お店が必要とされなくなるまで。|Glocal foods「NAVEL」崎元 伸郎/崎元 生歩子 #2

ストレッチゾーンへようこそ

N:長野に来てから、よく体を動かすようになりました。スポーツは好きだし、山登り、クライミングもします。

K:私は、中高生の頃は、学校で山登りをやっていたのですが、それから「山登りは、もうやらない。」と思っていました。(笑)ずっと、主人の誘いを断っていたのですが、度、嫌々主人に付いて行ったらハマっちゃって。(笑)それから、子供生まれる前は、シーズンだと毎週出かけたりとか、月に1回は必ず2、3泊で山やキャンプに出かけていました。あの体験がなかったら、今の自分が無いと思うぐらいです。(笑)自分らしくなりました。

N:最初、全然やる気無かったんですよ。(笑)1度、クライミングの体験に騙して連れて行きました。
そしたら、すごく楽しんでいて。(笑)僕が最初に始めていたのですが、どんどん上達していきました。(笑)

K:クライミングにはオブザベーションという、観察して考える時間があります。どう登っていくのかを観察して、考える時間です。これは子育てや、料理など日々の生活にも生かされることが多いです。目的を考えて、俯瞰で見て、手段を決める。
なんでもクライミングです。(笑)

N:クライミングと日常が結びつくことは多くあります。例えば、不安レベルについて。人それぞれ、コンフォートゾーンという範囲があります。不安にならない行動範囲です。その先にストレッチゾーン、デンジャーゾーンと大枠で3段階あるんですが、人間ってコンフォートゾーンに居たがるんですよ。日々の習慣行動から逸脱するものはなるべく避けたい。コンフォートゾーンだけでは成長が無いので、新しいことに対してのチャレンジ精神がわかない。その点、ストレッチゾーンは我々の可能性を発揮できる機会を与えてくれます。

K:アウトドアもそうで、いつものフィールドがあって、少しチャレンジするストレッチゾーンがあります。

N:アウトドアってそもそも小さなリスクがいっぱいあるから、本能として楽しいって思えるんだよね。少し普段の生活と違う非日常感は新鮮な体験を与えてくれるし、五感が気持ち良い。
普通の生活をしていると五感が鈍ってきてしまうので、たまにアウトドアフィールドに出かけて、リセットしてあげる。自分の感覚を呼び戻すというか、元に戻してあげる。
自分の感覚を研ぎ澄ますと、選択って自ずと、そこを基準にしてくるはずなんですよ。
それをみんなに体験して欲しいと思っていて、五感を鍛えるワークショップも企画しています。
自分で選択できる人が増えると、恐らく世の中はもっと楽しくなると思います。
「ストレッチゾーンへようこそ。」ですね。(笑)

選択肢を広げる

K:人間は10歳ぐらいまでに感覚が成熟されると言われていて、味覚もほぼ決まってしまいます。

N:10歳までに食べてきたもので、その後の人生が決まってします。なので、リミッターを外してあげたいと思っています。リミッターをつけたままだと、その狭い範囲内での判断基準しか持てない。


「美味しい。」と思うものをもうちょっと広げていってあげる感覚です。自分たちは自然食を提供しているけど、五味に対して理解がある人でないと受け入れられない場合もあります。小さい頃から、化学調味料とかで調理している食事を好んで食べていたら、そういう食事を好きになってしまうので、化学調味料を外した料理を提供したときに、「美味しい。」と思えなくなってしまうかもしれない。
野菜もそうだと思います。化学農法で育てた見た目が綺麗な野菜とか、甘みだけに特化した野菜を美味しいと思って食べていると、苦味とか、滋味深さとかを美味しいと思ってもらえないかも知れない。
そういう想いがあって、五味の授業は子供達にやりたいと思いました。
選択の幅を残してあげたいと思っています。

N:最近の活動として、食育をメインにして活動しています。レストラン空間だけでなく、子供達にまつわる食を調えたいと思っています。売り上げだけとかのプライベートなことの追求ではなく、土台の部分を含めての幸福を訴求していったほうが自分が幸せで、幸福度が高い。

