営業マンになった。
言われた通りに仕事をして、それなりに給料をもらい、それなりに楽しい日々を過ごした。

学生時代を振り返ると、熱中したことは、特にありませんでした。
部活は中学までは野球をやっていましたが、高校では続けず、帰宅部として、アルバイトをしていました。
卒業後の進路も、周りがみんな大学に行くし、親も「大学に行ったほうが良い。」と言うので、大学に行く以外の選択肢がありませんでした。その先も、大学に入って、そのまま就職してという人生しか無いような気がしていました。すでに将来のルートはできていて、そのルートをどうクリアしていくかみたいな感じでしか考えていなかったと思います。

大学入試では、どうやって大学に楽して入学できるかを考えました。当時、得意科目が数学、物理、英語だったので、その3科目で入学できる大学を絞り、その中で、「強いて言えば、この学部かな。」と思うところを受験しました。この時、大学4年間で、何が勉強したくてというのは、全くありませんでした。であれば、それなりに良い大学に入学していた方が就職も楽かなと。

就活の時も、特にやりたい仕事はなくて、とりあえず会社に入るというぐらいしか出来ないのではと思っていました。その中で、建築の分野に興味があったので、建築分野で就活を進めて行きました。
入社したのが、建築の資材を作るメーカーだったので、資材を建築の現場であったり、施工会社へ営業に回る仕事をしていました。ずっと営業でした。
サラリーマンとして、7年間働いていて、大阪で4年と、転勤で名古屋に3年いました。
この7年間の中で、当然、不満はそれなりにありましたけど、「そんなもんかなと。」思っていました。やりがいはそんなに感じていなかったです。働いていれば、毎月決まって給料が何十万と入ってきますし、それを自由に、何も気にせず使えるというのは、それなりに楽しかったです。

今までの自分との脱却

30歳を目前に親しい友人が家庭を持つ姿を見る機会が増えた。その時に、生まれて初めてこれからの将来を真剣に考えた。
“これから”を考えたときに分かったことは、自分の“これまで”は何の目標もなく過ごしてきたということだった。
そんな今までの自分から脱却するために作ったのが『ヤマとカワ珈琲店』です。

友人の姿を自分に置き換えた時に、自分の将来について、初めて真剣に考えました。自分もそのまま結婚して、家を買ってということです。大学に入って、就職をしてと決まったルートを歩いてきたことは、今だから思えますが、その時の自分って、何も気づいていなかったと思うんですよ。それ以外の選択肢が無いと思っていたから。周りの友人たちを見て、「このまま俺もいくのかな。」と考えた時に、違和感を感じたというか、「このままで良いのか。」と初めて思いました。


その想いの中で、会社内で自分を変えていくという気持ちは、全く無かったです。違う会社に入るという選択肢も全く無かったです。色々振り返ると、自分で何かをやり遂げたことが無いということが、すごく足りないと思っていました。 学生時代に熱中できたことが1個でもあると、それが少し自信になってあまり引っかからなかったと思うんですよ。でも、人生振り返った時に、本当に何も無かったというのが「やばい!」ってなったんだと思います。
なので、自営業をしたいという一択でした。会社を嫌だというよりも、自分で何かをしたいという想いが強かったです。

そう、だから、別に珈琲が昔から特別好きだったわけでも、どうしても珈琲屋になりたかったわけでもないんです。
とにかく自分が変わるためには、自分で仕事を作って自分の責任でやる自営業しかないと思っていて、「長く続けられる」という視点で自分にできることを考えた時に出てきたのが(ちょうどその時趣味だった)珈琲の焙煎を仕事にすることでした。

珈琲屋をすっごいやりたいわけでは無いんですよ。自営業をしたかったんですよ。その中で、何で食っていけるかを考えた時に、珈琲が出てきたんですね。
もちろん珈琲は好きですけど、「珈琲でなくては絶対ダメ。」という想いは無いです。
自分たちが暮らす中で、気持ちよく働ける職種が珈琲屋なだけで、珈琲をやるためだけに家族を犠牲にするという気持ちは無いです。珈琲を焙煎するのもすごい楽しいですし、珈琲も好きなので、それは十分モチベーションになっています。自営業というのは、自分で仕事を作って、お金をいただいて、暮らしていくということだと思うので、それがたまたまお金を生み出すのが珈琲だっただけなんですよ。

会社を辞めて、個人事業主として生きていこう。そう心に決めたタイミングで、たまたま知人から「長野市に古い空き家を利用した個人店が増えている」という情報を教えてもらった。早速その翌週には長野市に視察に行き、古い空き家を何軒か見せてもらった。家賃の安さや古い建物の趣がとても魅力的に映った。 地元の大阪で店を始めようと考えていたけれど、借金せずに開業できるハードルの低さや、変わるために必死だった自分には、長野市への移住はそう難しいことではありませんでした。

場所は、本当にどこでも良かったんですよ。たまたま一番最初に候補地に上がってきたのが長野市だったというだけです。名古屋の知り合いに、「長野市が今、善光寺の周辺で空き家を改修したお店がちょっとずつ増えているよ。」という情報だけ教えてもらって、何となく「面白そうだな。」と感じていたので、それからすぐ長野市に行きました。

色々考えても、悪く無かったので、長野市に来たという感じです。当時、「大阪に帰って地元でお店をやろう。」という気持ちが強かったので、ある程度、大阪で物件や、家賃の相場を考えていました。ですが、長野に行って、色々話を聞くと、考えていた金額感よりも、全然安くできることがわかりました。長野には山登りに行ったりもしていたので、何と無く良いイメージもありました。
本格的に、色々とお金を計算すると、借金せずにスタートできる金額感でした。失敗してもマイナスにならないので、「とりあえずやってみて、無理だったらまた考えれば良いか。」と思っていました。

知り合いは誰もいないところからスタートしましたけど、逆にそれぐらいの方が自分の実力を試すなら良いかなと思っていました。もともとが自分の実力を試すというか、自分で1からやりたいということだったので、それならそういう場所でも良いかなとも思っていました。たまたまその場所が新潟だったら、今、新潟にいるでしょうし、それが偶然長野市だったというのは、今考えると何かの縁だったのかもしれないですけど。

暮らしに合わせる

《開業後》
開業1年目は喫茶スペースも作って、ちょっとした食事も提供していました。
珈琲は1日のはじまりに飲むのが好きだからモーニングをやって、せっかく開けるならお昼は食事も出して、珈琲は自家焙煎して、でも人件費はかけたくないから1人で全部やって。と、朝から晩まで忙しく体力的にキツい日々。
思い描いていた暮らしとはちょっと違うかもと感じながらも、飲食店の経験が全く無いこともあって、「こんなもんなんだろう」と自分に言い聞かせていました。
できるだけお店を休まずに、その時に出来ることを繰り返しやっていたら、少しずつお客さんが増えていった。自分の珈琲を求めて来てくれる人たちの声が自信になって、「ちょっと違うかも」という心の声に素直になろうと決意しました。

そして、開業2年目には食事の提供をやめ、4年目には喫茶の営業をやめ、今では珈琲豆の販売専門店になりました。
できることを減らすことで、自分たちに無理がなくなる。無理がなくなると、長く続けることができる。長く続けていると、質が上がる。そんな考えのもと、自分たちのペースや大切にしたいものを定期的に見直し、その都度何かを変える決断をしてきました。

振り返れば開業した当初は会社員時代のようにできるだけ仕事をして、それに合わせて生活をする感覚でした。今は妻や子供がいて、思い描く理想の暮らしに仕事を合わせたいと思っています。
これからも、理想の暮らしは変わっていく。そしてそれに合わせるように、これからも変わっていくであろうヤマとカワ珈琲店にお付き合いいただけますと、幸いです。

開業したての頃は、サラリーマンの感覚がまだ残っていたので、その働きに合わせた暮らし方をしていました。例えば、その場所で暮らしたいわけではないが、転勤になったから、そこに暮らすということです。飲食店だったら、朝から夕方までやるのが普通かなと思って、それに合わせて暮らしていたのですが、「それって違うのでは。」ということをちょっとずつ感じ始めました。
それは家族が増えたことが1つのきっかけです。暮らすというのがベースで、それに仕事を合わせていったほうが良いなと思って変えていきました。暮らしをベースでその隙間で仕事をするという感覚です。

収入を得るだけが仕事ではないと思っています。たくさん忙しかったら、たくさん外食してしまうと思うんですよ。疲れて、自分で作る時間がないから。そしたら出て行くお金も多いから、それってプラスマイナスあまり変わらなくて。労働時間を減らして、自炊をしたり、野菜を作ったりということができれば、出て行くお金が少なくなる。そうすると、残るお金ってそんなに変わらないと思っています。それであれば、収入を増やす努力をするよりも、支出を減らす努力にあてる時間の方が、ストレスが無いと思っています。家族全体で考えた時に、収入だけ増やす必要はなくて、支出を減らせば、収入少なくても良いかなと。なので、その選択をしました。
収入っていくら増えても満足しないんですね。もっと増やそうと思ってしまうから。
それはあんまりだなと思って。できる範囲で売上が増えていけば良いですけど、そこまですごく増やしたいとか、スタッフ雇って、店舗を増やしてというのは今のところ考えていません。

