みんなのイルカラ #1 焼肉ハウス「大将軍」

みんなのイルカラ #1
焼肉ハウス 大将軍
もうすぐ広島転勤 さん 20代 男性

先日は、イルカラで掲載されていた記事を見て、焼肉ハウス大将軍へ!

「美味しいお肉が食べたい。」
その日は彼女の誕生日でした!

リクエストを聞いてすぐに「大将軍に行くしかない!」と意気込んだのですが、
初めて行くお店だったので少々緊張しながら、20時頃お店へ。
店内はとっても賑わっていました!

美味しいお肉は大満足!!胃もたれも全くしない!!


それはみなさんご存知かと思うのですが、接客していただいた店員さんが何より印象的でした!例えば、お肉をただテーブルへ持ってくるわけではなく、
自分の経験を踏まえて提案してくれたりと、とにかく会話会話会話!

また、隣で食事をしていたお客さんには会話を楽しみながら、
その中でさりげなく合うお酒を勧めていたりと、
お店の人とお客さんの関係を超えた関係性がこのお店にはあるんだと食事をしながら感じていました。

美味しさはもちろん、この接客があったからこそのの大満足だったと、
フムフムと帰路につきながら勝手に納得していました!笑

店員さんとの会話の中では他店さんから勉強したことをお店に生かしていく姿勢や、接客、食に対するこだわりをダイレクトに伝わるお話を聞くことができました。
大将軍で上質な体験が出来る裏には常にお店として向上していく姿勢がしっかりとあるのだと感心しました。
これは、飲食だけでなく自分自身の仕事にも置き換えなければならないなと、、、。
勉強しました、、、。

とにかく大満足!!!!
お昼はランチもやっているそうなのでまた違った楽しみ方もできそうです!
また、行きます!!!

アメリカで見た景色|The Source Diner 安達 真

アメリカへの憧れ

アメリカに憧れるきっかけになったのは、映画だと思う。あと、ちっちゃい頃やっていたアメリカのドラマ。ナイトライダーとか特攻野郎Aチームとか。(笑)映画、ドラマを見ていたのが原体験だと思う。ナイトライダーって車が喋るのよ。悪い敵を倒すんだけどそいつがすごい車なの。「アメリカってこんな車あるの?」って。アメリカに対する憧れに繋がったと思う。アメリカや西洋に対する憧れは自然と刷り込まれていったから。「いつかアメリカ行きたい。」って。アメリカに対する想いはずっとあった。

アメリカで見た景色

人のフランクさとかをマネしたいというか、そうありたいとは思ったかな。日本だと特に従業員とお客さんって立場になるけど、アメリカは対等なの。日本はお客さんが神様だって思っている人たくさんいるだろうし。うちに来る人はあんまりそういう人はいないんだけど。俺が偉そうだからだと思うんだけどさ。(笑)アメリカだと必ず挨拶があるわけ「Hi!」「Hello!」とか。ほぼ挨拶から始まるし、日本みたいにどこ見て言ってるかわからない「いらっしゃいませ」に対してお客さんって「どう返すの?」って話じゃん。だから、俺はあの言葉が嫌いで必ず挨拶をする。まず挨拶から始まって、目を合わす。それが大切だよね。

当時、お店の奥にキッチンを作ることにしていたんだけど、内装をやってくれた友人に「やっぱりキッチンの位置変えたい。」と相談をして変えてもらった。奥にキッチンがあった方が、ストックルームが近くにあったりと便利は便利なの。でも、席が遠いお客さんと触れ合うことが無い。それが嫌だったんだよね。

日常と非日常

お店にずっといるわけでは無いので、街に出るじゃん。自分の生活している街に出る。その時に気持ち良いかどうかは大切。僕らよく旅行行きますと。みんなも旅行好きじゃん。なんで好きかというと色々な理由があると思うけど、日常から非日常に行きたいわけじゃん。そういうものが楽しくて行く。だけど、旅行行かなくても自分の街がそういう街であれば別に毎日生活していて、日常と非日常を行ったり来たりできるようになるなと思っていて。もう無くなっちゃったけど、ニューヨークで働いていた「The Adore」ってお店があるんだけど、The Adoreに関しては俺の日常だったわけ。でも、日本に帰ってきてしまえば完全に非日常だし、働く前も非日常。「俺、ニューヨークのカフェで働くのか。」とんでもない高揚感と緊張と不安。それが働いてしまえば日常になっていったわけ。


アメリカにいた時はよく国内旅行をしていて、サンフランシスコのTriesteに行ったときにそこにいる人ってこのお店に行くことが日常でしか無いわけ。俺だけ非日常でそこにいた。その交錯している感じがすごく良かったし、「その人たちの日常に溶け込みたい。」ってすごい思ったの。そんなこと出来ないんだけど。「こんなお店があるなんてすごい素敵な日常じゃん。」って。

街の日常

お店にはオシャレな人だけでなく、どんな人が来てくれても良い。でも、横柄な態度だけは許さない。俺はあなた達と対等だし、俺のお店のルール内で楽しんでくれればそれで良い。ここは他人の家だから。「他人の家行くときになんで自分のルールを持ち込むの?」って。
逆にオシャレな人しかいないのは嫌なのね。というのは、街の日常になっているカフェや、飲食店って色んな人がいるわけよ。若い人もおじいちゃんもいる。お店もカッコ良いんだけど、カッコつけたカッコ良さじゃ無いのよ。こういう絵がすごく好きだから、お店としてこうありたいと思ってるね。

当初、オープンしてすぐは若い人しか来なかったのね。でも、少しずつ色々な人が来てくれるなという実感はある。でも、これは10年20年やっていないとそういう絵にはならないし、難しいよね。おじいちゃんおばあちゃんが日々使うお店ではありたい。でも、うちはコーヒーだけとかやらないから日常使いはできないんだけど。

たまに近所のおばあさん3人が来て、「今日なにあるだ?」「メニュー見てください。」みたいなやりとりはするね。あの人達何にも見ないから(笑)めんどくさいなって思うんだけど、それがまた面白かったりするんだけどね。見ようとしない。全部聞く。(笑)でも、これは俺がやろうとしてたコミュニケーションだよなって気づいたりする。めんどくさいからメニュー置いといて聞くだけにしているわけだから。おばあさんは俺が忙しくても関係ないの。「何があるだ?」って聞いてくる。でも、これが本来の姿であって、「わからないことがあれば聞いてください。」ってスタンスだけど、出来ていないのに気づかされる。改めて「あっそうか。」って。

「抱きしめてあげなければダメだよ。」

誰に対して商売をしていくかは一番難しいところかなと思ってる。やっぱりマスに向けて商売しないと成り立たないと思っているから。でも、マスの人たち誰でもウェルカムはやりたくない。俺は俺のカッコ良いと思うことをやりつつ、その人達にもアプローチする方法を探らないといけない。例えば、「売れていないインディーズの時の方がカッコ良かったよね。」って言う人いっぱいいるじゃん。メジャーになってやめる人もいると思うけど。でも、「売れてお金稼いでなにがダメなの?」って思うの。昔のファンが離れることは残念かも知れないけど、でもあなた達よりお金くれるんだよって話で。自分のポリシーから外れたことをすることでこんなお金ってもらえるんだって。そのバランスだと思うんだよね。

でも、実際来てくれるお客さんって当初想定していた友達より、そうじゃない人達の方が圧倒的に多いのよ。このお店が好きになって来てくれる人の方が来店頻度は高いし、そういう人っていわゆるマスの人達。だけど、こういう場所に引っかかってくれる。世の中にはもっと入りやすいお店だったり、めんどくさくないお店って沢山あると思うけど。俺はルールを逸脱するとすぐ不機嫌になるから。(笑)でも、それをクリアしてくれればすごいウェルカム。

少し前に心に響いた言葉をもらって、名古屋の「EARLY BIRDS BREAKFAST」や、「Circles」っていうお店をやっている社長さんの言葉。「お店なんて入りづらくて良いんだ。だけどその門を開けて入って来た人に対しては抱きしめてあげなければダメだよ。」って。門を開けるのにすごい勇気を持って来てくれてる。「入りづらい。」ってよく言われるし、「なんのお店かわからない。」って言われる。だから一見さんってほとんど来ない。何かの情報を持っている人がやっと来るお店だと思っている。その言葉を聞いたときにハッとして。そうだなと。

飲食業を変える

飲食業って底辺だと思っていて。働きたくない職業ランキングでもコンビニ店員と並ぶぐらい。本当にそう思っていて。昔は、独立したら儲けられるという夢があったみたいだし、料理人も腐るほどいるっている感じだったみたいなのね。人の流動性は早かったと思うんだけど、地位が上がっていくと給料も貰えるし、独立すれば豊かな生活が送れる構図があったんだけど、今は違う。飲食業に人がいないし、どこも人が足りていない。


24〜27歳のときに働いていたニューヨークのお店は日払いだったんだけど、余裕があったの。週2日休めたし、1日8時間ぐらいしか働いていない。これが俺のキャリアのスタート。日本帰ってきて東京で働いたお店は、時給790円だよ。多分東京の最低賃金だと思うけど。時間もやけに長いじゃん。週1しか休めないし。ほんと嫌だったの。当時の料理長もボロボロになって働いていたし、子供が生まれたばかりだったのに子供とも会えないとか。何をしているんだろうという感じ。「早くアメリカ帰りたい。」って思ってた。毎日ね。

もっと頭使えばお金もらえるはず。でも、現状に疑問を感じない人がほとんど。思考停止しているんだと思う。飲食業の人が地位が低いままなのは嫌だし、変えたいと思っているから。自分のお店は休みはとるし。それでも稼働している時に稼げば良いから。なかなか上手くいかないけどね。ちゃんとやっていれば俺らみたいに休んでも稼げるんだよって示さないと、自分のお店を持ちたいっていう人もいなくなっちゃう。俺よく「生まれ変わったら飲食業やらない。」って言ってるんだけど、大変だもんやっぱり。日本の飲食業の人達が思考停止しているのに物申す為に俺は休む。それ言いながらも俺が稼いでなかったらカッコ悪い。カッコつけていて、稼げないのが一番カッコ悪い。休んでて火の車じゃんってなったらダメなのよ。だから店が稼働している時に、お客さんがバンバンくる、休む時は休むって状況がなければならないんだけどね。難しい。日々考えていないとね。