K:食育の映画上映をしたり、市民団体もやっているので、お母さんたちと食育の勉強をしたり、料理教室をしています。

日常の豊かさを求めて

N:最終的には、このお店が必要とされなくなることがゴールだと思っています。

K:外食に依存する生活ではなく、家庭料理を豊かにして欲しいという想いがあります。その為、お店にも自然食品を置いています。家庭の調理を大切にすることが一番自分の体を健康にします。
例えば、お客さんが「美味しかったです。」とお話されれば、提供した料理のレシピを渡します。「このドレッシングはこうやって作るので、ご自宅でやってください。」っといった形でオープンソースです。レシピ公開型のお店です。何も隠さないです。秘伝とか無いです。(笑)
逆に、「ご自宅でやってみてください」というスタンスです。

N:サービスではなく、応援です。料理を提供する人対消費者の関係ではなく、生活する人という括りです。「生き生きと、楽しく幸せに生活する為に、応援したい。」そう思っています。
どんどん豊かに暮らしていく人が増えていけば、社会は幸せになると思います。

K:お店に来て欲しいというよりは、「日々の生活を大切にして欲しい。」ということを伝えたいです。

N:あまり押し付けがましいのは良くないと思っていて、日々の生活にちょっと違う選択を入れて欲しい。大きな変化はいりません。

K:大きな変化って続かないんですね。私はランニングをしているのですが、「私の目標は〇〇分」のようにやると続かないんですよ。そうではなくて、日々のランニングを楽しむことだったり、今日も無事に走れたことを喜ぶことが大切であって、目標とか意気込みとかは続かない。

N:日々の生活する中で、無意識なものも含めて無数の選択が積み重なっています。私たちはその無意識下の選択肢を提供したいと思っています。

ストーリーを届ける

K:「いっかく」という八百屋を穂高神社横に新たにオープンしました。
背景には、生産者さんに対する想いがあります。
生産者さん、提供者、お客さんが全てフラットな形であれば良いのですが、現状そうでは無いと思っています。段階構造になってしまっている。

N:生産者さんのファンになって欲しいと思います。野菜への誠実さや、生産者一人一人のキャラクターであったり。まず知ることだと思います。知れる場所を提供する。そして、野菜に対する想いであったりを届けてあげる。

K:農家さんの食材の一部分だけを切り取って、美味しい、まずいだけではなく、もっと背景的な部分も含めて、提供していきたいと思っています。
良いお野菜は調理していると気持ちが良いし、味がしっかり乗っているお野菜は調味しなくても美味しいです。そういうお野菜がなくなるというのは、私たちが提供したいものが無くなったり、私たちの楽しみもなくなってしまいます。生産者さんを支えていかなければ、扱う素材も無くなってしまうので、自分ごととして捉えています。

N:僕は、純粋に生産者さんを尊敬しています。そして、生産者さん達の努力、チャレンジ精神みたいなものをもっと知って欲しいと思っています。
なので、生産者さんに直接赴いて、様々なものを見て、聞いています。そうすると、私自身がその人の生活の一部になっていきます。僕はその人の野菜を使うことによって、応援することもできる。
さらに、長く応援し続けることが大切だと思っています。


その土地で暮らしていくための信用経済だから。例えば大きなイベントをやって、大きな収入が一時的に入るというのも良いとは思いますが、マーケットに合わせた動きをしていくのは、本来の自然の形では無いと思っています。
生活で結び合っていかないといけないと思っている。打ち上げ花火として結ばれている関係は、お金はもしかしたら儲かるかもしれないけど、続かない。農家さんは工業製品を育てているような気持ちになるし、健康とは別の方向に向かっていく。個人の健康、社会の健康を保っていくためには、細く長くやっていくことが大切だと思います。
顔の見える関係性を大切にしたいと思います。支えられる人数は少ないけれど、お金だけの関係性では無いものを構築していきたいと思います。

K:売れなかったものを持ってきてくれる農家さんとか、格外で安くなってしまったものを持ってきてくださる農家さんもいらっしゃいます。作っている人の気持ちを含めた上での野菜を楽しんでもらう場を体験してもらう。料理を食べるだけの体験以外のことを我々は付加価値として提供していきたいと思っています。

N:余ってしまった野菜もできるだけ活用しています。八百屋は、構造的にやっぱり野菜が余ってしまう。でも、余るものは絶対に廃棄したくない。火曜日が定休日なので、月曜日にお店で余った野菜を使ったパーティーをしています。自分たち家族もそうだし、友人家族や、生産者さんを呼んで食事をしています。ただ、食事を楽しむだけでなく、交流の場にもなっています。
こういった取り組みは、もっと展開できると思っています。お家に眠っている乾物や、買ってはみたけど使わない塩とか、お土産で買ったけど食べないものとか。これがいわゆるフードロスというものです。これらを生かして、穂高全体でも一緒に面白いことをしたいと思っています。

最後に一言

ジビエや、野菜料理を生活の中に取り入れたいと考えているけど、どうやったら良いかと模索している方にはお力になれると思います。家庭料理のヒントとなれれば嬉しいです!