考え続ける

考えることがすごい大切だと思います。
自分自身の中にしか答えがないと思っているので。
考えて、とりあえず自分でやってみないと、納得できないと思います。
その中で、近い将来と、遠い将来を両方考えたほうが良いと思っています。すぐ先の、明日、明後日、1週間、1年後という近い将来。でも、それってしっかりと方向性が定まっていないとダメなので、遠い10年後を見ながら、逆算して、今を考えるというのは、よくやっています。

考える中でも、自分の幸せは理解しようとはしていて、自己分析はいつもしています。今であれば、家族全員の気持ちを分析しますけど。
結局、働くことは、暮らしの一部でしかないので、働くとか、職種ってそんなに必要性がないものだと思っています。生きるためには何が重要かを考えると、楽しくストレス無く生きることだと思うので、それは良く考えます。妻とも話しますし。

日常的に考えています。普通に過ごしている中で、「なんか違うな。」と思うことが多いというか、引っかかるんですよ。そう思った時に、なんで違和感を感じたのかを細かく分析していると、「〇〇と言われたのが嫌だったんだ。」「〇〇の時が嫌だったんだ」というのに気付けてきて、だったらこの行動やめようのように修正できる。

サラリーマン時代に「自営業をなんでやるの?」「自営業をやって将来どうなりたいの?」というのは、すごく考えたんですよ。1年半ほどお金を貯めている期間で。毎日のように。仕事終わった後に、喫茶店行って、ノートにみっちり書いて。その時に癖付いたかもしれないですね。こういう時間は定期的にやらないと気持ち悪いですし、忙しいとなかなかこういった時間は取れないので意識的に考えるようにしています。

私たちが大切にしている3つのこと

1. 毎日飲める
質の良い生豆を使って、美味しい成分の化学変化をしっかり促すように弱火でじっくり火を通します。雑味がなく、甘味やコクが口の中にずっと残っている余韻の長い珈琲を目指しています。ガツンとした一口目のインパクトよりも、飽きのこない毎日飲める味です。
生豆の選定には、うちの焙煎機で美味しく焼ける豆であることと、仕入れ値が高すぎないことをポイントに選んでいます。毎日飲むためには値段もとても重要。日常で飲みやすい値段と、お店を続けていける利益とを考え、ある一定の値段以上の生豆は仕入れないように決めています。決められたその中でいかに高級品に負けない味を持っている銘柄を探し出すか、というところに腕の見せどころがあると考えています。

もちろん珈琲にはこだわりをもっています。ただ、そのこだわりをお客さんにどこまで表現するかというところに気をつけています。
「〇〇農園の〇〇で。」のように、あまりこだわりを表現しすぎてしまうと、お客さんは難しいと感じてしまうのではないかと思っています。
なので、豆選びをこだわったり、美味しい珈琲を作るのは当たり前の大前提として、それをお客さんにいかに難しくなく伝えるかというところに気を使っています。

2. 焙煎機のメンテナンス

火から下ろすタイミングが数秒違うだけで味が変わってしまう焙煎の世界。だからこそ焙煎機のメンテナンスは定期的に行っています。
焙煎機を大きく4つのパートに分けて、毎週1パートずつ掃除しています。外に伸びている煙突部分も季節が変わるごとに掃除しているので、ほとんど汚れ知らずです。
当店の珈琲が「雑味が少ない」とよく言っていただけるのは、日々の掃除のおかげかもしれません。

3. 無理なく続けられる抽出方法の提案

家で飲む珈琲とお店で飲む珈琲は別物です。
お店と同じ味にする為には、技術も必要ですが、コストがかかります。
1杯抽出するのにかける時間や、珈琲豆の量などを考えると、家では家の珈琲があっていいと思います。
淹れる方の性格や生活リズム、台所の広さ、飲む時間帯、珈琲のために使える予算、これらの条件を考えて、珈琲を生活に取り入れられる抽出方法を一緒に考えましょう。
大事なことは、カップに入った珈琲の味だけで判断しないこと。
お湯を沸かして豆を挽くところから、最後に珈琲器具を片付けるところまでが珈琲の時間です。それらを総合して抽出器具を選定しましょう。
月に1度、珈琲抽出ワークショップを開催しております。

家で飲む珈琲と、お店で飲む珈琲を一緒にするお客様が多くいらっしゃいます。豆を購入されたお客様で「お店で飲んだ珈琲と違う。」という言葉をよく聞くんですよ。お店って少し非日常であって、少し特別な珈琲。家で飲む珈琲は、毎日飲める珈琲。一緒にする必要はないと思っています。
毎日飲む珈琲を美味しく淹れれた方が良いと思っていますが、豆を購入されるお客様って「淹れ方わからないです。」のようになかなか聞かないんですよ。こっちが「聞いて良いですよ。」と伝えても、「大丈夫です。」との返答が返ってくる。

でも、ワークショップを開くと結構人が来るんです。それは、お金を頂いて、時間を割いてといった前提があったほうが、日本人の性格もあってか、聞きやすいからだと思います。
それに対して営業中だと、「忙しいから聞いてはいけないのではないか。」という感覚があるみたいで。

基本、教えるのにお金はいらないんですよ。僕ら豆で売っているので、完成品ではない。液体になって初めて珈琲で、途中のものを売っているので。淹れ方を教えるのは当たり前だと思っています。お客様に教えたいんですけど、ワークショップを開いたほうが、みんな聞いてくれるからやっています。

想いを表現する理由

あえて、サイト上で表現しています。今の時代って、個人店が多いですし、珈琲屋さんなんてどこにでもあるし、違いをみせるのには、想い、こだわりしかない。自分だったら、「安いから買う。」っていうのはあまりしないし、「誰から買う。」というところしかあまり考えない。僕らみたいな自営業が生き抜いていくには、やっぱり、僕が好きだから買ってくれるという人をいかに増やすかだと思っています。ネットで色々買えますし、近くにお店もあるだろうし、差をつけるのは人でしかないと思っています。

取材を受けて、記事にしてもらって、「見ました。」と言って来てくれる人もいますし、やっぱりそういう繋がりの方が強いです。ファンをいかに増やすかですね。珈琲豆もそこまでめちゃめちゃこだわっているとかではなくて、それよりもどう考えているかとか、どういう想いで作っているかの方が大事だと思っています。どの商品でもそうだと思います。

今後の自分

「生きるチカラ」をつけたいです。
どんな場所にいっても、どんな時代になっても生きていけるチカラ。
それはきっと野菜づくりであったり大工作業であったり、そういう手仕事ができるようになりたいです。
ただ、完全自給自足の暮らしに憧れているわけでもないので、珈琲の仕事を続けつつ、自分にとって家族にとってちょうど良いバランスの暮らしができるように目指したいです。

お店が必要とされなくなるまで。|Glocal foods「NAVEL」崎元 伸郎/崎元 生歩子 #2

ストレッチゾーンへようこそ

N:長野に来てから、よく体を動かすようになりました。スポーツは好きだし、山登り、クライミングもします。

K:私は、中高生の頃は、学校で山登りをやっていたのですが、それから「山登りは、もうやらない。」と思っていました。(笑)ずっと、主人の誘いを断っていたのですが、度、嫌々主人に付いて行ったらハマっちゃって。(笑)それから、子供生まれる前は、シーズンだと毎週出かけたりとか、月に1回は必ず2、3泊で山やキャンプに出かけていました。あの体験がなかったら、今の自分が無いと思うぐらいです。(笑)自分らしくなりました。

N:最初、全然やる気無かったんですよ。(笑)1度、クライミングの体験に騙して連れて行きました。
そしたら、すごく楽しんでいて。(笑)僕が最初に始めていたのですが、どんどん上達していきました。(笑)

K:クライミングにはオブザベーションという、観察して考える時間があります。どう登っていくのかを観察して、考える時間です。これは子育てや、料理など日々の生活にも生かされることが多いです。目的を考えて、俯瞰で見て、手段を決める。
なんでもクライミングです。(笑)

N:クライミングと日常が結びつくことは多くあります。例えば、不安レベルについて。人それぞれ、コンフォートゾーンという範囲があります。不安にならない行動範囲です。その先にストレッチゾーン、デンジャーゾーンと大枠で3段階あるんですが、人間ってコンフォートゾーンに居たがるんですよ。日々の習慣行動から逸脱するものはなるべく避けたい。コンフォートゾーンだけでは成長が無いので、新しいことに対してのチャレンジ精神がわかない。その点、ストレッチゾーンは我々の可能性を発揮できる機会を与えてくれます。