負けたくはないよね。少なくとも松本の店では一番でいたいし。ナンバーワンよりオンリーワンって言葉があるけど、ナンバーワンじゃないと意味ないでしょって思うから。

心に響くこの一盃|岩波酒造 佐田 直久

将来の姿

出身は新潟県新潟市です。小学校低学年の時に、父親の転勤の関係で東京へ。中学校へ上がるタイミングでまた新潟へ戻って来ました。大学進学時は、特にやりたい事は無く、東京への憧れだけでした。一人暮らしの為に大学へ行ったようなもんです。学生時代はギターが好きでバンドをやっていました。フォークや歌謡曲に始まり、Kiss、ローリングストーンズなどのロックからパンクロックもやっていました。自分たちのオリジナル曲を作って渋谷の音楽ホールでライブもやりました。
音楽と並行してやっていたのは合気道です。社会に出るにあたって自分の精神面も鍛えなければならないと思い、武道を始めました。4年間部活を続けて、黒帯の2段まで取ることができました。

自分の仕事とは

就職の時期では、やりたい事、行きたい会社はありませんでした。とりあえずどこかの企業へ就職しようと思っていました。結局、地元の新潟へ帰り、金融系の会社へ就職します。当時は、特にやりがいを持って働いていたわけでは無く、お金をもらう為に働いていたような感覚です。最初の配属は、高崎店でしたが、5年目での初めての転勤が、長野県松本店でした。生まれて初めて松本にきました。松本で仕事をしながら、「なんていい所なんだ。」と思っていました。日本全国様々な場所に住んでいましたが、松本には他とは違う魅力を感じました。空が綺麗、川が綺麗、山も、花も綺麗。「ずっと住みたいな。」と強く思いました。
この会社には7年ほど働いていました。

当時、住んでいたアパートの隣人と仲良くなり一緒に遊ぶ機会が多くありました。その方は友人が多く、家に集まって食事をしたり、スポーツをやったりという場に招き入れてくれました。その当時は、お酒がそれほど好きでは無かったのに、仲間たちと話をしながら飲むお酒は「本当に美味しいな。」と感じていました。同時に、自分の姿を見ると「こんな人生で良いのかな。」と自問自答するようになりました。周りの人達は子供がいたのですが、僕ら夫婦にはなかなか子供を授かることができませんでした。その時に思ったのが、「もし子供がいて自分の仕事を聞かれたら胸を張って言える仕事ではない。」そう思いました。心から打ち込める仕事をやりたい。そう強く感じました。であれば、職人だなと。今では酒造りの仕事に就きましたが、醤油や味噌でも良かった。とにかく一つの事に一生懸命打ち込める仕事をしたかった。この気持ちに尽きます。ですが、漠然とした想いだったので、ハローワークへ行ってもなかなか仕事がない状況で、途方に暮れかけていたことがありました。

最後の望み

転職先を探していましたが、なかなか「これだ。」という仕事が見つかりませんでした。でも、その間にも家賃等の支出はある。自分の望みが叶ったわけでは無いですが、工場の仕事が決まりかけていました。ですが、心のモヤモヤは消えず、最後に一度だけとハローワークへ向かいました。そこに待っていたのは、岩波酒造の酒造りの求人でした。見た瞬間「これだ!」と。今までの酒造りは新潟の杜氏(とうじ)=越後杜氏が蔵人を連れて秋から春にかけて1年分のお酒を造るスタイルでしたが、自社社員でお酒を造ろうと方向性を変えたタイミングでした。秋から春は酒造り、その他は営業、配達といった業務内容です。最初は右も左もわからない全くの異業種で大変な時期もありました。


ですが、辞めたいと思った事は全くありません。「良い仕事を見つけることができた。」それだけでした。どの仕事だって、どの役職だって苦労があるのは当たり前。どんどん仕事を任せてもらうことが本当に嬉しかったです。ある時、1人で仕事をしているときに、涙を流したことがありました。「本当に良い仕事を見つけて良かった。」と。やりたい仕事をとことんやれるという事は本当に幸せだと思いました。そして、さらに幸せな事がありました。なんと、子宝にも恵まれたのです。

杜氏一年目

蔵人の中でも責任者を杜氏(とうじ)、その下に頭(かしら)といった役職があります。私には「やりきる。」といった強い気持ちと覚悟があったので、掃除だろうが洗濯だろうがどんな仕事でも一生懸命やっていました。この酒造りの世界では、1人前になるまでに最低15年かかると言われていました。杜氏と頭が担当者を決めていくのですが、その姿をちゃんと見ててくれていたんだと思います。ちょうど15年目に杜氏に任命されました。新潟から杜氏がくるスタイルから歴史が変わる瞬間です。大きなプレッシャーを感じました。良いお酒が造れるか不安で夜も眠れない日々でした。

1年目はとにかく怪我しない、体調を崩さない、やり切ることを目標に据えていました。無事1年間務めることができましたが、その結果、無難なお酒ができてしまった。品評会へ出品しましたが、評価はされない。他の蔵のお酒と飲み比べて「これではダメだ。」と悔しい想いを抱きました。長野県には約60の蔵があり、60の杜氏がいる。当時1年目でしたので、「自分が一番下っ端なんだ。一番下手くそなんだ。」と割り切り、誰よりも頑張らなければならないと、自分を鼓舞していました。

美味しいお酒を

「なんとか賞を取る。」と決意し2年目が始まりました。ですが、ある時「賞を取るよりも普通に飲んで美味しいお酒を造ろう。」と意識が変わり、その瞬間に心がすっと楽になりました。もし賞が取れなくても自分が全ての責任を取れば良い。それが醪(もろみ)にも伝わったのだと思います。9月の長野県清酒品評会でまさかの首席優等賞を受賞!長野県一位です。岩波酒造初の快挙でした。

恐らく長野県中の蔵が驚いたと思いますし、何より自分が一番驚きました。(笑)10月には国税局の関東信越鑑評会があり、それも長野県一位。ダブルで長野県一位です。本当に驚きました。もともと新潟の先輩が培ってきたやり方や教わったものがベースになっていて、それに私の少しの工夫、周りの努力が掴んだ賞だと思っています。

心に響くこの一盃

お酒は人の心に響くものだと思っています。飲んで心が温まる。悩んでいることが小さく思えたり、言えないことが言えたり、精神にも届くものだと思っています。この世の中は色々な人の頑張りで成り立っています。そういった人に美味しいお酒を飲んでもらって「明日も頑張ろう」と前を向いてもらう。そういった人が増えればもっと社会は良くなるのと思っています。自分にとって酒造りは一つの社会貢献です。

プライベートの私

休みの日にはギターを弾いたり、サイクリングをしています。きれな風景を撮ってSNSに上げています。以前、友人がきのこ鍋を作って振舞ってくれた時に、その美味しさにものすごく感動しました。それから山に入ってきのこを取り、食べることも趣味の一つです。
今は辞めてしまいましたが、岩波酒造に入社してから、旨い酒を造るには強く正しい精神と肉体も必要だと思い、空手を習い始め、黒帯2段までとりました。音楽を楽しむ、運動する、自然と親しむ。そういった感覚が五感を研ぎ澄まし、心に響く酒を造る事に繋がるのだと思っています。

佐田杜氏のブログで日々の酒造り様子がチェックできます!
■杜氏のブログ 心に響くこの一盃

壁を乗り越えた先に|四季旬菜酒場「壱」 山田 一世

現実とのギャップ

出身は松本です。学生時代は、小学1年生から野球漬けの日々でした。中学3年生の引退の頃には野球推薦で進学する高校が決まっており、高校入学式前から内定している県外の高校へ入寮し、練習も参加していました。ですが、直前で入学取り消しがあり、一転、県内の高校へ入学することとなります。その後、もちろん野球部に入部しましたが、1年生の夏に退部の決断をしました。県外の学校ではない事にモチベーションが下がってしまった事や、自分が目指したい場所とチームが目指している場所のギャップがありました。この時期はずっと悩んでいましたね。全てのことが嫌になってしまった。学校に行くことも、野球をすることも、、。野球をする為に学校へ行っていたので、難しい時期でした。
この時期に食と携わるきっかけがあります。

卒業後の進路

野球を辞めてから目的も無く学校へ行く毎日。そんな生活の中、バイトをしようと求人誌を開きました。祖母が調理師免許を持っていて、家で料理を手伝っていた経験もあり、昔から食には馴染みがありました。そんなこともあり、数ある求人の中からラーメン屋を選びます。週6、7でバイトしてましたよ。(笑)


ですが、ある時店長が急にいなくなってしまう事件が起きました。いつも通り出勤するとお店の鍵が開いていない。本部に電話したところ「今日は閉めて。」と。それからこのお店では働く事が出来なくなりました。高校生でしたが、ほぼ日中バイトをしていたので稼げないのは困る。その時ちょうど知り合いの出している居酒屋が求人を出しており、新たにバイトを始めることとなります。
高校卒業後は、飲食以外の職種を考えていましたが、飲食店の楽しさに惹かれ、バイト先を運営している会社に就職することとなります。

経営の難しさ

居酒屋では主にキッチン業務を担当していました。1つのお店でずっと働いていたわけではなく、グループ内の様々な店舗で働いていました。労働時間は長いし、給料は安いので心身共に辛い時期はありましたが、毎日成長できる場所でした。出来ない事が出来るようになる。お客様が感謝をしてくれる。それが原動力になっていました。この会社では2年ほど働き、退職を決断します。当時は「自分のお店を持ちたい。」という気持ちはありませんでした。

次に選んだ道はラーメン屋でした。北海道のラーメン屋でしたが、松本に出店する事が決まり、経験のある僕に話が舞い込んで来ました。店長業務です。本当に辛かったです。経営について意識しなければならない立場になったので、お客様に喜んでもらう事だけを考えていた以前とは全く異なる世界でした。
また、給料が出ない時期もあったので、貯めていたお金でなんとかやりくりするような状況でした。なので、酒に逃げるか、今の状況を愚痴るか。そんな状況でした。休みは無いし、給料も出ないし、挙げ句の果てに北海道へ異動になるしと、体力的にも、精神的にも大変な時期でした。
1年ほど働いていました。