人生を発酵させる。|Glocal foods「NAVEL」 崎元 伸郎 /崎元 生歩子 #1

食と向き合うきっかけ

崎元 伸郎さん(以下、N):神奈川県川崎市出身です。川崎なので、ほぼ首都圏で生活していました。自分で料理は作っていましたが、仕事にするイメージは最初は無かったです。自立する為のツールぐらいしか思っていませんでした。

崎元 生歩子さん(以下、K):私は大分県の出身です。中学校にあがるタイミングで単身上京のような形で、寮に入りました。一貫教育の学校です。私は、高校生の頃に色々なきっかけがありました。高校生の頃がちょうどカフェブームでしたし、ヨーロッパに行く機会があって、それから飲食に興味を持ち始めました。なので、料理は高校の時からやっていて、ワインスクールでバイトもしていました。その後、自然な流れで、ホテルで就職をしました。

N:食へ大きく関心が向いたのは、9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が起きたことが大きなきっかけでした。当時、19歳の時です。日本という国に生まれて、今まで何不自由なく何の気なしに生活していた中で、あの事件をきっかけに、社会の深さというか、社会がどう動いているのかに興味を持ち始めました。それと同時に、自分が本当にやりたいこと、社会に必要とされることをどうマッチングしたら良いのかなと考え始めました。
ワールドトレードセンターは、資本主義経済の象徴みたいなもので、それに対して、ショッキングなアプローチがあったということは、経済構造が破綻しているのでは無いかと感じました。なんとなく、自分が責められているとも思いました。自分には、見えない世界がある。そう考えると、環境破壊や、劣悪な労働環境などの色々なことに目が向くようになりました。

K:同じ歳の私自身は、あのニュースを見て、「大変!」と思っただけだったのですが、主人は、社会の裏側とか、なんでこんなに恨みを買うのかと思ったみたいなんですね。

N:我々に見えない生活を知ろうとせずに、我々が幸せに暮らしているというのは良くないのではないかと感じました。
自分の幸福と、社会の幸福をどう両立させようかと考えた時に思ったのが、食でした。
食が1番僕にとって、ポピュラーだし、「美味しい。」と思うだけで誰もが幸せになる。
自分たちの幸福だけでなく、次の世代の環境を考えて、選択をしていくことの大切さを感じました。

私たちが長野に来た理由

K:畑のあるレストランを目当てに、まず主人が25歳になる時に単身で行きました。
付き合い始めてすぐに「僕はもう長野に行くから。」と言われて。(笑)

N:当時、2人とも東京で野菜に特化した同じナチュラルフレンチレストランで働いていました。色々な場所から有機野菜を取り入れたりしていましたが、お店のある場所で作られているわけでは無い。外から農産物を買って来て、ガソリンを沢山使って飛行機や、トラックで運んで来る。莫大なエネルギーを使って運んで来ることに違和感を感じました。

また、畑になっている野菜の姿を知らないんです。(笑)スーパーに並んでいる野菜の味と、形しか知らない。野菜を手にとって、美味しい、美味しく無いの判断だけをするというのは、お客さんに対しても、生産者さんに対しても、不誠実だと思いました。
これから先、料理をやっていく中で、何より自分自身に不誠実だと思いました。
お客さんに対してのプレゼンテーション能力も高めたかったし、創造性の面でも学びたいと思っていたので、畑のある場所で働きたいと思いました。
たまたま知り合いのお店があったので、行ってみたら、すごい居心地が良く、もうすぐ決めました。思い立ったらすぐ行動しちゃうタイプなので、、。(笑)

K:あまり周囲のことは考えず。(笑)私は、主人が長野に行ってから2年後に移住をしました。長野に来て良かったと思います。
私は都会のレストランで働いていて、尖ったサンダルとかを履いて、都会の人ぶっていたのですが、都会にいたら、お客さんにただ単純に美味しいと思ってもらうことや、日々の売り上げの数字に、多くのウエイトを置いていたので、社会的な問題についてまで考える余裕が無い。
当時は、主人と離れて、お店を転職して、キャリアアップを図ったのですが、仕事のサイクルがすごく早くて、体を壊してしまったりといったこともありました。