K:アウトドアもそうで、いつものフィールドがあって、少しチャレンジするストレッチゾーンがあります。

N:アウトドアってそもそも小さなリスクがいっぱいあるから、本能として楽しいって思えるんだよね。少し普段の生活と違う非日常感は新鮮な体験を与えてくれるし、五感が気持ち良い。
普通の生活をしていると五感が鈍ってきてしまうので、たまにアウトドアフィールドに出かけて、リセットしてあげる。自分の感覚を呼び戻すというか、元に戻してあげる。
自分の感覚を研ぎ澄ますと、選択って自ずと、そこを基準にしてくるはずなんですよ。
それをみんなに体験して欲しいと思っていて、五感を鍛えるワークショップも企画しています。
自分で選択できる人が増えると、恐らく世の中はもっと楽しくなると思います。
「ストレッチゾーンへようこそ。」ですね。(笑)

選択肢を広げる

K:人間は10歳ぐらいまでに感覚が成熟されると言われていて、味覚もほぼ決まってしまいます。

N:10歳までに食べてきたもので、その後の人生が決まってします。なので、リミッターを外してあげたいと思っています。リミッターをつけたままだと、その狭い範囲内での判断基準しか持てない。


「美味しい。」と思うものをもうちょっと広げていってあげる感覚です。自分たちは自然食を提供しているけど、五味に対して理解がある人でないと受け入れられない場合もあります。小さい頃から、化学調味料とかで調理している食事を好んで食べていたら、そういう食事を好きになってしまうので、化学調味料を外した料理を提供したときに、「美味しい。」と思えなくなってしまうかもしれない。
野菜もそうだと思います。化学農法で育てた見た目が綺麗な野菜とか、甘みだけに特化した野菜を美味しいと思って食べていると、苦味とか、滋味深さとかを美味しいと思ってもらえないかも知れない。
そういう想いがあって、五味の授業は子供達にやりたいと思いました。
選択の幅を残してあげたいと思っています。

N:最近の活動として、食育をメインにして活動しています。レストラン空間だけでなく、子供達にまつわる食を調えたいと思っています。売り上げだけとかのプライベートなことの追求ではなく、土台の部分を含めての幸福を訴求していったほうが自分が幸せで、幸福度が高い。

K:食育の映画上映をしたり、市民団体もやっているので、お母さんたちと食育の勉強をしたり、料理教室をしています。

日常の豊かさを求めて

N:最終的には、このお店が必要とされなくなることがゴールだと思っています。

K:外食に依存する生活ではなく、家庭料理を豊かにして欲しいという想いがあります。その為、お店にも自然食品を置いています。家庭の調理を大切にすることが一番自分の体を健康にします。
例えば、お客さんが「美味しかったです。」とお話されれば、提供した料理のレシピを渡します。「このドレッシングはこうやって作るので、ご自宅でやってください。」っといった形でオープンソースです。レシピ公開型のお店です。何も隠さないです。秘伝とか無いです。(笑)
逆に、「ご自宅でやってみてください」というスタンスです。

N:サービスではなく、応援です。料理を提供する人対消費者の関係ではなく、生活する人という括りです。「生き生きと、楽しく幸せに生活する為に、応援したい。」そう思っています。
どんどん豊かに暮らしていく人が増えていけば、社会は幸せになると思います。

K:お店に来て欲しいというよりは、「日々の生活を大切にして欲しい。」ということを伝えたいです。

N:あまり押し付けがましいのは良くないと思っていて、日々の生活にちょっと違う選択を入れて欲しい。大きな変化はいりません。

K:大きな変化って続かないんですね。私はランニングをしているのですが、「私の目標は〇〇分」のようにやると続かないんですよ。そうではなくて、日々のランニングを楽しむことだったり、今日も無事に走れたことを喜ぶことが大切であって、目標とか意気込みとかは続かない。

N:日々の生活する中で、無意識なものも含めて無数の選択が積み重なっています。私たちはその無意識下の選択肢を提供したいと思っています。

ストーリーを届ける

K:「いっかく」という八百屋を穂高神社横に新たにオープンしました。
背景には、生産者さんに対する想いがあります。
生産者さん、提供者、お客さんが全てフラットな形であれば良いのですが、現状そうでは無いと思っています。段階構造になってしまっている。

N:生産者さんのファンになって欲しいと思います。野菜への誠実さや、生産者一人一人のキャラクターであったり。まず知ることだと思います。知れる場所を提供する。そして、野菜に対する想いであったりを届けてあげる。

K:農家さんの食材の一部分だけを切り取って、美味しい、まずいだけではなく、もっと背景的な部分も含めて、提供していきたいと思っています。
良いお野菜は調理していると気持ちが良いし、味がしっかり乗っているお野菜は調味しなくても美味しいです。そういうお野菜がなくなるというのは、私たちが提供したいものが無くなったり、私たちの楽しみもなくなってしまいます。生産者さんを支えていかなければ、扱う素材も無くなってしまうので、自分ごととして捉えています。

N:僕は、純粋に生産者さんを尊敬しています。そして、生産者さん達の努力、チャレンジ精神みたいなものをもっと知って欲しいと思っています。
なので、生産者さんに直接赴いて、様々なものを見て、聞いています。そうすると、私自身がその人の生活の一部になっていきます。僕はその人の野菜を使うことによって、応援することもできる。
さらに、長く応援し続けることが大切だと思っています。


その土地で暮らしていくための信用経済だから。例えば大きなイベントをやって、大きな収入が一時的に入るというのも良いとは思いますが、マーケットに合わせた動きをしていくのは、本来の自然の形では無いと思っています。
生活で結び合っていかないといけないと思っている。打ち上げ花火として結ばれている関係は、お金はもしかしたら儲かるかもしれないけど、続かない。農家さんは工業製品を育てているような気持ちになるし、健康とは別の方向に向かっていく。個人の健康、社会の健康を保っていくためには、細く長くやっていくことが大切だと思います。
顔の見える関係性を大切にしたいと思います。支えられる人数は少ないけれど、お金だけの関係性では無いものを構築していきたいと思います。

K:売れなかったものを持ってきてくれる農家さんとか、格外で安くなってしまったものを持ってきてくださる農家さんもいらっしゃいます。作っている人の気持ちを含めた上での野菜を楽しんでもらう場を体験してもらう。料理を食べるだけの体験以外のことを我々は付加価値として提供していきたいと思っています。

N:余ってしまった野菜もできるだけ活用しています。八百屋は、構造的にやっぱり野菜が余ってしまう。でも、余るものは絶対に廃棄したくない。火曜日が定休日なので、月曜日にお店で余った野菜を使ったパーティーをしています。自分たち家族もそうだし、友人家族や、生産者さんを呼んで食事をしています。ただ、食事を楽しむだけでなく、交流の場にもなっています。
こういった取り組みは、もっと展開できると思っています。お家に眠っている乾物や、買ってはみたけど使わない塩とか、お土産で買ったけど食べないものとか。これがいわゆるフードロスというものです。これらを生かして、穂高全体でも一緒に面白いことをしたいと思っています。

最後に一言

ジビエや、野菜料理を生活の中に取り入れたいと考えているけど、どうやったら良いかと模索している方にはお力になれると思います。家庭料理のヒントとなれれば嬉しいです!

人生を発酵させる。|Glocal foods「NAVEL」 崎元 伸郎 /崎元 生歩子 #1

食と向き合うきっかけ

崎元 伸郎さん(以下、N):神奈川県川崎市出身です。川崎なので、ほぼ首都圏で生活していました。自分で料理は作っていましたが、仕事にするイメージは最初は無かったです。自立する為のツールぐらいしか思っていませんでした。

崎元 生歩子さん(以下、K):私は大分県の出身です。中学校にあがるタイミングで単身上京のような形で、寮に入りました。一貫教育の学校です。私は、高校生の頃に色々なきっかけがありました。高校生の頃がちょうどカフェブームでしたし、ヨーロッパに行く機会があって、それから飲食に興味を持ち始めました。なので、料理は高校の時からやっていて、ワインスクールでバイトもしていました。その後、自然な流れで、ホテルで就職をしました。

N:食へ大きく関心が向いたのは、9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が起きたことが大きなきっかけでした。当時、19歳の時です。日本という国に生まれて、今まで何不自由なく何の気なしに生活していた中で、あの事件をきっかけに、社会の深さというか、社会がどう動いているのかに興味を持ち始めました。それと同時に、自分が本当にやりたいこと、社会に必要とされることをどうマッチングしたら良いのかなと考え始めました。
ワールドトレードセンターは、資本主義経済の象徴みたいなもので、それに対して、ショッキングなアプローチがあったということは、経済構造が破綻しているのでは無いかと感じました。なんとなく、自分が責められているとも思いました。自分には、見えない世界がある。そう考えると、環境破壊や、劣悪な労働環境などの色々なことに目が向くようになりました。