先輩の姿

その後、60席ほどある豊科の居酒屋で4年弱ほどお世話になります。高校卒業後、働いていた居酒屋の店長が「自分がスタートした場所。」ということでこのお店を紹介していただきました。きっちりとした和食を出しているお店です。今までのお店は全てがマニュアル通りでしたが、このお店は何も決まっていないので、自分でお皿を選んで、盛り付け方を決めてと真逆のお店でした。今までの飲食人生の中で一番勉強しましたね。本を買って、他のお店へにも積極的に食事に行きました。今までのように全てやらせてもらえる環境では無く、技術が無ければやらせてもらえない。社長が板場をやり、先輩が揚げ場。僕は主に補助の立場でした。とにかく先輩に追いつかなければならない。この気持ちだけでした。


最後の2年ぐらいで社長が担当していた板場を任されるようになりました。自分で献立を組んで宴会をこなしてと、やれることの幅は確実に増えていきました。当時、22歳の時です。
社長の考えは「同じお客さんに、同じ料理を出すな。」ということでしたので、予約の年齢層、男女比、常連なのか新規なのか。色々なことを考えて、メニューを決めていました。しんどい時期は何度もありましたが、この経験がなければ独立の想いは絶対に生まれなかったと思います。

開店までの壁

とにかく「自分のお店を持ちたい。」という気持ちが強かったです。失敗のリスクの方が考えましたけど、失敗して借金を背負っても返せるなと。死ぬほどのリスクでは無いなと思っていました。ですが、開店まではスムーズにいかずいくつもの壁が待っていました。特に人材、店舗探し、融資の面です。人材に関しては、一緒にお店をやる予定だった人が「違う業種にいきたい。」ということで、また0から一緒にやれる人を探さなければならない状況になったこと。


店舗探しでは、以前働いていた飲食グループの1つのお店が空くとのお話をもらって、その場所で開店することを考えていました。ですが、直前になって大手他店に先に契約されてしまった。一緒にやる人もいないし、この時点で独立を諦め、前のお店に戻ることもできたのですが、それはかっこ悪い。その時に、1人でお店をやることを決めました。なので、物件も想定していた席数の半分ほどで探し始めました。
融資では、年齢の若さもあって、門前払いで話を聞いてくれない銀行もありました。商工会議所にも相談しましたが、「厳しいのではないか。」といったお話しかできませんでした。たまたま知り合いの方を通して、ある銀行の支店長とコンタクトを取れる機会を得ました。その場でアドバイスを頂き、それからやっと話が進んでいきました。
困難なことは本当に沢山ありましたが、ここまで来たら、やり切るしか無い。見返してやりたい。その気持ちだけでした。

何か変えなければ

ついにオープンです。オープンから最初の時期は、知り合いがきてくれたり、新しいお店目当てに来店されるお客さんがいたりと忙しくさせてもらっていました。ですが、ある程度の時期が経つと暇な日が出始め、大きな不安を抱える毎日でした。当初思い描いていたイメージとは全然違いました。


ですが、駅から離れた場所なのに僕がいるからきてくれたり、僕のお店が好きで来店されるお客さんもいらっしゃいました。その方達の「また来るね。」「美味しいね。」の一言があったから辛い時期も頑張れたと思っています。何かを変えなければならない中で、1年程で移転を決めます。
移転後、お客さんの層も変わりましたし、宴会も取れるようになってきました。メニューもガラッと変わりました。振り返ってみると、1年目の自分はカッコつけていた部分が多くありました。周りが老舗が多く、綺麗な料理を出しているお店が多くあったので、「負けたく無い。」という気持ちで、お客さんに向き合うというよりは、他店を気にしてメニューを作ってました。移転後は、仕入れ先を変えるようになって、食材にもよりこだわるようになりました。シンプルにお客さんのニーズと向き合うようになった結果、自分が出したいものとのギャップがあることに気づいたんです。

今、美味しいものを

大切にしていることは、自分が現場に立つことです。僕がいるから来てくれるお客さんがいる中で、その期待にはしっかり応えなければならない。お客さんの表情、会話などは現場にいないとわからないことです。自分で聞いて、自分で見ることは大切にしています。
また、シンプルに美味しいものを提供したいと思っています。日本は四季があるので、その時美味しいものを食べてもらいたい気持ちが強いです。お店のロゴにも春夏秋冬をモチーフにしたロゴを採用しています。今、旬が無くなってきている食材もあります。夏野菜でも、技術の発展で冬にも栽培できるようになったり、気温上昇によって冬の魚が春に捕れたりといったことです。今美味しいものを提供することを心掛けています。


育成にも力を注いでいます。働いてくれているスタッフが成長できる場を作りたいと思っています。自分自身が先輩に育ててもらったからこそ独立できた想いがありますし、業界をみても若い人が少ない。「自分のお店を持ちたい。」想いを持ってくれる人を1人でも増やせればと思っています。そういった熱い想いを抱えている若い人達で松本を盛り上げたいと思っています。

私のプライベート

海外に行きたいです!暖かいところが好きなので。グアムには毎年行っています。やっぱ良いですね、、。(笑)老後で良いので、暖かいところでお店を持ちたいと思っています。(笑)
野球は今でも本気でやっています。(笑)企業さんのチームが出るような高いレベルのリーグで戦っているので、いつでも本気ですね。(笑)

ルーティーンの意味|FIFTY-ONE COFFEE 佐藤 等

私のルーツ

生まれた場所は仙台です。ですが、父が転勤族だったので、ほんの少ししか仙台にはいませんでした。仙台での記憶はほとんどなく、住んだ期間が長いのは愛知県ですので、出身は愛知県と言っています。
小さい頃から野球がずっと好きで、愛知県に住んでいたこともあり、中日ファンでした。父は巨人ファンですが、、。(笑)ごく普通の学生生活を送り、高校卒業後は、環境問題に興味があったので、関東の大学に進学しました。
当時、コーヒーや食の仕事をすることは、全く頭にありませんでした。

衝撃の1杯

コーヒーに興味を持ち始めたのは、大学時代です。とんでもなく美味しいコーヒーに出会ったんです。(笑)卒論を書くために研究室にこもっていた時でした。その大変だった時期に、1つ上の先輩がコーヒーを淹れてくれ、その1杯が超美味しかった。

「これなんですか!?」と聞くと、その先輩はドリップでコーヒーを淹れてくれていたのです。衝撃を受けましたね。それまで缶コーヒーやインスタントコーヒーは飲んでいたのですが、この1杯を頂いてから、コーヒーに興味を持ち始めました。本格的なコーヒーとの出会いです。ですが、卒業後にいきなりコーヒーに関わる仕事を始めようと思ったわけではなく、趣味の1つになったような感覚でした。
卒業後は、技術系の仕事に就きます。

コーヒーを仕事に

技術系の仕事をしながらも、徐々に「コーヒーを仕事にしたい。」という想いが強くなってきた訳ではありません。きっかけは、30歳を過ぎた頃から、当時の仕事に対して「この先このままで良いのかな。」と考える時期があったことです。

今までを振り返った時に、自分に向いているか向いていないかはわからないけれども、仕事にストレスを感じている部分があって、「本当に自分がやりたいことはなんだろう。」と考え始めました。その時に、「好きなコーヒーで仕事をやりたい。」という想いが初めて出てきて、思い切って業種を変えた転職を決断しました。当時、32歳の頃だったと思います。
転職当初は「独立したい。」という想いでは無くて、「コーヒーに関わる仕事をしたい。」という想いでした。なので、3年程、自家焙煎のコーヒー店で焙煎を担当していました。なかなか焙煎の募集は無いのですが、たまたま募集を見つけることができて、「チャンスだ!」と飛び込んだことがきっかけです。

独立の道へ

働いている中で、「自分のお店を持ちたい。」「自分の味を出したい!」と感じるようになりました。欲が出て来たのかもしれません。(笑)
自営業をする決断をしたのは、このようなことを考えている時期に、親族の空き家の話があり、「このチャンスを生かしたい!」と思ったからです。その空き家は、今のお店にあたるのですが、もともと私の父の実家です。私の祖父が、この場所で八百屋をやっていたのですが、亡くなってしまい、空き家になっていました。もちろん自営業をやるリスクはありますが、会社を立てたり、人を雇うような大きなリスクではありません。自分にしか責任が来ないので、「ダメだったらしょうがない。また、違う場所で働けば良い。」と割り切って決断ができました。開き直りの面がありますね。(笑)

前にやっていた仕事と、この仕事を比べた時にどっちが幸せかを考え、自営業にして自分でやることの方が良いと考えました。当時、35、6歳の時です。もし、家族がいれば、家族の想いもあるので、好き勝手動くことはできなかったと思います。今も残念ながら一人ですけど、、。(笑)

店名の由来

僕自身、野球がすごい好きで、お店を開く時は、「野球に関する店名をつけたい。」という想いがありました。野球選手の中で1番好きなのが、イチロー選手。象徴的な背番号は「51」です。

その名前をつけて、「FIFTY-ONE COFFEE」と読んだ時にすごい語呂が良くて、「カッコ良い!」と。イチロー選手を好きになったのは、愛知に住んでいたということもあるのですが、選手としての凄さに惹かれていました。
イチロー選手はルーティーンを大切にする選手としても有名です。ルーティーンと聞くと、単純作業というイメージを持たれる方がおられると思いますが、実は逆です。自分のベースを理解しているかどうかの判断基準になるんです。ルーティーンを毎回続けることによって、何かズレが合った時に、自分でわかる。その時に、どこを修正すれば良いかを理解できる。なのでルーティーンは、とても大切なのです。パフォーマンスを最大限発揮するための目安になっているのです。

私のルーティーンは焙煎の中にあります。常に決められたルーティーン焙煎というものがあり、気候や豆の状態などで、味にズレがでる時に、「どうしたら出したい味がでるのか。」が見えてきます。なので、ルーティーンを決めるということはすごい大切で、ベースを維持するための基準になります。イチロー選手は、選手としてすごいだけでは無く、物事の考え方や会見の言葉などが自分の仕事に置き換えることができるので、それがとても勉強になっています。