そこから、飲食の仕事を辞めて、全く違うアウトドア用品や、スポーツウェアを売っているお店に転職をしました。
職場には、アウトドアが大好きな人たちが周りにいて、「長野良いじゃん。」と勧められました。同じ東京の中でも、こういった価値観ってあるんだということに気づけて、長野県が近く感じるようになりました。

穂高である理由

K:穂高にゆかりは特に無いです。(笑)今のお店を3年前にオープンしたのですが、ずっとこの物件が空いていました。穂高駅の目の前の交差点なのに、10年位ずっと空き物件でした。
グレーのカーテンが閉まっていて、売り物件だったんです。

N:本当にカーテンが閉まって、真っ暗だったんです。死んでいたんです。(笑)
でも、僕はそれが宝に見えたんです。「ここは死んでいたらまずいよね。」って思って、ちょっとした使命感に駆られました。場所ありきで、ここの課題は何かと俯瞰した時に、この街が楽しくなることを表現したいと思いました。

K:穂高の駅前のこの場所だったら何をするのが良いかと考えて今のスタイル。
自分のやりたいことと、この街にはこれが必要では無いかという観点を併せ持ちつつ、お店を作りました。
安曇野の土地の食材のポテンシャルはすごく高いので、それをもっと提供できる場所は欲しかったし、農家さんも欲しいと思っている。

N:穂高の駅前に若い子が楽しめる場所が無かった。
でも、無かったら、「作れば良いじゃん。」って思うんですよ。(笑)
なので、文句を言うなら智恵を出そうよと思っています。まず自分が飛び込んでみないと。

発酵と腐敗

K:このお店は畜産のお肉は一切使わずに、鹿とイノシシを中心にジビエを使っています。ジビエは狩猟でとる野生のお肉のことです。害獣駆除をされる中で、その9割が破棄されている現状があります。その中で、たくさんのコスト、エネルギーをかけて畜産のお肉を食べるのなら、山のお肉を食べたほうが良い。

N:「発酵と腐敗」を大きなテーマとして持っています。どう人生を発酵させていくかというのが大きなテーマです。食べ物でもそうです。なので、なるべく食べた後に発酵していくものを使いたいと思って、日々調理しています。食を提供していく責任として、その場で美味しいだけでなく、食べた後の食後感だったり、健康といった長期的な視点として見たいと思っています。なるべく発酵するものを提供していきたい。ジビエは腐りづらいんですよ。さらに、抗生物質や、成長促進剤やホルモン剤は使える余地がありません。
美味しく調理すれば、食べられる高級食材だし、提供したお客さんの健康を長期的に考えられるので、積極的に使うようにしています。

K:原体験としてあるのが、子育てです。豚カツとか畜産のお肉を食べると、ホルモン系のもので太らせていたりするので、授乳トラブルが起きてしまいました。
それが、山肉を食べた時にはならなかったんですよ。鹿肉を食べたら大丈夫だった。
動物的な判断ですが、これは子供に食べさせられるものだと思って。体への負担がすごく少ない。
食味だけでなく、体への負荷を考えた時に、子育ての上でも良いなと思いました。

地元のマスターへの憧れ|カンティーナわん 砂子 慎哉 #1

地元のマスターへの憧れ

私は、富山県出身です。富山県にいたのは中学生までで、高校は全寮制の高校へ1人東京に出て行きました。
当時、親がチャンスをくれて、地元の高校へ行く道と、東京の高校へ行く道を選ばせてくれました。その時に「どっちかわからないけど、東京行った方が良いか。」と思って、飛び込んでみました。

大学へ進学するつもりはあんまりなくて、当時ひねくれていたので、めんどくさいなと思っていました。なんせ全寮制の高校なので楽しみが少なくて、男同士で悪さするだけだったのですが、本を読むのが好きで、ずっと本を読んでいました。
その中で、心理学の本に出会って、読んだ時に、「これ面白いな。」と思い、その出会いから心理学関係の本をとにかく読みあさりました。
「どうせ大学へ行くのなら勉強したいことするか。」と思い、心理学関係の学部、学科を受験し、結果受かったのが大阪でした。

大学4年間は飲みまくって、遊びまくって、勉強しまくってといった感じでした。
ただの学生です。(笑)
当時、アルバイトは飲食関係をしていて、レストランやすし屋、バーのお手伝いをしていました。
その時は飲食をやりたいという気持ちはなく、アルバイトとして漠然と働いていました。
ただ、「面白いな。」という気持ちは当時からありまた。