K:同じ歳の私自身は、あのニュースを見て、「大変!」と思っただけだったのですが、主人は、社会の裏側とか、なんでこんなに恨みを買うのかと思ったみたいなんですね。

N:我々に見えない生活を知ろうとせずに、我々が幸せに暮らしているというのは良くないのではないかと感じました。
自分の幸福と、社会の幸福をどう両立させようかと考えた時に思ったのが、食でした。
食が1番僕にとって、ポピュラーだし、「美味しい。」と思うだけで誰もが幸せになる。
自分たちの幸福だけでなく、次の世代の環境を考えて、選択をしていくことの大切さを感じました。

私たちが長野に来た理由

K:畑のあるレストランを目当てに、まず主人が25歳になる時に単身で行きました。
付き合い始めてすぐに「僕はもう長野に行くから。」と言われて。(笑)

N:当時、2人とも東京で野菜に特化した同じナチュラルフレンチレストランで働いていました。色々な場所から有機野菜を取り入れたりしていましたが、お店のある場所で作られているわけでは無い。外から農産物を買って来て、ガソリンを沢山使って飛行機や、トラックで運んで来る。莫大なエネルギーを使って運んで来ることに違和感を感じました。

また、畑になっている野菜の姿を知らないんです。(笑)スーパーに並んでいる野菜の味と、形しか知らない。野菜を手にとって、美味しい、美味しく無いの判断だけをするというのは、お客さんに対しても、生産者さんに対しても、不誠実だと思いました。
これから先、料理をやっていく中で、何より自分自身に不誠実だと思いました。
お客さんに対してのプレゼンテーション能力も高めたかったし、創造性の面でも学びたいと思っていたので、畑のある場所で働きたいと思いました。
たまたま知り合いのお店があったので、行ってみたら、すごい居心地が良く、もうすぐ決めました。思い立ったらすぐ行動しちゃうタイプなので、、。(笑)

K:あまり周囲のことは考えず。(笑)私は、主人が長野に行ってから2年後に移住をしました。長野に来て良かったと思います。
私は都会のレストランで働いていて、尖ったサンダルとかを履いて、都会の人ぶっていたのですが、都会にいたら、お客さんにただ単純に美味しいと思ってもらうことや、日々の売り上げの数字に、多くのウエイトを置いていたので、社会的な問題についてまで考える余裕が無い。
当時は、主人と離れて、お店を転職して、キャリアアップを図ったのですが、仕事のサイクルがすごく早くて、体を壊してしまったりといったこともありました。

そこから、飲食の仕事を辞めて、全く違うアウトドア用品や、スポーツウェアを売っているお店に転職をしました。
職場には、アウトドアが大好きな人たちが周りにいて、「長野良いじゃん。」と勧められました。同じ東京の中でも、こういった価値観ってあるんだということに気づけて、長野県が近く感じるようになりました。

穂高である理由

K:穂高にゆかりは特に無いです。(笑)今のお店を3年前にオープンしたのですが、ずっとこの物件が空いていました。穂高駅の目の前の交差点なのに、10年位ずっと空き物件でした。
グレーのカーテンが閉まっていて、売り物件だったんです。

N:本当にカーテンが閉まって、真っ暗だったんです。死んでいたんです。(笑)
でも、僕はそれが宝に見えたんです。「ここは死んでいたらまずいよね。」って思って、ちょっとした使命感に駆られました。場所ありきで、ここの課題は何かと俯瞰した時に、この街が楽しくなることを表現したいと思いました。

K:穂高の駅前のこの場所だったら何をするのが良いかと考えて今のスタイル。
自分のやりたいことと、この街にはこれが必要では無いかという観点を併せ持ちつつ、お店を作りました。
安曇野の土地の食材のポテンシャルはすごく高いので、それをもっと提供できる場所は欲しかったし、農家さんも欲しいと思っている。

N:穂高の駅前に若い子が楽しめる場所が無かった。
でも、無かったら、「作れば良いじゃん。」って思うんですよ。(笑)
なので、文句を言うなら智恵を出そうよと思っています。まず自分が飛び込んでみないと。

発酵と腐敗

K:このお店は畜産のお肉は一切使わずに、鹿とイノシシを中心にジビエを使っています。ジビエは狩猟でとる野生のお肉のことです。害獣駆除をされる中で、その9割が破棄されている現状があります。その中で、たくさんのコスト、エネルギーをかけて畜産のお肉を食べるのなら、山のお肉を食べたほうが良い。

N:「発酵と腐敗」を大きなテーマとして持っています。どう人生を発酵させていくかというのが大きなテーマです。食べ物でもそうです。なので、なるべく食べた後に発酵していくものを使いたいと思って、日々調理しています。食を提供していく責任として、その場で美味しいだけでなく、食べた後の食後感だったり、健康といった長期的な視点として見たいと思っています。なるべく発酵するものを提供していきたい。ジビエは腐りづらいんですよ。さらに、抗生物質や、成長促進剤やホルモン剤は使える余地がありません。
美味しく調理すれば、食べられる高級食材だし、提供したお客さんの健康を長期的に考えられるので、積極的に使うようにしています。

K:原体験としてあるのが、子育てです。豚カツとか畜産のお肉を食べると、ホルモン系のもので太らせていたりするので、授乳トラブルが起きてしまいました。
それが、山肉を食べた時にはならなかったんですよ。鹿肉を食べたら大丈夫だった。
動物的な判断ですが、これは子供に食べさせられるものだと思って。体への負担がすごく少ない。
食味だけでなく、体への負荷を考えた時に、子育ての上でも良いなと思いました。

地元のマスターへの憧れ|カンティーナわん 砂子 慎哉 #1

地元のマスターへの憧れ

私は、富山県出身です。富山県にいたのは中学生までで、高校は全寮制の高校へ1人東京に出て行きました。
当時、親がチャンスをくれて、地元の高校へ行く道と、東京の高校へ行く道を選ばせてくれました。その時に「どっちかわからないけど、東京行った方が良いか。」と思って、飛び込んでみました。

大学へ進学するつもりはあんまりなくて、当時ひねくれていたので、めんどくさいなと思っていました。なんせ全寮制の高校なので楽しみが少なくて、男同士で悪さするだけだったのですが、本を読むのが好きで、ずっと本を読んでいました。
その中で、心理学の本に出会って、読んだ時に、「これ面白いな。」と思い、その出会いから心理学関係の本をとにかく読みあさりました。
「どうせ大学へ行くのなら勉強したいことするか。」と思い、心理学関係の学部、学科を受験し、結果受かったのが大阪でした。

大学4年間は飲みまくって、遊びまくって、勉強しまくってといった感じでした。
ただの学生です。(笑)
当時、アルバイトは飲食関係をしていて、レストランやすし屋、バーのお手伝いをしていました。
その時は飲食をやりたいという気持ちはなく、アルバイトとして漠然と働いていました。
ただ、「面白いな。」という気持ちは当時からありまた。

卒業後は大学院を視野に入れていて、心理学の道で将来進むべきかどうかを悩んでいました。
4年生の1、2月の進路が決まるギリギリの時期に、「大学院はやめよう。」と思いました。
理由は心理学を勉強したかっただけで、職業にしたかったわけではないと途中で気づいたからです。その時に、「自分はどう食べていこう」と先の人生について悩みました。
その中で、自分の人生を振り返った時に、どういう瞬間が楽しかったのかを考えると、小さい頃に行っていた「MOKU MOKU」という地元の喫茶店を思い出しました。
小学生から、大学生までずっと通っていた喫茶店です。
そこのマスターがかっこよくて、喫茶店にいくのが楽しくてしょうがなかったんです。
そこのマスターは船乗りさんとして世界を旅したこともあったり、綺麗な奥さんがいたり、スキーもインストラクター級の腕前で、なんでもできるカッコ良いマスターでした。
全部がカッコ良い。

事業計画書で親を説得

飲食のアルバイトをしていた時に感じていた「楽しいな。」と言う気持ちもあって、「これを職に出来ないか。」と感じるようになりました。
そう思った時にはもう心では「よし。これで行こう」と決めていました。
当時、親に大学へ行かせてもらっていて、大学に行った以上はこれを無にすることは出来ないので、親を説得しなければならないと。
それから、「こういうプランで、こういう業態、席数○席、単価○円、売上○円、私の給料はこれぐらいなります。」と事業計画書を書きました。
実家に帰って、お父さん話があると。これを読んでくれと出しまして。
「そこまで考えているなら、好きにせい。その代り後悔するんじゃないぞ。」
と認めてもらい、そこから飲食の道に入りました。
その後は、事業計画書に書いてあった初期投資の額を貯めければならないと思い、会社員になりました。