余談ですが、イチロー選手のレアな試合を小さい時に見ています!松本市の松商学園とイチロー選手の母校である愛工大名電の甲子園での試合を見に行ったことがあります。当時はまだ有名ではありませんが、、、。今思えばすごい試合を見たなと。(笑)

日常の一部に

「コーヒーをお客様のライフスタイルの中で楽しんで欲しい。」という想いが強いです。なので、スペシャルティコーヒーに特化するといったことなどはせず、焙煎度合い(ロースト)や販売価格のバランスをとって幅広く展開しています。

ご来店された時に、お客様のお好みにどれか1つでも合うことを大切にしていて、バリエーション多く豆の種類を取り揃えています。お店に来れば、何か1つでも好みに合うものがある。そして、「ここのコーヒー、やっぱりうまいね!」と言っていただけることが僕にとってすごく嬉しいことです。お客様のペースで定期的に日常使いができるお店になっていきたいと思っています。気軽に入れるお店を目指しています。

私の逸品

当時、研究室で飲んだコーヒーが今でも1番好きなコーヒーです。キューバの「クリスタルマウンテン」というコーヒーです。正直、お値段の高いコーヒーです。(笑)今、色々なスペシャルティコーヒーが飲める時代になりましたが、クリスタルマウンテンが僕の中ではベストです。

大学時代の衝撃はもちろんあるのですが、色々なコーヒーを飲んできた中でもやっぱり1番美味い。不思議なんですけどね、、。(笑)当店でもクリスタルマウンテンを開店時から販売していましたが、数年前に天候不良等ですごく仕入れ価格が上がってしまって、今は販売していません。その代わりにキューバの一般品を置いています。クリスタルマウンテンの価格が落ち着いてきたら、また、復活させたい想いがあります。もう少しお手頃な価格でお客様が手に入る価格になればと思います。このコーヒーは僕の中で、特別想い入れのあるコーヒーなので、「お店を開く時に必ずキューバのコーヒーは置きたい。」と思っていました。早くクリスタルマウンテンを置くことができればと思っています。

「やりたい。」を実現する為に

まずは、妄想することが良いと思います。自分が「やりたい!」と思うことがあれば、強く妄想してみる。妄想した上で、ちょっと現実に戻って、「果たしてそれが自分に出来るのか。」と冷静に考えてみる。妄想する自分と、見つめ直す自分を作り上げて比較すると見えてくるものがあると思います。良いことばかり考えると失敗する。失敗するというか、何かあった時に修正しづらくなる。両方の視点で考えて、「いける!」と思った自分がいれば、やって良いと思います。ハッキリしなければ辞めた方が良いと思います。

勢いは必ず必要です。きっかけを逃すともう実現できないかも知れないので。ここまで考えて生まれた決断ならば、仮にうまくいかなくてもまた次に進む力が出るし、学びも大きいと思います。

これからのコト

まだ、夢物語ですが、移動販売をやりたいと思っています。お店を2週間ほど休みにして、東北に行ったり、関東に行ったりと場所を限定して、コーヒーを販売したいと思っています。映画で「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」という映画が大好きで、その影響を受けています。ちなみに妄想の中では見えています。(笑)

InstagramなどのSNSを活用して情報を発信していきながら、営業をするのも良いかなと。自分も旅しながら、営業をすると言うスタイルが面白いかなと思います。まだ、妄想段階ではありますが、オープン10年目ぐらいを1つの目安にしたいと思っています。トラック1台買ってと。頑張ります!!!

私のプライベート

当初はコーヒーが趣味でしたが今は趣味を仕事にしたため、今の趣味は「スポーツ観戦」となります。特に野球が好きでシーズンが始まるとプロ野球とメジャーリーグ双方の試合結果に一喜一憂するなど忙しくまた激熱な日々となります。(笑)
このほかにはサッカーも好きでやはり松本市のチーム「松本山雅FC」を応援しています。営業日の関係でなかなかアルウィンに行くことはできませんが「One Soul」魂で勝利を祈っています!

また相澤病院さんが当店近くにあることもあり、スピードスケートの小平選手も応援しています。
スポーツはやっぱりいいですね~!!!

最後に一言

色々なコーヒーの楽しみ方をご提案させていただきます!
ご来店お待ち申し上げます。

FIFTY-ONE COFFEE
■住所 長野県松本市深志3-8-19
■営業時間 11:00-18:00 木曜日・第3金曜日、年末年始 ※臨時休業あり
■TEL 0263-87-2537

全てにこだわる|焼肉ハウス「大将軍」#2 坂下 拓也

1つの転機

出身は、富山県富山市です。小学生まで富山市に住んでいました。父親が転勤族だったのもあり、中学生からは、長野県長野市で暮らしていました。高校を卒業するまでです。
ずっと小中高とバドミントンをやっていて、スポーツマンでした。勉強は好きではないが、できなくもない。そんな学生でした。
高校時代を振り返ってみると、「とりあえず大学を出れば、就職も困らないかな。」と思っていたので、勉強したいことも特にありませんでした。そんな気持ちもあって、大学は推薦で楽に入学できるところを選びました。福井県の大学です。しかし、大学に入学する前に1つの出来事がありました。それは、入学式の数ヶ月前に両親が離婚したことです。

「大学のお金はどうするのか。」「母親、父親どっちにつくのか。」様々な問題がありましたが、その時考えたことは、「俺は、俺の人生を歩む。誰にもお世話にならない。」といったことです。親達が離婚したせいで、俺が生活できないとなったら、ヒモか何かでしかない。そういうのは好きではないし、学費は俺が出す。家賃も俺が出す。そんな想いでいました。ですが、どうしたって、お金が減っていく中で、1番最初に何が困るかというと、腹が減ること。
本当に。どんだけ一生懸命にやろうとも、能力が高かろうとも。これはそういう環境に身を置いた人にしかわからないと思います。

店長の一言と一杯のレタスチャーハン

腹減ってどうするかというと、大学生な訳だし、賄いのあるところでバイトするしかない。浅はかだね。(笑)「今日から働かせてくれないですか。」といろいろなお店に掛け合いました。時給は少なくても良いから、とにかく賄いが食べられるお店で。そんな中、1番最初に働いたのが、あるチェーン店の中華料理屋でした。
その店長さんも、学生の頃苦労されたみたいで、今までの事を伝えると「気持ちはわかるよ。」と話していただき、出勤初日にレタスチャーハンを作ってくれました。面接に行ってから、次の日です。


そのレタスチャーハンを食べた時に、色々我慢していたことや、境遇、自分の情けなさに、涙が出ました。「なんだこれ。なんでこんなに美味しんですか?」と聞いたら、「これはただのレタスチャーハンだ。俺はお前のために作った訳だけど、食べ物で人を感動させられるんだよ。」と。これを聞いて、「俺はこの人みたいになりたい。」と思いました。
必死に生きていたから、この衝撃を受けたのだと思います。人はいきなりガクッと落ちると、必死に生きる。必死に生きてきたからこそ「こういうのがやりたいんだ。」といったことが見つかってくるんだと思います。俺もお金がなくて、腹が減った状態でなければ、食べた賄いはただのレタスチャーハンだったかもしれない。色々巡った中での、店長の一言と、レタスチャーハンの一杯だったんだよね。「ここだな。」と思いました。それから店長に「俺は食べ物屋を目指す。」と伝えました。「学校をやめます。」と伝えたのは、この出来事があった次の日でした。

頑固親父のラーメン屋

中華料理屋さんでは、とにかく偉くなろうと思いました。まずは、もちろんアルバイトからスタートしましたが、店長からは、「誰から見ても、仕事ができるようになったら、社員も良いんではないか。」とお話しをいただきました。その言葉をいただいてからは、本当にがむしゃらに朝から晩まで働いていました。
しかし、働いていくと、「やはりマニュアルに過ぎないな。」という想いが出てきました。これからも真剣に食の道に携わっていくのであれば、チェーン店ではなく、個人店に飛び込んでみる必要があると感じていました。働いて2年ほど経過した時です。当初の約束通り、「社員になるか。」という話があったのですが、社員になっても、何も変わらないし、自分に保証がつくだけ。「それは違うのではないか。」と思っていました。

そんな事を思っている中、アルバイトで貯めたお金で食べ歩きをする機会がありました。その中で良いお店との出会いがたくさんありました。ある福井県のラーメン屋さんに行きましたが、そのラーメン屋さんが感動的に美味しかった。「ラーメンでこの美味しさどうした。」と。びっくりしました。オープンキッチンなんですが、驚くほど綺麗で、全員坊主で、ハチマキを巻いて、一切笑顔が無い。この姿を見て、「この人たちカッコ良いな。」と強く感じました。これが頑固親父がやっているラーメン屋というやつかと。それから、ずっとチェックしていました。その時は、社員を募集していなかったのですが、数ヶ月後に募集がかかっていました。「これだ。」と思って、すぐに面接をさせていただきました。面接が終わると「明日から来なよ。」とお話をいただきました。その時、返事はしたものの、バイトはあるし、「どうしうよう。」と。
そこで、店長に「良いお店があったので、行きたいです。できれば明日なんですけど」と話をしました。そしたら、「お前のことだから、そう言うと思っていたよ。」と言ってくれて。
それから、一気にラーメン屋の方に頭が切り替わりました。

小さく芽生えた想い

そのラーメン屋は何もかも手作業でやるお店です。厳しいお店でした。寸胴の洗い方一つでも、とにかく怒られる。見える景色が全く異なりました。「今まで何やっていたんだろう。甘く無いな。」と感じました。ある日、親方に、「何がそんなに駆り立てるんですか。」と質問したら、「そりゃ、借金だろう。今日、お客さん来なかったら潰れるんだぞ。」と。もう必死さで負けている。ラーメン屋では、渾身の1杯を「これでどうだ。」とお客さんに出して、その対価として、お金を頂く。この精神を特に叩き込まれました。プロとは、仕事でお金をもらうことができる状態。自分が作ったこの1杯を出している時点でプロということ。アルバイト、社員といった立場は関係ない。このラーメン屋では約5年働いていました。