卒業後は大学院を視野に入れていて、心理学の道で将来進むべきかどうかを悩んでいました。
4年生の1、2月の進路が決まるギリギリの時期に、「大学院はやめよう。」と思いました。
理由は心理学を勉強したかっただけで、職業にしたかったわけではないと途中で気づいたからです。その時に、「自分はどう食べていこう」と先の人生について悩みました。
その中で、自分の人生を振り返った時に、どういう瞬間が楽しかったのかを考えると、小さい頃に行っていた「MOKU MOKU」という地元の喫茶店を思い出しました。
小学生から、大学生までずっと通っていた喫茶店です。
そこのマスターがかっこよくて、喫茶店にいくのが楽しくてしょうがなかったんです。
そこのマスターは船乗りさんとして世界を旅したこともあったり、綺麗な奥さんがいたり、スキーもインストラクター級の腕前で、なんでもできるカッコ良いマスターでした。
全部がカッコ良い。

事業計画書で親を説得

飲食のアルバイトをしていた時に感じていた「楽しいな。」と言う気持ちもあって、「これを職に出来ないか。」と感じるようになりました。
そう思った時にはもう心では「よし。これで行こう」と決めていました。
当時、親に大学へ行かせてもらっていて、大学に行った以上はこれを無にすることは出来ないので、親を説得しなければならないと。
それから、「こういうプランで、こういう業態、席数○席、単価○円、売上○円、私の給料はこれぐらいなります。」と事業計画書を書きました。
実家に帰って、お父さん話があると。これを読んでくれと出しまして。
「そこまで考えているなら、好きにせい。その代り後悔するんじゃないぞ。」
と認めてもらい、そこから飲食の道に入りました。
その後は、事業計画書に書いてあった初期投資の額を貯めければならないと思い、会社員になりました。

とにかくお金を貯めなければならなかったので、大事なポイントはお給料でした。
就職課に行って、残り少ない求人情報を見て、全部受けました。
その中で、一番給料が良かったのが、システムエンジニアでの就職でした。
当時、若干景気の良い時だったので、仕事もあって、お給料も良くてといった環境でした。
大阪で就職をしたのですが、大阪という街は非常に楽しい街でして、稼いだお金は全部飲んでしまい、遊びに使ってしましました。
事業計画書の中に、自分の性格は加味していなかったんですね。(笑)
このままやっていてもお金は貯まらないし、経験も積めないしといった想いで、結局、二年弱で退職をしました。

フランスと松本

その後、一度、実家の富山に戻って出版社で営業をしていました。
実家ならお金が貯まると。
飲食店へ営業をしている中で、仲良くなったフレンチのシェフの方と飲む機会がありました。
そこで「飲食をやりたいが、見習いしかやったことありません。」と伝えると、「お前フランス行って来い!」と言われました。
「おれが修行していたお店に紹介状書いてやるよ。」ということでフランスに行くことへ決めました。
そこからガソリンスタンドで働いたりと、お金を貯めていたのですが、フランスに行く前に、私の同級生とバリ島へ行く機会がありました。
ここに松本に来るきっかけがあります。

同級生とバリ島に着いた後、その同級生のお父さんと合流することになりました。
そのお父さんは松本で飲食や旅館を経営している方でした。
「これからフランスへ料理の勉強をします。」と今後の話をしていると、「フランスになんかに行ってまともな料理人になった人を見たことがない。」と言われまして。
そんなことは無いんですけど。
「君は、日本帰ったら松本に来なさい。新しい店を出すから。」と言われまして、冗談かなと最初は思っていましたが、日本に帰国してのほほんとしていたら、「お前はいつ来るんだ。」と言われ、本気だったんだなと。
とりあえず見学のつもりで行ったところ、そのまま働くことになってしまい、松本で暮らすことになりました。
大きい旅館のレストランです。そこでバーテンダー業務があり、店長業務がありという形です。
本当は今頃フランスに行っているつもりでした。(笑)