とにかくお金を貯めなければならなかったので、大事なポイントはお給料でした。
就職課に行って、残り少ない求人情報を見て、全部受けました。
その中で、一番給料が良かったのが、システムエンジニアでの就職でした。
当時、若干景気の良い時だったので、仕事もあって、お給料も良くてといった環境でした。
大阪で就職をしたのですが、大阪という街は非常に楽しい街でして、稼いだお金は全部飲んでしまい、遊びに使ってしましました。
事業計画書の中に、自分の性格は加味していなかったんですね。(笑)
このままやっていてもお金は貯まらないし、経験も積めないしといった想いで、結局、二年弱で退職をしました。

フランスと松本

その後、一度、実家の富山に戻って出版社で営業をしていました。
実家ならお金が貯まると。
飲食店へ営業をしている中で、仲良くなったフレンチのシェフの方と飲む機会がありました。
そこで「飲食をやりたいが、見習いしかやったことありません。」と伝えると、「お前フランス行って来い!」と言われました。
「おれが修行していたお店に紹介状書いてやるよ。」ということでフランスに行くことへ決めました。
そこからガソリンスタンドで働いたりと、お金を貯めていたのですが、フランスに行く前に、私の同級生とバリ島へ行く機会がありました。
ここに松本に来るきっかけがあります。

同級生とバリ島に着いた後、その同級生のお父さんと合流することになりました。
そのお父さんは松本で飲食や旅館を経営している方でした。
「これからフランスへ料理の勉強をします。」と今後の話をしていると、「フランスになんかに行ってまともな料理人になった人を見たことがない。」と言われまして。
そんなことは無いんですけど。
「君は、日本帰ったら松本に来なさい。新しい店を出すから。」と言われまして、冗談かなと最初は思っていましたが、日本に帰国してのほほんとしていたら、「お前はいつ来るんだ。」と言われ、本気だったんだなと。
とりあえず見学のつもりで行ったところ、そのまま働くことになってしまい、松本で暮らすことになりました。
大きい旅館のレストランです。そこでバーテンダー業務があり、店長業務がありという形です。
本当は今頃フランスに行っているつもりでした。(笑)

今のお店(カンティーナわん)は、当時働いていたお店の隣にありました。
仕事が終わったら毎日飲みに行っていたんです。また、大阪時代と変わらず飲んでいるんですよ。
当時は、雇われている身だったので、「本当はこうしたい。」といったやりたいことが沢山ありました。
どうしても誰かのお店だと上の人の許可をもらったりと、出来ないことが出てきます。
その中でフラストレーションが溜まっていって、「この理想を叶えることが出来ないかな。」と模索すると、むしゃくしゃして、酒を飲むといった感じで。
その時に、私の師匠であるわんさんに、「店をやってみたら?」と後押しをされ、お店を持つ流れとなりました。
最初は店長という形で入って、その後、お店を買い取りました。
当時は、お付き合いしている方と結婚しようと思っていて、「雇われ店長では、結婚できないな。」と思っていたんです。(笑)「男ならば一国一城の主として結婚したい。」という想いがあったので、お願いをして、売ってもらうことになりました。
人生いろいろあります。
その時に、お金も足りなかったのですが、当時、付き合いのあったお客さんがお金を貸してくれたりと、いろんな方に応援してもらい、支えられて初めてのお店を開くことが出来ました。
いろんな出会いがあって、いろんなことを吸収して、そのエッセンスがお店に反映されています。

1本の動画が運命を変えた|Pizzeria Aletta 赤羽 勇治

漠然と一日が終わる日々

出身は長野県松本市です。
高校を出て、すぐ料理人になろうとしたわけではありません。
しばらく父が建設の仕事をしていて、独立するタイミングが重なって、一緒に働いていました。内装業です
期間は、5年ほどです。
将来したいことが定まっていない。夢も無く、ただただ一緒に働いているだけでしたね。
ただ、日々を過ごしていました。
その時は、父親の後を継いで、「建築の仕事をこれからやっていくんだろうな。」と思っていました。

一本の動画が運命を変えた

料理は、家で自分の分を作るぐらいはやっていました。
今の仕事に就くきっかけは、ある時、「ピザを作ってみたい。」とふと思ったことです。
作り方が分からないので、インターネットで調べました。
調べている中で、そこでたまたまピザを回している人の動画を見て、「なんだこれは!」と衝撃を受けました。
その動画はピザを作っている動画ではなく、生地を振り回してお客さんを楽しませている海外の動画でした。「こんな世界があるのか。」
自分が考えていたものとは全く違っていたことが衝撃で、「おれもやってみたい!」と思いました。

調べていくうちに、ピザ生地を伸ばす練習用のゴムが売るっているのを知り、すぐに通販で買いました。
それからは見よう見まねで練習をしていて、最初は趣味の感覚です。
そして、美味しいピザが作りたいのではなく、とにかくピザを回したいという感情です。(笑)
仕事が終わって家に帰ると、そこから公園に行って、回しての繰り返しです。
料理とは全然違っていて、大道芸に近いと思います。

ピザ回し日本大会へ

参考動画はあったのですが、早すぎて最初は何をやっているかわかりませんでした。(笑)
「教えて欲しい。」という気持ちを持っていたので、そういった場がないかと調べていると、練習用ゴムの販売元にピザ回しサークルがあることを知りました。場所は埼玉です。
月に1回ぐらいで、開催されているサークルだったので、なかなか毎回行くことが出来なかったのですが、2、3か月に1回のペースで参加していました。

そして、長野、埼玉で練習しているうちに、ピザ回す日本大会が初めて行われることを知りました。
それが2012年です。
サークルのメンバーから「出場してみない?」というお声掛けが合って、せっかく練習しているのであれば大会を目標にしたいと思い、大会開催日に標準を合わせて練習をし、大会に出場することを決意しました。
大会には3つ部門がありました。
職人向けの生生地の部門、練習用のラバーでパフォーマンスをするラバー部門、500gの生地をどこまで大きく伸ばせるかのグランデ部門。

ピザ回しに出会って1年目の時です。
私はラバー部門で出場し、1年目だったのですが、勝っちゃいました。(笑)
お店にもメダルを置いてあります。

ラバーと過ごした半年

大会に出場するまでの練習期間は約半年でした。
半年と聞くと短いと感じるかもしれませんが、その半年間は本当にみっちりやりました。
始めた1年目は気持ち悪いぐらいに練習していましたよ。(笑)
仕事するか、練習するかの2択でした。
家の近くに公園があるのですが、仕事終わったらすぐそこへ行って、ラバーが真っ黒になるまで練習して、家に帰った後は、ラバーと一緒にお風呂に入って洗ってあげるという生活をしていました。(笑)


当時は、ピザ回しを始めるきっかけになった動画の衝撃が強すぎて、何も考えずに練習し続けていました。
「こんな風になりたい!」の一心です。
大会が行われる数カ月前の夏に公園で練習をしていたら、たまたま見ていた方に、「上田の夏祭りの催し物の1つとしてやらない?」とお声をかけていただいて、大会前の度胸試しではないですけど、多くの人の前で披露する機会を頂けました。
それは、すごい良い経験になったと思います。
長野県でピザを回す人が私しかいないので、一緒にやる仲間はいなくて、孤独でしたが、周りで見てくれる人や、応援してくれる人がいたのでそれが励みになって続けることができました。

ピザを“回す”から“食べてもらう”に

大会主催の協会の方が関東でお店をやっている人でしたが、優勝したことで、その方から「うちのお店おいでよ。」とお誘いを頂きました。
「ピザ職人としてスキル身につけてみない?」ということで今まで趣味でやっていたものから本格的に学ぶことに決めました。
今まで、ピザは回していましたが、料理人としては素人だったで、料理の技術を学びにいく為です。
松本に帰って、父親に「おれピザ職人になるわ。継がない!」と話をしました。(笑)
翌年に仕事を辞め、先輩たちのいる埼玉のお店で働き始めました。

埼玉のお店では3年間働いていました。
働き始める時に3年と区切りを決めて、3年終わったら自分でお店を持つことを決めていました。
これはお店にも伝えていたことです。
この3年間では、パフォーマンスと料理はもちろん全然違うので、たくさんの壁にぶつかりました。
ピザを見てもらうのではなく、ピザを食べてもらうので、味の部分は苦戦しましたね。
美味しいモノを提供するという事には、ほぼ未知だったので。
壁を1つ1つ乗り越えていく中で、3年経った頃にはある程度自信がついて、自分自身で納得が出来るほどになりました。
そこからお店を出す準備を進めていきました。

お店を始めてからの苦悩

物件は、イメージしていたものがあって、物件を探している中でイメージと近いものがあったので、ここで勝負しようと決意しました。
オープンは今年の3月28日です。
オープン前に考えていたことと違ったことは、正直結構あります。(笑)