働いている中で、ラーメン屋の社長とよくお話する場を設けてもらいました。その時、感じたのは、「社長って超えられないな。」という気持ちです。偉くなりたかったのですが、そういう想いでやっていると、やっぱりどこかで行き当たる。「これ以上は、上にいけないな。」と。それが社長でした。
どんだけ仲良くなっても、どんだけ話し込んでも、結局、立場が違う。社長は「俺の喜びとか、悲しみははっきり言って段違い。」と話していました。これがまた羨ましくて。どこか、経営する立場になってみたいという想いが生まれていました。

自分の人生を振り返ってみて、チェーン店の中華料理屋さん、個人店のラーメン屋さんしか経験していないなと感じました。当時、25歳の時です。これで、自分のお店を出すのは、「まだまだだな。」という気持ちがありました。将来の自分に聞いても、「まだ無理。」と言われる。

衝撃の出会い

これだけ長い間仕事をしていると、”誰と働くか”が大切だと感じていました。今度は、人を見たいと思い、社員で入るのではなく、アルバイトを複数掛け持ちしました。朝、昼、夕方、夜中。多い時は4つ掛け持ちしていました。

面接を色々受けている中で、富山の焼肉屋さんに面接に行きました。このお店で後に、師匠になる人に出会います。最初の面接は店長さん。キッチン志望の旨を伝えましたが、「今は、ホールのアルバイトしか募集していない。」とのお話でした。「キッチンで色々学びたい。」と熱く語ったところ、店長さんだけでは、決定ができないので、社長と話してくれとの話をいただきました。
社長との面接の時です。登場した時に、その怖さに衝撃を受けました。ダースベーダーの曲が流れているかのようでした。(笑)空気が全然違う。「うちのキッチンでやりたいらしいな。アルバイトではなく、社員で来いよ。」と。ただ、仮にこのお店が自分にとって、良くなかったら、お互いにとって迷惑がかかる。その想いを伝えると、「なんだ、俺のお店を試すのか。」と。しかし、ここで押し負けたら、一生ペコペコだなと思っていたので、意を決して「一度、試させていただきたいと思います。」と伝えました。この言葉が気に入ったらしくて、「よく言ったな。俺を試すか。明日来いと。」と言っていただきました。また、明日です。(笑)

大将軍が出来るまで

働いてみると異常にキッチンの人数が少なかったんですね。なぜなら、働き始めても、厳しすぎてすぐ辞めてしまうんです。どんなに頑張っても1ヶ月。正直、「鬼っているんだ。」と思いました。当時、アルバイトで働き始めましたが、1ヶ月、2ヶ月と経った頃に、すぐに親方に「是非、社員として働かせてください。」と伝えました。その時同時に、「僕は30歳になったら辞めます。独立します。その間修行させてください。」と。


以前、働いていたラーメン屋の親方は、お客さんありきの思考でしたが、焼肉屋さんの親方は、料理ありきの思考。「この料理を食べさせて、美味いと思ってもらえなかったら、お前なんて生きている価値がない。」というぐらいの人でした。和食出身の親方でしたが、やっぱり厳しかった。毎日「どうやって仕返ししてやろう。」と思っていましたよ。(笑)
厳しい親方でしたが、厳しいのは俺の為。それがヒシヒシと伝わってきました。厳しくしてくれているのに、厳しくて辞めるなんて、大馬鹿者だと思っていました。厳しいながらも、愛を感じる。がむしゃらに働いていました。
30歳になったタイミングで、親方に独立の想いを話すと、「うちの看板持って行け。」とお話しをもらいました。実はこのお店、富山の大将軍というお店です。「後にも先にも、名前をあげるのはお前だけだよ。」と。それで看板を掲げさせていただくこととなりました。この焼肉屋では、約4年働いていました。
どこでお店を始めようかと考えていましたが、ふと中学、高校の時に長野市に住んでいたことを思い出し、長野市、松本市を中心に物件を探していました。
色々な親方から学んだことを集約すると、物件のポイントは、完全にオープンキッチンで、料理を魅せることが出来る事。それであって、圧倒的な美味さを出したい。その条件で探していると今の物件と出会うこととなりました。お寿司屋さんの居抜きです。

全てにこだわる

お店では、全部を大切にしています。1つに限定できません。お客さんは、綺麗なお店に行くわけでも無いし、美味いお店に行くわけでも無いし、接客が良いお店に行くわけでも無い。そのお店に行く。「このお店良いかな?」って思って来店する。大事なのは、来店したお客さんが帰る時に「良かった。」と感じるかどうか。そう考えると、大切にすべきことは、全部でしょ。手洗いにこだわっていると言って、従業員に清潔感がなければ、「どうした?」ってなるし。全部にこだわっています。

大事にしていることで言えば、日々感謝をしています。お客さんが来てくれるのは普通なことでは無いし、社員、アルバイト関係なく、従業員が働いてくれるのは、普通では無い。
俺は、今まで親方たちに教わってきたわけだけど、ただ、自分でお店を出すだけで、親方と呼ばれるように。それってそんなに簡単な事では無いと思います。「その責任は俺が絶対取るんだ。」という覚悟だけはあります。誰からも、「この人と働いて良かったな。」と思わせてあげたいと思っています。自分自身が親方達に対して、そう思っているので。いつか、従業員が自分のお店を持つようになったり、他の店舗を任せるようになった時に、初めて親方になる。その時に初めて身を以て感じると思うんだよね。そうなった時に恥ずかしく無いように育ててあげたい。そう思っています。全部が普通のことでは無いと思っているし、一生懸命頑張って当たり前でしょ。
人を育てるなんておこがましいと思っています。それよりも、「一緒にいこうよ。」という感じです。仲良くするの好きなんだよね。結局。お客さんと飲みに行くのも好きだし。中には、焼肉屋なのに、週に3回も来てくださるお客さんがいます。美味いのはもちろんだけど、その上で、うちのスタッフがいるから、俺がいるからと言ってくれる。こんなに嬉しいことはないよね。そういったお客さんの期待に応えるにはどうしたら良いか。毎日、毎日同じメニューでは良く無い。もっと品質を上げていったりとか、新しいことにチャレンジしていったりとか、店舗の改装をしたりとか、色々なやるべきことがある。どこにも手を抜けないんだよね。そういう姿を自分が率先してやって、できることならその姿を学んでいって欲しい。その学んだ従業員が自分の味方だったら、こんなに嬉しいことはない。楽しくてしょうがないと思います。

私のプライベート

趣味あるんです。(笑)当てられたことは無いけど。(笑)趣味は、”知らないことを知ること”です。「知らない!」ってなったら居ても立っても居られないんだよね。例えば、「あの映画見た?」とか、「新しいお店行った?」とかそういうことです。ジャンル問わずアンテナを張っています。ジャンルを狭めることは、こだわりではなく、価値観を狭めているだけ。多くの人が関心を持っていることを自分も試してみるのは、人に流されているのでは無い。知らないことは罪だと思っているので、自分が経験した上で、判断すれば良い。引き出しをいっぱい作っておく状態を作ることは重要だと思っています。ちなみに、今年の社員旅行はスキューバダイビングでした。去年は、富士登山。一昨年は、ディズニーランド。(笑)意味分からないでしょ。(笑)ディズニーランドでは、徹底された清掃、接客、イベントなどは見るべき。富士登山は、日本一の山登ってみたいでしょ。(笑)色々な刺激を受けて、考えることは必要だと思っています。

最後に一言

「美味いもの食べたい。」「旨いお酒が飲みたい。」
食の要望がある時は、うちのお店を思い出していただいて、是非足を運んでみてください!
お待ちしております!

地元のマスターへの憧れ|カンティーナわん 砂子 慎哉 #1

地元のマスターへの憧れ

私は、富山県出身です。富山県にいたのは中学生までで、高校は全寮制の高校へ1人東京に出て行きました。
当時、親がチャンスをくれて、地元の高校へ行く道と、東京の高校へ行く道を選ばせてくれました。その時に「どっちかわからないけど、東京行った方が良いか。」と思って、飛び込んでみました。

大学へ進学するつもりはあんまりなくて、当時ひねくれていたので、めんどくさいなと思っていました。なんせ全寮制の高校なので楽しみが少なくて、男同士で悪さするだけだったのですが、本を読むのが好きで、ずっと本を読んでいました。
その中で、心理学の本に出会って、読んだ時に、「これ面白いな。」と思い、その出会いから心理学関係の本をとにかく読みあさりました。
「どうせ大学へ行くのなら勉強したいことするか。」と思い、心理学関係の学部、学科を受験し、結果受かったのが大阪でした。

大学4年間は飲みまくって、遊びまくって、勉強しまくってといった感じでした。
ただの学生です。(笑)
当時、アルバイトは飲食関係をしていて、レストランやすし屋、バーのお手伝いをしていました。
その時は飲食をやりたいという気持ちはなく、アルバイトとして漠然と働いていました。
ただ、「面白いな。」という気持ちは当時からありまた。

卒業後は大学院を視野に入れていて、心理学の道で将来進むべきかどうかを悩んでいました。
4年生の1、2月の進路が決まるギリギリの時期に、「大学院はやめよう。」と思いました。
理由は心理学を勉強したかっただけで、職業にしたかったわけではないと途中で気づいたからです。その時に、「自分はどう食べていこう」と先の人生について悩みました。
その中で、自分の人生を振り返った時に、どういう瞬間が楽しかったのかを考えると、小さい頃に行っていた「MOKU MOKU」という地元の喫茶店を思い出しました。
小学生から、大学生までずっと通っていた喫茶店です。
そこのマスターがかっこよくて、喫茶店にいくのが楽しくてしょうがなかったんです。
そこのマスターは船乗りさんとして世界を旅したこともあったり、綺麗な奥さんがいたり、スキーもインストラクター級の腕前で、なんでもできるカッコ良いマスターでした。
全部がカッコ良い。

事業計画書で親を説得

飲食のアルバイトをしていた時に感じていた「楽しいな。」と言う気持ちもあって、「これを職に出来ないか。」と感じるようになりました。
そう思った時にはもう心では「よし。これで行こう」と決めていました。
当時、親に大学へ行かせてもらっていて、大学に行った以上はこれを無にすることは出来ないので、親を説得しなければならないと。
それから、「こういうプランで、こういう業態、席数○席、単価○円、売上○円、私の給料はこれぐらいなります。」と事業計画書を書きました。
実家に帰って、お父さん話があると。これを読んでくれと出しまして。
「そこまで考えているなら、好きにせい。その代り後悔するんじゃないぞ。」
と認めてもらい、そこから飲食の道に入りました。
その後は、事業計画書に書いてあった初期投資の額を貯めければならないと思い、会社員になりました。