今のお店(カンティーナわん)は、当時働いていたお店の隣にありました。
仕事が終わったら毎日飲みに行っていたんです。また、大阪時代と変わらず飲んでいるんですよ。
当時は、雇われている身だったので、「本当はこうしたい。」といったやりたいことが沢山ありました。
どうしても誰かのお店だと上の人の許可をもらったりと、出来ないことが出てきます。
その中でフラストレーションが溜まっていって、「この理想を叶えることが出来ないかな。」と模索すると、むしゃくしゃして、酒を飲むといった感じで。
その時に、私の師匠であるわんさんに、「店をやってみたら?」と後押しをされ、お店を持つ流れとなりました。
最初は店長という形で入って、その後、お店を買い取りました。
当時は、お付き合いしている方と結婚しようと思っていて、「雇われ店長では、結婚できないな。」と思っていたんです。(笑)「男ならば一国一城の主として結婚したい。」という想いがあったので、お願いをして、売ってもらうことになりました。
人生いろいろあります。
その時に、お金も足りなかったのですが、当時、付き合いのあったお客さんがお金を貸してくれたりと、いろんな方に応援してもらい、支えられて初めてのお店を開くことが出来ました。
いろんな出会いがあって、いろんなことを吸収して、そのエッセンスがお店に反映されています。

1本の動画が運命を変えた|Pizzeria Aletta 赤羽 勇治

漠然と一日が終わる日々

出身は長野県松本市です。
高校を出て、すぐ料理人になろうとしたわけではありません。
しばらく父が建設の仕事をしていて、独立するタイミングが重なって、一緒に働いていました。内装業です
期間は、5年ほどです。
将来したいことが定まっていない。夢も無く、ただただ一緒に働いているだけでしたね。
ただ、日々を過ごしていました。
その時は、父親の後を継いで、「建築の仕事をこれからやっていくんだろうな。」と思っていました。

一本の動画が運命を変えた

料理は、家で自分の分を作るぐらいはやっていました。
今の仕事に就くきっかけは、ある時、「ピザを作ってみたい。」とふと思ったことです。
作り方が分からないので、インターネットで調べました。
調べている中で、そこでたまたまピザを回している人の動画を見て、「なんだこれは!」と衝撃を受けました。
その動画はピザを作っている動画ではなく、生地を振り回してお客さんを楽しませている海外の動画でした。「こんな世界があるのか。」
自分が考えていたものとは全く違っていたことが衝撃で、「おれもやってみたい!」と思いました。

調べていくうちに、ピザ生地を伸ばす練習用のゴムが売るっているのを知り、すぐに通販で買いました。
それからは見よう見まねで練習をしていて、最初は趣味の感覚です。
そして、美味しいピザが作りたいのではなく、とにかくピザを回したいという感情です。(笑)
仕事が終わって家に帰ると、そこから公園に行って、回しての繰り返しです。
料理とは全然違っていて、大道芸に近いと思います。

ピザ回し日本大会へ

参考動画はあったのですが、早すぎて最初は何をやっているかわかりませんでした。(笑)
「教えて欲しい。」という気持ちを持っていたので、そういった場がないかと調べていると、練習用ゴムの販売元にピザ回しサークルがあることを知りました。場所は埼玉です。
月に1回ぐらいで、開催されているサークルだったので、なかなか毎回行くことが出来なかったのですが、2、3か月に1回のペースで参加していました。

そして、長野、埼玉で練習しているうちに、ピザ回す日本大会が初めて行われることを知りました。
それが2012年です。
サークルのメンバーから「出場してみない?」というお声掛けが合って、せっかく練習しているのであれば大会を目標にしたいと思い、大会開催日に標準を合わせて練習をし、大会に出場することを決意しました。
大会には3つ部門がありました。
職人向けの生生地の部門、練習用のラバーでパフォーマンスをするラバー部門、500gの生地をどこまで大きく伸ばせるかのグランデ部門。

ピザ回しに出会って1年目の時です。
私はラバー部門で出場し、1年目だったのですが、勝っちゃいました。(笑)
お店にもメダルを置いてあります。

ラバーと過ごした半年

大会に出場するまでの練習期間は約半年でした。
半年と聞くと短いと感じるかもしれませんが、その半年間は本当にみっちりやりました。
始めた1年目は気持ち悪いぐらいに練習していましたよ。(笑)
仕事するか、練習するかの2択でした。
家の近くに公園があるのですが、仕事終わったらすぐそこへ行って、ラバーが真っ黒になるまで練習して、家に帰った後は、ラバーと一緒にお風呂に入って洗ってあげるという生活をしていました。(笑)