長野から関東へ出て行って、ピザ屋さんで働いていましたが、向こうだとそもそも人が多いですし、やればやっただけ出るしという状況でした。
その為、松本でもお店を出せば、成功できるだろうなと思っていました。
実際に、お店を持ってみると、若さ故の勢いと甘さしかなかったと感じています。オープンから1年経ってみたら、自分がやりたかったことだけしかできていないという印象です。
やはり、お客様あっての商売なので、私がやりたいことだけやっていれば良いわけではない。そういう学びはありました。
お客様が求めているものを出さなければならないので、「ピザ回してすごいでしょ!」「このピザ美味しいでしょ。」だけではうまくいかないことを痛感しました。
ピザだけやっていれば上手くいと思っていたけど、そうではないんだって。
夏暑くなってきて、お客様がピザ食べたいかといったらそうでもないし、
かき氷のほうが出るし。(笑)
縄手通りは、観光地なので冬は全然人通りがないんですよ。
埼玉であれば、人が一定数いたので関係なかったのですが、、、。
こういう地方の観光地は売れ幅があるので、正直冬はきついです、、。
いろんなことを想う中で、考え、行動の繰り返しで、試行錯誤のしている状態です。
本当にたくさんの事を学びました。

今後の展望

自分は散々ピザを回してきて、もともとが料理人ではないので、他の皆さんも僕のこと料理人と思っている人っていないと思うんですよ。(笑)
なので、個人としてはパフォーマーではなく、1人の料理人として認めてもらいたい。
回す大会ではなく、料理の大会で結果を残せればと思います。

お店の事に関しては、信州の誰もが愛してくれるメニューを1つ作りたいなと思います。
地元の人の馴染みになるメニューです。
地元の食材を使った、ここでしか食べることのできないメニューを考えています。

私のプライベート

休みの日もピザを作っています。(笑)
熟成製法という作り方があって、生地を3日間寝かせる作り方です。そうすることで、よりおいしくなったり、香りが良くなったりします。
水曜日が定休日ですが、水曜日も仕込まなければならなかったりするので、休みの日もピザをつくっているという事です。(笑)
自分がやりたくてはじめたことなので、しばらくは良いです。(笑)

最後に一言

イタリアンレストランは敷居が高くて、子どもがいると騒いでしまったりと、なかなか家族で来れないのではないかというイメージを持たれていると思います。
ですが、この店はむしろお子様に来てもらって、ピザを回すところを見てもらって、騒いでもらいたいなと思っています。
その為、キッズスペースも用意しています。
アットホームな空間を用意しているので、気軽に足を運んでください!!

Mr Sunday Trip|Sunday Life Coffee and Store 和田 幸夫

捨てられない想い

出身は松本市です。
小さい頃に長野市に引っ越してきまして、小中高と長野市の学校に行っていました。
大学卒業し、長野市で就職しましたが、何年間か経ち、「東京に出たいな。」という気持ちが出てきました。
その頃は、インテリアに興味があって東京で様々なものを見たいと思い始めた時期でした。

東京から帰ってきてすぐは、飲食とは全然畑違いの足場の仕事をやっていました。
とび職です。6〜7年やっていました。当時、30半ばを超えたぐらいです。
仕事中、足場を作っている最中も、「何か違うな。」というどこかモヤモヤした気持ちを抱いていました。

夢に近づく1つの出会い

一番最初に飲食に携わったのは、長野市のホテルの1階にある食べ飲み放題のレストランです。
友人のツテがあり、お世話になった流れです。
半分アルバイト、半分就職みたいな形でホールを担当していました。
ホテルで勤めたのは2、3年です。

ホテルに勤めている中で、1つの物件との出会いがありました。
それは、今もお店の一部になっている長野市にあるカウンターだけのお店です。
当時、このお店は夜にバーを営業している為、昼間は何も使われていませんでした。

この場所でお昼のお店をやりたいと考えましたが、1つの物件をシェアするといっても、うまくいくものでは無いと思っていました。いざ、バーのご主人に話してみると、ざっくりな方で、「家賃を折半するのであれば、昼間やって良いよ。」という話をいただきました。
すぐに自分のお店を持てなくても、お店をやりたい気持ちと、現実の収入とのバランスをとりながら、まずは自分ができるところから始めようということで、週3日からお昼の営業を始めていきました。
この形で4年やっていました。

現在は、バーのスペースを広げて、隣の物件をメイン営業をしていますが、これも、また一つの偶然がありました。
隣の物件がたまたま閉店されるということです。
「“自分のお店を持つ”という夢を実現したい」という想いと、「こんなタイミングはそうそう無
い」という想いで、お店を広げる形で営業を始めました。

Mr Sunday Trip

昔から、服やインテリアが好きでした。
入り口はこういったところにあるのですが、カフェの雰囲気や、カフェで働いている人のイメージが、自分が好きなインテリア、洋服と重なる部分がありました。
当初、洋服屋さんをやりたい気持ちもありましたが、服、インテリア、カフェが総合的にできる場所があればということで、こういった業態に落ち着いています。

なので、店内には自分の好きなインテリアや雑貨を置いています。
お店を開くにあたって、再度買ったものもありますが、ほとんどが私の家にあった家具を店内に置いています。
自分の趣味で集めていたものです。(笑)
食事を提供する食器も全て統一して、揃えるというよりは、一点物にこだわって集めています。

このお店のコンセプトは「Mr Sunday Trip」という仮想の人物が、世界中を旅して、集めてきたものを、時代を飛び越えて自分の仕事場に飾っているといったものです。
お客様には、アンティークな空間を楽しんでいただければと思っています。
当の本人はいたりいなかったりですが。(笑)
私がいない時にいるかもしれないですね。(笑)

お客様にはとにかくゆっくりしていって欲しいと思います。
あとは、私が喋り好きのもあって、会話を楽しんでいって欲しいです。(笑)
私はそんなに沢山のものを作れるわけでは無いので、お客様と話をしながらコーヒーを淹れる空間を作っています。

お店のメイン部分は中性的なイメージで作っていますが、カウンター席の方は、武骨な男の空間を作っています。
1つのお店で違った表情があります。
是非、そういったところを楽しんでいただければと思います。

この場所を通して

私自身がこの辺の地域のファンで、色んな飲食店で顔を出したり、お店の店主に「いつかお店をやりたいです。」と話したりしていました。
やりたいことを口に出していた結果、誰かしらが聞いていてくれて、人を繋げてくれたことで、今こうしてお店を開けています。
私がこういった経験をさせていただいたので、このお店を食事を食べるだけでなく、人が繋がる空間にできればと思います。

“やりたい!”を叶えるヒント

ここまで来るのに、様々な仕事を経験してきましたが、「自分でお店を持って自由に働きたい。」という気持ちは持っていました。
ですが、なかなか自分の中で最後の一歩を踏み出せなかったり、その時々で問題があったりで出来ない日々を過ごしていました。
ある時に、様々なタイミングが重なって、「今だ!」となんとなく感じる時があり、「今動かないと一生このままだな。」と思い、私は、踏み切ることができました。

何よりバランスが大切ですね。
行動した先のリスクを考えた時に、完全にそのリスクを背負って、行動する必要はないと思います。
例えば、「飲食店をやりたい」と思った時に、週2、3から始めても良いと思います。
今は、趣味から始めることもできるので、「やるか」「やらないか」ではなく、もっとグラデーション的に考える。
そして、徐々にやりたいことの比重を増やしていけば良い。
そうすれば、より自分の「やりたい」に近づけると思います。

あとは、あまり深く考えないことです。(笑)
考え出したらマイナス要素は沢山あるので、、、。
一年の短さを考えたら、本当に人生は短いです。
やる気はお金では買えないので、やる気があるうちに行動する。
これが大切だと思います。

プライベートでは

面白い空間のカフェ巡りが昔から好きでした。
時間を忘れて、様々なお店に行くことが好きですね。時間はけっこう気にしてしまいますが。(笑)海外旅行も行きたいなと思います。(笑)

最後に一言

中央通りから入ってきた、小道にお店があります!入りづらいかもしれませんが、是非一度入って来てみてください!