とにかくお金を貯めなければならなかったので、大事なポイントはお給料でした。
就職課に行って、残り少ない求人情報を見て、全部受けました。
その中で、一番給料が良かったのが、システムエンジニアでの就職でした。
当時、若干景気の良い時だったので、仕事もあって、お給料も良くてといった環境でした。
大阪で就職をしたのですが、大阪という街は非常に楽しい街でして、稼いだお金は全部飲んでしまい、遊びに使ってしましました。
事業計画書の中に、自分の性格は加味していなかったんですね。(笑)
このままやっていてもお金は貯まらないし、経験も積めないしといった想いで、結局、二年弱で退職をしました。

フランスと松本

その後、一度、実家の富山に戻って出版社で営業をしていました。
実家ならお金が貯まると。
飲食店へ営業をしている中で、仲良くなったフレンチのシェフの方と飲む機会がありました。
そこで「飲食をやりたいが、見習いしかやったことありません。」と伝えると、「お前フランス行って来い!」と言われました。
「おれが修行していたお店に紹介状書いてやるよ。」ということでフランスに行くことへ決めました。
そこからガソリンスタンドで働いたりと、お金を貯めていたのですが、フランスに行く前に、私の同級生とバリ島へ行く機会がありました。
ここに松本に来るきっかけがあります。

同級生とバリ島に着いた後、その同級生のお父さんと合流することになりました。
そのお父さんは松本で飲食や旅館を経営している方でした。
「これからフランスへ料理の勉強をします。」と今後の話をしていると、「フランスになんかに行ってまともな料理人になった人を見たことがない。」と言われまして。
そんなことは無いんですけど。
「君は、日本帰ったら松本に来なさい。新しい店を出すから。」と言われまして、冗談かなと最初は思っていましたが、日本に帰国してのほほんとしていたら、「お前はいつ来るんだ。」と言われ、本気だったんだなと。
とりあえず見学のつもりで行ったところ、そのまま働くことになってしまい、松本で暮らすことになりました。
大きい旅館のレストランです。そこでバーテンダー業務があり、店長業務がありという形です。
本当は今頃フランスに行っているつもりでした。(笑)

今のお店(カンティーナわん)は、当時働いていたお店の隣にありました。
仕事が終わったら毎日飲みに行っていたんです。また、大阪時代と変わらず飲んでいるんですよ。
当時は、雇われている身だったので、「本当はこうしたい。」といったやりたいことが沢山ありました。
どうしても誰かのお店だと上の人の許可をもらったりと、出来ないことが出てきます。
その中でフラストレーションが溜まっていって、「この理想を叶えることが出来ないかな。」と模索すると、むしゃくしゃして、酒を飲むといった感じで。
その時に、私の師匠であるわんさんに、「店をやってみたら?」と後押しをされ、お店を持つ流れとなりました。
最初は店長という形で入って、その後、お店を買い取りました。
当時は、お付き合いしている方と結婚しようと思っていて、「雇われ店長では、結婚できないな。」と思っていたんです。(笑)「男ならば一国一城の主として結婚したい。」という想いがあったので、お願いをして、売ってもらうことになりました。
人生いろいろあります。
その時に、お金も足りなかったのですが、当時、付き合いのあったお客さんがお金を貸してくれたりと、いろんな方に応援してもらい、支えられて初めてのお店を開くことが出来ました。
いろんな出会いがあって、いろんなことを吸収して、そのエッセンスがお店に反映されています。

1本の動画が運命を変えた|Pizzeria Aletta 赤羽 勇治

漠然と一日が終わる日々

出身は長野県松本市です。
高校を出て、すぐ料理人になろうとしたわけではありません。
しばらく父が建設の仕事をしていて、独立するタイミングが重なって、一緒に働いていました。内装業です
期間は、5年ほどです。
将来したいことが定まっていない。夢も無く、ただただ一緒に働いているだけでしたね。
ただ、日々を過ごしていました。
その時は、父親の後を継いで、「建築の仕事をこれからやっていくんだろうな。」と思っていました。

一本の動画が運命を変えた

料理は、家で自分の分を作るぐらいはやっていました。
今の仕事に就くきっかけは、ある時、「ピザを作ってみたい。」とふと思ったことです。
作り方が分からないので、インターネットで調べました。
調べている中で、そこでたまたまピザを回している人の動画を見て、「なんだこれは!」と衝撃を受けました。
その動画はピザを作っている動画ではなく、生地を振り回してお客さんを楽しませている海外の動画でした。「こんな世界があるのか。」
自分が考えていたものとは全く違っていたことが衝撃で、「おれもやってみたい!」と思いました。

調べていくうちに、ピザ生地を伸ばす練習用のゴムが売るっているのを知り、すぐに通販で買いました。
それからは見よう見まねで練習をしていて、最初は趣味の感覚です。
そして、美味しいピザが作りたいのではなく、とにかくピザを回したいという感情です。(笑)
仕事が終わって家に帰ると、そこから公園に行って、回しての繰り返しです。
料理とは全然違っていて、大道芸に近いと思います。

ピザ回し日本大会へ

参考動画はあったのですが、早すぎて最初は何をやっているかわかりませんでした。(笑)
「教えて欲しい。」という気持ちを持っていたので、そういった場がないかと調べていると、練習用ゴムの販売元にピザ回しサークルがあることを知りました。場所は埼玉です。
月に1回ぐらいで、開催されているサークルだったので、なかなか毎回行くことが出来なかったのですが、2、3か月に1回のペースで参加していました。

そして、長野、埼玉で練習しているうちに、ピザ回す日本大会が初めて行われることを知りました。
それが2012年です。
サークルのメンバーから「出場してみない?」というお声掛けが合って、せっかく練習しているのであれば大会を目標にしたいと思い、大会開催日に標準を合わせて練習をし、大会に出場することを決意しました。
大会には3つ部門がありました。
職人向けの生生地の部門、練習用のラバーでパフォーマンスをするラバー部門、500gの生地をどこまで大きく伸ばせるかのグランデ部門。

ピザ回しに出会って1年目の時です。
私はラバー部門で出場し、1年目だったのですが、勝っちゃいました。(笑)
お店にもメダルを置いてあります。

ラバーと過ごした半年

大会に出場するまでの練習期間は約半年でした。
半年と聞くと短いと感じるかもしれませんが、その半年間は本当にみっちりやりました。
始めた1年目は気持ち悪いぐらいに練習していましたよ。(笑)
仕事するか、練習するかの2択でした。
家の近くに公園があるのですが、仕事終わったらすぐそこへ行って、ラバーが真っ黒になるまで練習して、家に帰った後は、ラバーと一緒にお風呂に入って洗ってあげるという生活をしていました。(笑)


当時は、ピザ回しを始めるきっかけになった動画の衝撃が強すぎて、何も考えずに練習し続けていました。
「こんな風になりたい!」の一心です。
大会が行われる数カ月前の夏に公園で練習をしていたら、たまたま見ていた方に、「上田の夏祭りの催し物の1つとしてやらない?」とお声をかけていただいて、大会前の度胸試しではないですけど、多くの人の前で披露する機会を頂けました。
それは、すごい良い経験になったと思います。
長野県でピザを回す人が私しかいないので、一緒にやる仲間はいなくて、孤独でしたが、周りで見てくれる人や、応援してくれる人がいたのでそれが励みになって続けることができました。

ピザを“回す”から“食べてもらう”に

大会主催の協会の方が関東でお店をやっている人でしたが、優勝したことで、その方から「うちのお店おいでよ。」とお誘いを頂きました。
「ピザ職人としてスキル身につけてみない?」ということで今まで趣味でやっていたものから本格的に学ぶことに決めました。
今まで、ピザは回していましたが、料理人としては素人だったで、料理の技術を学びにいく為です。
松本に帰って、父親に「おれピザ職人になるわ。継がない!」と話をしました。(笑)
翌年に仕事を辞め、先輩たちのいる埼玉のお店で働き始めました。

埼玉のお店では3年間働いていました。
働き始める時に3年と区切りを決めて、3年終わったら自分でお店を持つことを決めていました。
これはお店にも伝えていたことです。
この3年間では、パフォーマンスと料理はもちろん全然違うので、たくさんの壁にぶつかりました。
ピザを見てもらうのではなく、ピザを食べてもらうので、味の部分は苦戦しましたね。
美味しいモノを提供するという事には、ほぼ未知だったので。
壁を1つ1つ乗り越えていく中で、3年経った頃にはある程度自信がついて、自分自身で納得が出来るほどになりました。
そこからお店を出す準備を進めていきました。

お店を始めてからの苦悩

物件は、イメージしていたものがあって、物件を探している中でイメージと近いものがあったので、ここで勝負しようと決意しました。
オープンは今年の3月28日です。
オープン前に考えていたことと違ったことは、正直結構あります。(笑)


長野から関東へ出て行って、ピザ屋さんで働いていましたが、向こうだとそもそも人が多いですし、やればやっただけ出るしという状況でした。
その為、松本でもお店を出せば、成功できるだろうなと思っていました。
実際に、お店を持ってみると、若さ故の勢いと甘さしかなかったと感じています。オープンから1年経ってみたら、自分がやりたかったことだけしかできていないという印象です。
やはり、お客様あっての商売なので、私がやりたいことだけやっていれば良いわけではない。そういう学びはありました。
お客様が求めているものを出さなければならないので、「ピザ回してすごいでしょ!」「このピザ美味しいでしょ。」だけではうまくいかないことを痛感しました。
ピザだけやっていれば上手くいと思っていたけど、そうではないんだって。
夏暑くなってきて、お客様がピザ食べたいかといったらそうでもないし、
かき氷のほうが出るし。(笑)
縄手通りは、観光地なので冬は全然人通りがないんですよ。
埼玉であれば、人が一定数いたので関係なかったのですが、、、。
こういう地方の観光地は売れ幅があるので、正直冬はきついです、、。
いろんなことを想う中で、考え、行動の繰り返しで、試行錯誤のしている状態です。
本当にたくさんの事を学びました。

今後の展望

自分は散々ピザを回してきて、もともとが料理人ではないので、他の皆さんも僕のこと料理人と思っている人っていないと思うんですよ。(笑)
なので、個人としてはパフォーマーではなく、1人の料理人として認めてもらいたい。
回す大会ではなく、料理の大会で結果を残せればと思います。

お店の事に関しては、信州の誰もが愛してくれるメニューを1つ作りたいなと思います。
地元の人の馴染みになるメニューです。
地元の食材を使った、ここでしか食べることのできないメニューを考えています。

私のプライベート

休みの日もピザを作っています。(笑)
熟成製法という作り方があって、生地を3日間寝かせる作り方です。そうすることで、よりおいしくなったり、香りが良くなったりします。
水曜日が定休日ですが、水曜日も仕込まなければならなかったりするので、休みの日もピザをつくっているという事です。(笑)
自分がやりたくてはじめたことなので、しばらくは良いです。(笑)

最後に一言

イタリアンレストランは敷居が高くて、子どもがいると騒いでしまったりと、なかなか家族で来れないのではないかというイメージを持たれていると思います。
ですが、この店はむしろお子様に来てもらって、ピザを回すところを見てもらって、騒いでもらいたいなと思っています。
その為、キッズスペースも用意しています。
アットホームな空間を用意しているので、気軽に足を運んでください!!