当時は、ピザ回しを始めるきっかけになった動画の衝撃が強すぎて、何も考えずに練習し続けていました。
「こんな風になりたい!」の一心です。
大会が行われる数カ月前の夏に公園で練習をしていたら、たまたま見ていた方に、「上田の夏祭りの催し物の1つとしてやらない?」とお声をかけていただいて、大会前の度胸試しではないですけど、多くの人の前で披露する機会を頂けました。
それは、すごい良い経験になったと思います。
長野県でピザを回す人が私しかいないので、一緒にやる仲間はいなくて、孤独でしたが、周りで見てくれる人や、応援してくれる人がいたのでそれが励みになって続けることができました。

ピザを“回す”から“食べてもらう”に

大会主催の協会の方が関東でお店をやっている人でしたが、優勝したことで、その方から「うちのお店おいでよ。」とお誘いを頂きました。
「ピザ職人としてスキル身につけてみない?」ということで今まで趣味でやっていたものから本格的に学ぶことに決めました。
今まで、ピザは回していましたが、料理人としては素人だったで、料理の技術を学びにいく為です。
松本に帰って、父親に「おれピザ職人になるわ。継がない!」と話をしました。(笑)
翌年に仕事を辞め、先輩たちのいる埼玉のお店で働き始めました。

埼玉のお店では3年間働いていました。
働き始める時に3年と区切りを決めて、3年終わったら自分でお店を持つことを決めていました。
これはお店にも伝えていたことです。
この3年間では、パフォーマンスと料理はもちろん全然違うので、たくさんの壁にぶつかりました。
ピザを見てもらうのではなく、ピザを食べてもらうので、味の部分は苦戦しましたね。
美味しいモノを提供するという事には、ほぼ未知だったので。
壁を1つ1つ乗り越えていく中で、3年経った頃にはある程度自信がついて、自分自身で納得が出来るほどになりました。
そこからお店を出す準備を進めていきました。

お店を始めてからの苦悩

物件は、イメージしていたものがあって、物件を探している中でイメージと近いものがあったので、ここで勝負しようと決意しました。
オープンは今年の3月28日です。
オープン前に考えていたことと違ったことは、正直結構あります。(笑)


長野から関東へ出て行って、ピザ屋さんで働いていましたが、向こうだとそもそも人が多いですし、やればやっただけ出るしという状況でした。
その為、松本でもお店を出せば、成功できるだろうなと思っていました。
実際に、お店を持ってみると、若さ故の勢いと甘さしかなかったと感じています。オープンから1年経ってみたら、自分がやりたかったことだけしかできていないという印象です。
やはり、お客様あっての商売なので、私がやりたいことだけやっていれば良いわけではない。そういう学びはありました。
お客様が求めているものを出さなければならないので、「ピザ回してすごいでしょ!」「このピザ美味しいでしょ。」だけではうまくいかないことを痛感しました。
ピザだけやっていれば上手くいと思っていたけど、そうではないんだって。
夏暑くなってきて、お客様がピザ食べたいかといったらそうでもないし、
かき氷のほうが出るし。(笑)
縄手通りは、観光地なので冬は全然人通りがないんですよ。
埼玉であれば、人が一定数いたので関係なかったのですが、、、。
こういう地方の観光地は売れ幅があるので、正直冬はきついです、、。
いろんなことを想う中で、考え、行動の繰り返しで、試行錯誤のしている状態です。
本当にたくさんの事を学びました。

今後の展望

自分は散々ピザを回してきて、もともとが料理人ではないので、他の皆さんも僕のこと料理人と思っている人っていないと思うんですよ。(笑)
なので、個人としてはパフォーマーではなく、1人の料理人として認めてもらいたい。
回す大会ではなく、料理の大会で結果を残せればと思います。

お店の事に関しては、信州の誰もが愛してくれるメニューを1つ作りたいなと思います。
地元の人の馴染みになるメニューです。
地元の食材を使った、ここでしか食べることのできないメニューを考えています。

私のプライベート

休みの日もピザを作っています。(笑)
熟成製法という作り方があって、生地を3日間寝かせる作り方です。そうすることで、よりおいしくなったり、香りが良くなったりします。
水曜日が定休日ですが、水曜日も仕込まなければならなかったりするので、休みの日もピザをつくっているという事です。(笑)
自分がやりたくてはじめたことなので、しばらくは良いです。(笑)

最後に一言

イタリアンレストランは敷居が高くて、子どもがいると騒いでしまったりと、なかなか家族で来れないのではないかというイメージを持たれていると思います。
ですが、この店はむしろお子様に来てもらって、ピザを回すところを見てもらって、騒いでもらいたいなと思っています。
その為、キッズスペースも用意しています。
アットホームな空間を用意しているので、気軽に足を運んでください!!