三代食堂である理由|三代食堂 岡部 賢二

自分がやりたいことは

出身は茨城県です。大学進学時に上京をして、4年半ぐらい東京で暮らしていました。卒業後は、茨城に戻って、栄養士の資格を取りました。
このきっかけは、大学時代のアルバイトにあります。

アルバイトは、とんかつ屋で3年働いていたのと、他には居酒屋や、ホテルで働いていました。良いバイト先であったんですけど、とんかつ屋は近所だったという理由でやっていたので、どちらかというと、何となくやっていた感じです。
とんかつ屋では、最初は皿洗いからなのですが、盛り付けや、かつ丼作りまでいろいろなことを任せてくれました。当時は、「すごい楽しい。」と感じていましたね。

大学の後半から卒業に近づくにつれて、大学では全く関係ないことを勉強していたけど、漠然と「飲食店をやりたい。」という気持ちが芽生えてきました。
そこで、食に関してちゃんと勉強したいという想いから、地元の茨城県に戻り、栄養士の専門学校に入り直しました。
結構東京嫌になっちゃって、、。(笑)
殺伐とした感じとか、疲れてしまったのもあって、田舎に帰ろうと決めました。
別に東京に居続けて、資格を取る必要はないと感じていました。

1人の上司との出会い

専門学校の卒業後は、たまたま職場が長野県に決まって、委託給食と言う形で、老人ホームであったり、学校であったり、その場所にあった給食を作る仕事をしていました。


最初の配属は、老人ホームでした。期間は、1年間です。
その後は、約二年間、池田の方にある障がい者施設で食事を作っていました。
そこで1つの出会いがありました。

私の上司は、もともと京都の割烹で修行をしていた方です。
その上司は、「給食業界はなめれられている。」と言っていて、例えば、カレーを作るにしてもレトルトを入れて、食材を入れて完成となる。料理に凝る習慣がなく、技術を向上するという姿勢が見られないんですね。
それで良いんですけど。食べる側も完成度を求めていないから。
でも、その上司はたまたま働く場所がなく、入りやすい給食業界に入ってきたのですが、技術はあるので、給食だけど、給食らしからぬ味を出すんですよね。(笑)
味付けの段階でダシの比率や、味付けの順番など細かく調整していく。
そこで基本的なことを教えてもらいました。
調理師学校時代の勉強を、上司に弟子入りする形で実践へと変えていきました。
その出会いがなければ、今どうなっていたかわからないですね、、。(笑)

オープン前に山小屋に!?

その後は、2017年4月頭ぐらいに会社を辞めさせていただきました。
前職で働いている時には、もうこの物件は決まっていたので、お店を開く準備をしていたのですが、もろもろやっているうちにお金が足りなくなってしまって、、。(笑)
車も売ったりしたんですけど、サラリーマン時代の貯金でお店を完成するには、足りない状態でした。
また、そこで1つの繋がりがありました。

ここ1年ほど「ヒーターズ」というバンドをやっていて、そのギタリストのオーナーが、山小屋を経営していました。そこから「一緒に働いてみない?」という話をもらって、昔から山には興味があったので、2017年の夏に4ヶ月ほど山小屋で働いていました。
ある程度、お店の工事を出来るところまでやって、あとは6月末から4ヶ月山に行って稼いでいました。
山での業務は、基本的に小屋番と言う受付と、料理が出来るのもあって食事提供もしていました。あとは、道直しという作業があって、登山客の方が登ると道がどんどん崩れてきて、危なくなってくるので、その道を石で固定したり、歩きづらくなってしまうのを砂利で埋めたりしていました。
雪が積もっている時は、ベンガラというチョークがあるんですけど、真っ赤な粉を撒きに行ってマーキングをしたりもします。
そのような生活を送っていました。

予期せぬ事態

山小屋に帰ってからもすぐにお店のオープンはできませんでした。
そこからさらに4ヶ月ぐらいかかってしまって、、。
そもそもここの物件の状態が借りる前はひどい状態だったんです。
大体2ヶ月間山に行く前に基礎を作って、その後、山から下ってきて4ヶ月で上やって、キッチン作ってと言う感じで。思ったより時間がかかってしまいました。

ほぼ、全て自分の手でお店を作ったのですが、みんなやろうとしないだけで出来るんです。(笑)
最初は手探りでやっていて、昔の建築誌を見て「こういう感じにしたいな。」というイメージを持ってやりましたけど、出来ましたね。(笑)
会社辞めてからは、工期が半年、山に行っている期間を含めてほぼ1年かかりました。
オープンは4月3日です。

本当は3月27日ぐらいだったのですが、あばらを折ってしまって、、。(笑)
最後の最後で怪我をしてしまって、2週間ほど延ばしてもらいました。(笑)
めっちゃ高いところならわかるんですけど、70cmぐらいの椅子から結構な勢いで落ちて、、。(笑)
死ぬかと思ったぐらい痛かったですね、、。(笑)
でも、オープニングパーティーは、予定通り開催しました。
店内をステージにして、ライブをやったりして、いろんな人が来てくれて。
結局、当日は興奮しているので痛み感じないんですよ。(笑)
それで乗り切ったのですが、オープニングパーティー終わってから病院に行ったら「やっぱ折れています」と言われて。(笑)
オープン前にものすごいださい怪我をしたという。(笑)
忘れられないです。(笑)

食堂、店名へのこだわり

小っちゃい頃から町の大衆食堂みたいなところに連れて行ってもらっていました。
その後、年を重ねていって、上京して学生をやって、そこで通っていたお店の偉大さに気づきました。
上京して茨城を離れた後に、飲食店をやりたい気持ちがあったので、いろんなお店に行きました。
その中で、昔通っていた記憶に残るようなお店を超える店が何1つ無かったんですよ。
本当に1個もないぐらい無くて。


単純に自分の舌が合っているというのもあるんですけど、何年か毎にブームがあって、料理の技術や食材とかの様々な変化があっても、人の味覚に訴えてくるその美味しさは普遍的で変わらないと思っています。
自分にとってそれが食堂で再現できればという想いがあって、自分の原体験が続けられる場所ができたらと思いました。

「三代(さんだい)食堂さんですか?」とよく聞かれるんですけど、三代(みよ)です。(笑)茨城のひたちの方だと名字でよくあって、母親の旧姓も三代(みよ)でした。
そこからきています。もう1つの理由は祖父の魚屋にあります。

私の祖父は、茨城で魚屋をやっていて、昔は築地で働いていた経験があります。
今も、お店はあるのですが、受け継いで、店主をやっていた、母親のお兄さんが10年ぐらい前に亡くなってしまって、今は、お兄さんの奥さんがお店をやっています。お兄さんには、魚のさばき方を教えてもらったり、すごい優しくしてもらった記憶が今でもあります。
店名は悩んでいて、自分の名前を冠するのには抵抗がありました。しかし、魚屋もそろそろ閉めるという話もあって、同時に自分が「継ぎたい。」という想いもありました。
字は三代(さんだい)で、魚屋ではないけれども、祖父、母、自分で三代目という意味もありますし、三代(みよ)という姓を継ぎたいという想いはすごいあって店名に込めました。

1人で来られる空間作り

自分が落ち着ける場所がすごい欲しいなという気持ちがありました。
茨城や東京にいたときになんとなく落ち着ける場所の条件が、“ちょっと暗めで”“外からあまり見えないけど、外の景色は見える”
そういうお店だと「入りやすいな。」という気持ちになって。

1番優先しているのが、お1人様、もしくは、お2人様の席が一番良い位置にあるという事です。


1人でふらっとごはんとか食べて、リラックスできる環境が良いなと思っていて、なにもしらない店に対面式のカウンターだとちょっと緊張したりするじゃないですか。
お店の人は、喋り慣れているから良いのかもしれないけど。
それを解消するためのスペースを作ってます。
1人用のカウンターは対面式ではなく、外が見える特等席。
「自分だったらどういう店に居続けたいか。」を基本のベースにはしています。

自分がやっている音楽の要素もお店に反映させています。
ミクスチャーというか、音楽だとビートルズの後に出てきたプログレシブロックという60年後期から出てきた音楽が好きで、音楽だけでなく芸術とかとかをまぜこぜにしているものです。もともと分析が好きで、音楽もいろいろ混ざっていると楽しいんですね。建築とかも昔の雑誌と今の雑誌を見比べたり。一見合わなそうなものも混ぜて、お店作りはしていました。

私のプライベート

ずっと音楽をやっているので、その繋がりが今、面白いと思っています。バンドもそうですけど、ソロでもやっていて、三軒隣の「Give me little more」が面白い外国のアーティストを呼んだり、たくさんライブもやるので、すごいインスピレーションが湧く場所になっています。
ソロの時は、結構めちゃくちゃなライブをします。(笑)エフェクターを使って、カリンバと言う民族楽器があるんですけど、どんどんループしていって、、、。
いろいろあるんですよ!(笑)ちょっと説明しづらいので会場に見に来てもらえば!(笑)

最後に一言

これから毎年店を2か月ぐらい閉めて、山小屋に行くと言うサイクルをやっていきますが、うちの店を忘れないでください!!(笑)

ここまで来れた一つの想い|CAFE THE GROVE 由比ヶ浜 秀嗣

いつも見ていた親の姿

出身は長野市です。小学校の時に松本市に引っ越しました。その後、大学進学を機に神奈川へ行き、大学卒業後は二年ぐらいイギリスへ行っていました。
イギリスから長野へ戻ってきたタイミングが、ちょうど冬季オリンピックの時だったので、オリンピックのお伝いをしたりしていました。それから飲食の世界に入った流れです。
もともと親が今、お店をやっている場所でラーメン屋をやっていたので、飲食には小さい頃から馴染みがありました。その為、親の姿を見ていたからなのか、飲食に対しては構えるものは無かった記憶があります。

自分が好きなこととは

大学卒業後は、親のラーメン屋を継ぐつもりは全く無くて、サラリーマンするつもりでした。
就職活動はちゃんとしてはいましたが、「自分は何をしたいのだろう。」を整理していった時にサラリーマンになることに違和感を覚えたことも確かです。
そこで大きな影響を受けたのはイギリスへ行った経験でした。