三代食堂である理由|三代食堂 岡部 賢二

自分がやりたいことは

出身は茨城県です。大学進学時に上京をして、4年半ぐらい東京で暮らしていました。卒業後は、茨城に戻って、栄養士の資格を取りました。
このきっかけは、大学時代のアルバイトにあります。

アルバイトは、とんかつ屋で3年働いていたのと、他には居酒屋や、ホテルで働いていました。良いバイト先であったんですけど、とんかつ屋は近所だったという理由でやっていたので、どちらかというと、何となくやっていた感じです。
とんかつ屋では、最初は皿洗いからなのですが、盛り付けや、かつ丼作りまでいろいろなことを任せてくれました。当時は、「すごい楽しい。」と感じていましたね。

大学の後半から卒業に近づくにつれて、大学では全く関係ないことを勉強していたけど、漠然と「飲食店をやりたい。」という気持ちが芽生えてきました。
そこで、食に関してちゃんと勉強したいという想いから、地元の茨城県に戻り、栄養士の専門学校に入り直しました。
結構東京嫌になっちゃって、、。(笑)
殺伐とした感じとか、疲れてしまったのもあって、田舎に帰ろうと決めました。
別に東京に居続けて、資格を取る必要はないと感じていました。

1人の上司との出会い

専門学校の卒業後は、たまたま職場が長野県に決まって、委託給食と言う形で、老人ホームであったり、学校であったり、その場所にあった給食を作る仕事をしていました。


最初の配属は、老人ホームでした。期間は、1年間です。
その後は、約二年間、池田の方にある障がい者施設で食事を作っていました。
そこで1つの出会いがありました。

私の上司は、もともと京都の割烹で修行をしていた方です。
その上司は、「給食業界はなめれられている。」と言っていて、例えば、カレーを作るにしてもレトルトを入れて、食材を入れて完成となる。料理に凝る習慣がなく、技術を向上するという姿勢が見られないんですね。
それで良いんですけど。食べる側も完成度を求めていないから。
でも、その上司はたまたま働く場所がなく、入りやすい給食業界に入ってきたのですが、技術はあるので、給食だけど、給食らしからぬ味を出すんですよね。(笑)
味付けの段階でダシの比率や、味付けの順番など細かく調整していく。
そこで基本的なことを教えてもらいました。
調理師学校時代の勉強を、上司に弟子入りする形で実践へと変えていきました。
その出会いがなければ、今どうなっていたかわからないですね、、。(笑)

オープン前に山小屋に!?

その後は、2017年4月頭ぐらいに会社を辞めさせていただきました。
前職で働いている時には、もうこの物件は決まっていたので、お店を開く準備をしていたのですが、もろもろやっているうちにお金が足りなくなってしまって、、。(笑)
車も売ったりしたんですけど、サラリーマン時代の貯金でお店を完成するには、足りない状態でした。
また、そこで1つの繋がりがありました。

ここ1年ほど「ヒーターズ」というバンドをやっていて、そのギタリストのオーナーが、山小屋を経営していました。そこから「一緒に働いてみない?」という話をもらって、昔から山には興味があったので、2017年の夏に4ヶ月ほど山小屋で働いていました。
ある程度、お店の工事を出来るところまでやって、あとは6月末から4ヶ月山に行って稼いでいました。
山での業務は、基本的に小屋番と言う受付と、料理が出来るのもあって食事提供もしていました。あとは、道直しという作業があって、登山客の方が登ると道がどんどん崩れてきて、危なくなってくるので、その道を石で固定したり、歩きづらくなってしまうのを砂利で埋めたりしていました。
雪が積もっている時は、ベンガラというチョークがあるんですけど、真っ赤な粉を撒きに行ってマーキングをしたりもします。
そのような生活を送っていました。

予期せぬ事態

山小屋に帰ってからもすぐにお店のオープンはできませんでした。
そこからさらに4ヶ月ぐらいかかってしまって、、。
そもそもここの物件の状態が借りる前はひどい状態だったんです。
大体2ヶ月間山に行く前に基礎を作って、その後、山から下ってきて4ヶ月で上やって、キッチン作ってと言う感じで。思ったより時間がかかってしまいました。

ほぼ、全て自分の手でお店を作ったのですが、みんなやろうとしないだけで出来るんです。(笑)
最初は手探りでやっていて、昔の建築誌を見て「こういう感じにしたいな。」というイメージを持ってやりましたけど、出来ましたね。(笑)
会社辞めてからは、工期が半年、山に行っている期間を含めてほぼ1年かかりました。
オープンは4月3日です。

本当は3月27日ぐらいだったのですが、あばらを折ってしまって、、。(笑)
最後の最後で怪我をしてしまって、2週間ほど延ばしてもらいました。(笑)
めっちゃ高いところならわかるんですけど、70cmぐらいの椅子から結構な勢いで落ちて、、。(笑)
死ぬかと思ったぐらい痛かったですね、、。(笑)
でも、オープニングパーティーは、予定通り開催しました。
店内をステージにして、ライブをやったりして、いろんな人が来てくれて。
結局、当日は興奮しているので痛み感じないんですよ。(笑)
それで乗り切ったのですが、オープニングパーティー終わってから病院に行ったら「やっぱ折れています」と言われて。(笑)
オープン前にものすごいださい怪我をしたという。(笑)
忘れられないです。(笑)

食堂、店名へのこだわり

小っちゃい頃から町の大衆食堂みたいなところに連れて行ってもらっていました。
その後、年を重ねていって、上京して学生をやって、そこで通っていたお店の偉大さに気づきました。
上京して茨城を離れた後に、飲食店をやりたい気持ちがあったので、いろんなお店に行きました。
その中で、昔通っていた記憶に残るようなお店を超える店が何1つ無かったんですよ。
本当に1個もないぐらい無くて。


単純に自分の舌が合っているというのもあるんですけど、何年か毎にブームがあって、料理の技術や食材とかの様々な変化があっても、人の味覚に訴えてくるその美味しさは普遍的で変わらないと思っています。
自分にとってそれが食堂で再現できればという想いがあって、自分の原体験が続けられる場所ができたらと思いました。

「三代(さんだい)食堂さんですか?」とよく聞かれるんですけど、三代(みよ)です。(笑)茨城のひたちの方だと名字でよくあって、母親の旧姓も三代(みよ)でした。
そこからきています。もう1つの理由は祖父の魚屋にあります。

私の祖父は、茨城で魚屋をやっていて、昔は築地で働いていた経験があります。
今も、お店はあるのですが、受け継いで、店主をやっていた、母親のお兄さんが10年ぐらい前に亡くなってしまって、今は、お兄さんの奥さんがお店をやっています。お兄さんには、魚のさばき方を教えてもらったり、すごい優しくしてもらった記憶が今でもあります。
店名は悩んでいて、自分の名前を冠するのには抵抗がありました。しかし、魚屋もそろそろ閉めるという話もあって、同時に自分が「継ぎたい。」という想いもありました。
字は三代(さんだい)で、魚屋ではないけれども、祖父、母、自分で三代目という意味もありますし、三代(みよ)という姓を継ぎたいという想いはすごいあって店名に込めました。

1人で来られる空間作り

自分が落ち着ける場所がすごい欲しいなという気持ちがありました。
茨城や東京にいたときになんとなく落ち着ける場所の条件が、“ちょっと暗めで”“外からあまり見えないけど、外の景色は見える”
そういうお店だと「入りやすいな。」という気持ちになって。

1番優先しているのが、お1人様、もしくは、お2人様の席が一番良い位置にあるという事です。


1人でふらっとごはんとか食べて、リラックスできる環境が良いなと思っていて、なにもしらない店に対面式のカウンターだとちょっと緊張したりするじゃないですか。
お店の人は、喋り慣れているから良いのかもしれないけど。
それを解消するためのスペースを作ってます。
1人用のカウンターは対面式ではなく、外が見える特等席。
「自分だったらどういう店に居続けたいか。」を基本のベースにはしています。

自分がやっている音楽の要素もお店に反映させています。
ミクスチャーというか、音楽だとビートルズの後に出てきたプログレシブロックという60年後期から出てきた音楽が好きで、音楽だけでなく芸術とかとかをまぜこぜにしているものです。もともと分析が好きで、音楽もいろいろ混ざっていると楽しいんですね。建築とかも昔の雑誌と今の雑誌を見比べたり。一見合わなそうなものも混ぜて、お店作りはしていました。

私のプライベート

ずっと音楽をやっているので、その繋がりが今、面白いと思っています。バンドもそうですけど、ソロでもやっていて、三軒隣の「Give me little more」が面白い外国のアーティストを呼んだり、たくさんライブもやるので、すごいインスピレーションが湧く場所になっています。
ソロの時は、結構めちゃくちゃなライブをします。(笑)エフェクターを使って、カリンバと言う民族楽器があるんですけど、どんどんループしていって、、、。
いろいろあるんですよ!(笑)ちょっと説明しづらいので会場に見に来てもらえば!(笑)