イギリスへ行く目的は、英語を覚えることでした。
ですが、生活している中で、イギリスは見たことのない様々なお店があって、「こういう店カッコ良いな。将来的にこんなお店を持てたら良いな。」と漠然と思うようになっていました。
こういった気持ちを感じていた中で、「何したいのかな。」といろいろ考えた時に、「人との繋がりが自分は好きだな。」と感じていました。人と話したりといったことです。
実際に、いろんなものを見て、経験することで気持ちの変化が起きてきました。
最終的には、自分でお店を開いても面白いのかなという気持ちはどこかにあったと思います。親を見ていてというのもありますけど。
その中で、「最終的な目標が見えているのならば、最初からやっても良いのではないか。」という想いが出てきました。
これが飲食に飛び込むきっかけです。

一番幸せな手段

この人の繋がりを感じたのは、大学時代のアルバイトです。
レストランや、ホテルの配膳の仕事の飲食関係やお土産屋さん、ガソリンスタンドも経験していました。
“人の繋がり”だけを考えた時に、極端な話、飲食でなくても良かったかもしれません。
ガソリンスタンドでも人と関わることが出来て、どうコミュニケーションとるかを考えながらやることに楽しみを感じていました。
そう考えると、売っているものが違うだけで、接客という意味では同じです。

それでもなぜ飲食なのか。自分自身が食べるのが好きだったし、とにかくコーヒーが好きだった。人と繋がる仕事を考える中で、「どうせなら好きなことをツールに仕事にしたい。」と思うようになりました。
より自分が楽しめる。

飲食人生の第一歩

実は、親のラーメン屋を一度継いでいます。飲食をやるにしても経験がないといけない。そこで親のラーメン屋を継ぎました。

さらに、もう一店舗出す時に自分のやりたいコーヒー屋をやろうと決めていましたが、結局コーヒー屋をやるにしても、自分はずっとラーメンを作り続けなければならないし、「これはダメだ!」と。(笑)
コーヒーのアイデアはどんどん出てきたけど、ラーメンのアイデアは出てこなくなってしまった時期でした。
とはいっても、お客様からお金は頂いているので、このような気持ちでお店を続けるのは、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
自分で作ったものを潰すのは良いですが、親が作ったものを潰すことはしたく無い。
であれば、惜しまれつつ閉店という形を取りました。

しかし、その当時は大人という大人に猛反対されました。

開店までの大きな壁

「せっかくお客さんが入っているのにどうしてコーヒー屋にするの?」
「コーヒー屋なんて儲かるはずがない。」
会計士、銀行、両親、周りの人から猛反対です。
銀行の人にはコーヒー屋をやらない方が良い理由のレポートも出されたりして。(笑)
それは結構きつかったです。(笑)
でも、そのままでは悔しいので、次の日にはどうしてやりたいのかというレポートを銀行に返しました。(笑)
その当時は仕事しながら、銀行を説得して、会計士さんを説得してと、走り回っていました。

でも、ある時から「こういう事出来ますか?」「できますよ。こういう事も出来ますよ」のように、自分がボールを投げたら2つ3つになって返ってくるようになってきました。そうなると自分の中で導かれているのではないかと感じる部分もあって、根拠のない自信、勘違いとも言うんですが、、。(笑)
上手くいく気が何となくしていました。
でも、今、同じことをやろうと思ったら本当に嫌です。(笑)

辛くてもやり続けられた理由

やっぱり、「ただただ、コーヒーが好きだった。」
これにつきます。
コーヒーは子どもの頃から好きでした。コーヒー牛乳から始まって、次は、ミルク、砂糖を入れてと、ずっとコーヒーは好きで飲んでいました。
これは、親の影響もあります。親がコーヒー好きで家に常にコーヒーがある状態だった為です。
コーヒーが好きで調べていくと、いろいろ見えてくるものがあって、「コーヒーって奥深い」「面白い」と感じるようになりました。

コーヒーから生まれた違和感

ある時からただ、コーヒーを飲むだけではなくなりました。

単純に飲み物として面白いし、視点を変えてみると、生産国からは稼ぐ重要なモノになる。
当時、フェアトレードという言葉を良く聞く時代でした。
なんとなく自分の中で、それはチャリティーと同じ感覚があって、言葉自体に違和感を覚えていました。オープンしてからも考えていたことの1つです。

ある時に出会ったのが、コーヒーハンターと呼ばれる川島良彰さんの記事でした。
その記事を読んだ時に、「これだ。」と思うものがありました。
その記事には、「フェアトレードは一過性の側面が強く、お金持ちの国が貧しい国を支える構図が見える。そうなると、常に生産国は貧しくないとならないよね?」という問いでした。これを読んだ時に、モヤモヤが取れて、この記事が自分の想いがうまく言語化されていると気付きました。
美味しいモノを作っている生産国にはちゃんと対価を払わなければならない。
そして、最終的にコーヒーをカップにした時に、お客様が「美味しい」と飲んでもらう。中間業者、焙煎業者、消費者も泣くことが無く、コーヒーを通してみんながハッピーになる。こういった持続可能な世界が作れれば、みんながハッピーになれるよねと。
フェアトレードはもちろん良いと思っています。ですが、1つのきっかけにしかならないと感じていて、より一歩進んだ時にそれが持続可能になればよりハッピーになれると思います。生産国を貧しく位置づける必要は全くないと思いますし。

お店に散りばめられたこだわり

このお店は、以前のログハウスのラーメン屋がベースになっています。
店づくりのコンセプトは、男の人も気軽に来れるお店です。


カフェは女性が行く場所というイメージが少なからずあると思っていて、そうではなくて男の人も気軽に行ける場所が作れればと思っています。
“木”“レザー”“鉄”をキーワードにして、男ぽっさをアピールしたいと思っています。

例えば、お店の入口も鉄骨を使っていて、この色にはすごいこだわりました。
イメージの色味を出すために一回酸のプールにつけなければならなくて、関西に鉄骨を持っていって作ってもらいました。(笑)
そういったこだわりが店内に散りばめられています。
床もあえて隙間を空けているように、洗練されているよりも、武骨な感じを作りながら、隙がある不完全さを出しています。

隣には、ビーンズショップがあって、土蔵を使っています。
もともと祖父が管理していた建物で、よく言っているのは家の形をしたゴミ箱状態でした。当時、祖父がなんでも入れてしまっていたので。(笑)
それを1人で分別して、ごみを捨てに行ってというのを続けて、お店に使えるようになりました。
松本は蔵の街で色んな場所に残っていますが、うちの蔵は雰囲気が全く違います。
外見は当時のままですが、中を完全に洋風に振って、内と外にどれだけのギャップを作れるかを意識して作っています。蔵なのにシャンデリアがあります。(笑)

お客様の物語を感じる

オープンして12年目になります。
12年間お店をやっていると、結婚してなかった人が結婚しました。子どもが生まれました。といったようにお客さんの物語がどんどん進んでいて、一緒に共有できるというのは面白いと感じています。お店も成長していきますが、お客さんと一緒に歩んでいるんだなと実感しています。なので、お店としてもどれだけお客さんの傍らにいれるのかというのは同時に考えます。
入籍した日にお店でご飯を食べてくれた人が、毎年結婚記念日に来てくれたりして、そういうことがあるとやっぱり嬉しいです。
新しい出会いがあれば、転勤でいなくなってしまうお客さんもいますが、お客さんの物語を、お店をやりながら感じています。
今日も子連れの家族が来店してくださいましたが、「次は子どもが1人で来れるまで続けられたら良いな。」とか思いますね。

私の逸品

今までいろんなコーヒーの種類を扱ってきてそれぞれに思い入れはありますが、その中でも特にタンザニアに思い入れがあります。

それは、自分が一番好きなコーヒーだからです。人間って正直で自分が好きなコーヒーを淹れていると、普段より勝手に力が入ると言うか、「この豆のもっと良いところ引き出してやろう。」と無意識に思ってしまいます。
もちろん全部の豆をそう思っているのですが。(笑)
コーヒーの仲間を作っていて、他の焙煎業者の方にもタンザニアは好評なので、是非飲んでもらえたらと思います。

私のプライベート

バイクに18歳の時から乗っています。ずっと直しながら、同じバイクを20年間乗り続けています。湘南爆走族読んでいました。(笑)
今の時期だとビーナスラインが気持ち良いですね。
普段、お客さんとお話しさせていただいているので、休みの日は一人の時間を大切にしています。多くこういった時間をとれるわけではないですが、意識してとるようにしています。
バイクは一人で行って、走ってとすごく良い時間になっています。

最後に一言

「コーヒーを通して、生産者からお客様まで皆がハッピーに!」

この願いを込めて、カフェ、ビーンズショップともに営業しています!
是非、足を運んでください!