最後に一言

これから毎年店を2か月ぐらい閉めて、山小屋に行くと言うサイクルをやっていきますが、うちの店を忘れないでください!!(笑)

ここまで来れた一つの想い|CAFE THE GROVE 由比ヶ浜 秀嗣

いつも見ていた親の姿

出身は長野市です。小学校の時に松本市に引っ越しました。その後、大学進学を機に神奈川へ行き、大学卒業後は二年ぐらいイギリスへ行っていました。
イギリスから長野へ戻ってきたタイミングが、ちょうど冬季オリンピックの時だったので、オリンピックのお伝いをしたりしていました。それから飲食の世界に入った流れです。
もともと親が今、お店をやっている場所でラーメン屋をやっていたので、飲食には小さい頃から馴染みがありました。その為、親の姿を見ていたからなのか、飲食に対しては構えるものは無かった記憶があります。

自分が好きなこととは

大学卒業後は、親のラーメン屋を継ぐつもりは全く無くて、サラリーマンするつもりでした。
就職活動はちゃんとしてはいましたが、「自分は何をしたいのだろう。」を整理していった時にサラリーマンになることに違和感を覚えたことも確かです。
そこで大きな影響を受けたのはイギリスへ行った経験でした。

イギリスへ行く目的は、英語を覚えることでした。
ですが、生活している中で、イギリスは見たことのない様々なお店があって、「こういう店カッコ良いな。将来的にこんなお店を持てたら良いな。」と漠然と思うようになっていました。
こういった気持ちを感じていた中で、「何したいのかな。」といろいろ考えた時に、「人との繋がりが自分は好きだな。」と感じていました。人と話したりといったことです。
実際に、いろんなものを見て、経験することで気持ちの変化が起きてきました。
最終的には、自分でお店を開いても面白いのかなという気持ちはどこかにあったと思います。親を見ていてというのもありますけど。
その中で、「最終的な目標が見えているのならば、最初からやっても良いのではないか。」という想いが出てきました。
これが飲食に飛び込むきっかけです。

一番幸せな手段

この人の繋がりを感じたのは、大学時代のアルバイトです。
レストランや、ホテルの配膳の仕事の飲食関係やお土産屋さん、ガソリンスタンドも経験していました。
“人の繋がり”だけを考えた時に、極端な話、飲食でなくても良かったかもしれません。
ガソリンスタンドでも人と関わることが出来て、どうコミュニケーションとるかを考えながらやることに楽しみを感じていました。
そう考えると、売っているものが違うだけで、接客という意味では同じです。

それでもなぜ飲食なのか。自分自身が食べるのが好きだったし、とにかくコーヒーが好きだった。人と繋がる仕事を考える中で、「どうせなら好きなことをツールに仕事にしたい。」と思うようになりました。
より自分が楽しめる。

飲食人生の第一歩

実は、親のラーメン屋を一度継いでいます。飲食をやるにしても経験がないといけない。そこで親のラーメン屋を継ぎました。

さらに、もう一店舗出す時に自分のやりたいコーヒー屋をやろうと決めていましたが、結局コーヒー屋をやるにしても、自分はずっとラーメンを作り続けなければならないし、「これはダメだ!」と。(笑)
コーヒーのアイデアはどんどん出てきたけど、ラーメンのアイデアは出てこなくなってしまった時期でした。
とはいっても、お客様からお金は頂いているので、このような気持ちでお店を続けるのは、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
自分で作ったものを潰すのは良いですが、親が作ったものを潰すことはしたく無い。
であれば、惜しまれつつ閉店という形を取りました。

しかし、その当時は大人という大人に猛反対されました。

開店までの大きな壁

「せっかくお客さんが入っているのにどうしてコーヒー屋にするの?」
「コーヒー屋なんて儲かるはずがない。」
会計士、銀行、両親、周りの人から猛反対です。
銀行の人にはコーヒー屋をやらない方が良い理由のレポートも出されたりして。(笑)
それは結構きつかったです。(笑)
でも、そのままでは悔しいので、次の日にはどうしてやりたいのかというレポートを銀行に返しました。(笑)
その当時は仕事しながら、銀行を説得して、会計士さんを説得してと、走り回っていました。

でも、ある時から「こういう事出来ますか?」「できますよ。こういう事も出来ますよ」のように、自分がボールを投げたら2つ3つになって返ってくるようになってきました。そうなると自分の中で導かれているのではないかと感じる部分もあって、根拠のない自信、勘違いとも言うんですが、、。(笑)
上手くいく気が何となくしていました。
でも、今、同じことをやろうと思ったら本当に嫌です。(笑)

辛くてもやり続けられた理由

やっぱり、「ただただ、コーヒーが好きだった。」
これにつきます。
コーヒーは子どもの頃から好きでした。コーヒー牛乳から始まって、次は、ミルク、砂糖を入れてと、ずっとコーヒーは好きで飲んでいました。
これは、親の影響もあります。親がコーヒー好きで家に常にコーヒーがある状態だった為です。
コーヒーが好きで調べていくと、いろいろ見えてくるものがあって、「コーヒーって奥深い」「面白い」と感じるようになりました。

コーヒーから生まれた違和感

ある時からただ、コーヒーを飲むだけではなくなりました。

単純に飲み物として面白いし、視点を変えてみると、生産国からは稼ぐ重要なモノになる。
当時、フェアトレードという言葉を良く聞く時代でした。
なんとなく自分の中で、それはチャリティーと同じ感覚があって、言葉自体に違和感を覚えていました。オープンしてからも考えていたことの1つです。

ある時に出会ったのが、コーヒーハンターと呼ばれる川島良彰さんの記事でした。
その記事を読んだ時に、「これだ。」と思うものがありました。
その記事には、「フェアトレードは一過性の側面が強く、お金持ちの国が貧しい国を支える構図が見える。そうなると、常に生産国は貧しくないとならないよね?」という問いでした。これを読んだ時に、モヤモヤが取れて、この記事が自分の想いがうまく言語化されていると気付きました。
美味しいモノを作っている生産国にはちゃんと対価を払わなければならない。
そして、最終的にコーヒーをカップにした時に、お客様が「美味しい」と飲んでもらう。中間業者、焙煎業者、消費者も泣くことが無く、コーヒーを通してみんながハッピーになる。こういった持続可能な世界が作れれば、みんながハッピーになれるよねと。
フェアトレードはもちろん良いと思っています。ですが、1つのきっかけにしかならないと感じていて、より一歩進んだ時にそれが持続可能になればよりハッピーになれると思います。生産国を貧しく位置づける必要は全くないと思いますし。

お店に散りばめられたこだわり

このお店は、以前のログハウスのラーメン屋がベースになっています。
店づくりのコンセプトは、男の人も気軽に来れるお店です。


カフェは女性が行く場所というイメージが少なからずあると思っていて、そうではなくて男の人も気軽に行ける場所が作れればと思っています。
“木”“レザー”“鉄”をキーワードにして、男ぽっさをアピールしたいと思っています。

例えば、お店の入口も鉄骨を使っていて、この色にはすごいこだわりました。
イメージの色味を出すために一回酸のプールにつけなければならなくて、関西に鉄骨を持っていって作ってもらいました。(笑)
そういったこだわりが店内に散りばめられています。
床もあえて隙間を空けているように、洗練されているよりも、武骨な感じを作りながら、隙がある不完全さを出しています。

隣には、ビーンズショップがあって、土蔵を使っています。
もともと祖父が管理していた建物で、よく言っているのは家の形をしたゴミ箱状態でした。当時、祖父がなんでも入れてしまっていたので。(笑)
それを1人で分別して、ごみを捨てに行ってというのを続けて、お店に使えるようになりました。
松本は蔵の街で色んな場所に残っていますが、うちの蔵は雰囲気が全く違います。
外見は当時のままですが、中を完全に洋風に振って、内と外にどれだけのギャップを作れるかを意識して作っています。蔵なのにシャンデリアがあります。(笑)

お客様の物語を感じる

オープンして12年目になります。
12年間お店をやっていると、結婚してなかった人が結婚しました。子どもが生まれました。といったようにお客さんの物語がどんどん進んでいて、一緒に共有できるというのは面白いと感じています。お店も成長していきますが、お客さんと一緒に歩んでいるんだなと実感しています。なので、お店としてもどれだけお客さんの傍らにいれるのかというのは同時に考えます。
入籍した日にお店でご飯を食べてくれた人が、毎年結婚記念日に来てくれたりして、そういうことがあるとやっぱり嬉しいです。
新しい出会いがあれば、転勤でいなくなってしまうお客さんもいますが、お客さんの物語を、お店をやりながら感じています。
今日も子連れの家族が来店してくださいましたが、「次は子どもが1人で来れるまで続けられたら良いな。」とか思いますね。

私の逸品

今までいろんなコーヒーの種類を扱ってきてそれぞれに思い入れはありますが、その中でも特にタンザニアに思い入れがあります。

それは、自分が一番好きなコーヒーだからです。人間って正直で自分が好きなコーヒーを淹れていると、普段より勝手に力が入ると言うか、「この豆のもっと良いところ引き出してやろう。」と無意識に思ってしまいます。
もちろん全部の豆をそう思っているのですが。(笑)
コーヒーの仲間を作っていて、他の焙煎業者の方にもタンザニアは好評なので、是非飲んでもらえたらと思います。

私のプライベート

バイクに18歳の時から乗っています。ずっと直しながら、同じバイクを20年間乗り続けています。湘南爆走族読んでいました。(笑)
今の時期だとビーナスラインが気持ち良いですね。
普段、お客さんとお話しさせていただいているので、休みの日は一人の時間を大切にしています。多くこういった時間をとれるわけではないですが、意識してとるようにしています。
バイクは一人で行って、走ってとすごく良い時間になっています。

最後に一言

「コーヒーを通して、生産者からお客様まで皆がハッピーに!」

この願いを込めて、カフェ、ビーンズショップともに営業しています!
是非、足を運んでください!