Mr Sunday Trip|Sunday Life Coffee and Store 和田 幸夫

捨てられない想い

出身は松本市です。
小さい頃に長野市に引っ越してきまして、小中高と長野市の学校に行っていました。
大学卒業し、長野市で就職しましたが、何年間か経ち、「東京に出たいな。」という気持ちが出てきました。
その頃は、インテリアに興味があって東京で様々なものを見たいと思い始めた時期でした。

東京から帰ってきてすぐは、飲食とは全然畑違いの足場の仕事をやっていました。
とび職です。6〜7年やっていました。当時、30半ばを超えたぐらいです。
仕事中、足場を作っている最中も、「何か違うな。」というどこかモヤモヤした気持ちを抱いていました。

夢に近づく1つの出会い

一番最初に飲食に携わったのは、長野市のホテルの1階にある食べ飲み放題のレストランです。
友人のツテがあり、お世話になった流れです。
半分アルバイト、半分就職みたいな形でホールを担当していました。
ホテルで勤めたのは2、3年です。

ホテルに勤めている中で、1つの物件との出会いがありました。
それは、今もお店の一部になっている長野市にあるカウンターだけのお店です。
当時、このお店は夜にバーを営業している為、昼間は何も使われていませんでした。

この場所でお昼のお店をやりたいと考えましたが、1つの物件をシェアするといっても、うまくいくものでは無いと思っていました。いざ、バーのご主人に話してみると、ざっくりな方で、「家賃を折半するのであれば、昼間やって良いよ。」という話をいただきました。
すぐに自分のお店を持てなくても、お店をやりたい気持ちと、現実の収入とのバランスをとりながら、まずは自分ができるところから始めようということで、週3日からお昼の営業を始めていきました。
この形で4年やっていました。

現在は、バーのスペースを広げて、隣の物件をメイン営業をしていますが、これも、また一つの偶然がありました。
隣の物件がたまたま閉店されるということです。
「“自分のお店を持つ”という夢を実現したい」という想いと、「こんなタイミングはそうそう無
い」という想いで、お店を広げる形で営業を始めました。

Mr Sunday Trip

昔から、服やインテリアが好きでした。
入り口はこういったところにあるのですが、カフェの雰囲気や、カフェで働いている人のイメージが、自分が好きなインテリア、洋服と重なる部分がありました。
当初、洋服屋さんをやりたい気持ちもありましたが、服、インテリア、カフェが総合的にできる場所があればということで、こういった業態に落ち着いています。

なので、店内には自分の好きなインテリアや雑貨を置いています。
お店を開くにあたって、再度買ったものもありますが、ほとんどが私の家にあった家具を店内に置いています。
自分の趣味で集めていたものです。(笑)
食事を提供する食器も全て統一して、揃えるというよりは、一点物にこだわって集めています。

このお店のコンセプトは「Mr Sunday Trip」という仮想の人物が、世界中を旅して、集めてきたものを、時代を飛び越えて自分の仕事場に飾っているといったものです。
お客様には、アンティークな空間を楽しんでいただければと思っています。
当の本人はいたりいなかったりですが。(笑)
私がいない時にいるかもしれないですね。(笑)

お客様にはとにかくゆっくりしていって欲しいと思います。
あとは、私が喋り好きのもあって、会話を楽しんでいって欲しいです。(笑)
私はそんなに沢山のものを作れるわけでは無いので、お客様と話をしながらコーヒーを淹れる空間を作っています。

お店のメイン部分は中性的なイメージで作っていますが、カウンター席の方は、武骨な男の空間を作っています。
1つのお店で違った表情があります。
是非、そういったところを楽しんでいただければと思います。

この場所を通して

私自身がこの辺の地域のファンで、色んな飲食店で顔を出したり、お店の店主に「いつかお店をやりたいです。」と話したりしていました。
やりたいことを口に出していた結果、誰かしらが聞いていてくれて、人を繋げてくれたことで、今こうしてお店を開けています。
私がこういった経験をさせていただいたので、このお店を食事を食べるだけでなく、人が繋がる空間にできればと思います。

“やりたい!”を叶えるヒント

ここまで来るのに、様々な仕事を経験してきましたが、「自分でお店を持って自由に働きたい。」という気持ちは持っていました。
ですが、なかなか自分の中で最後の一歩を踏み出せなかったり、その時々で問題があったりで出来ない日々を過ごしていました。
ある時に、様々なタイミングが重なって、「今だ!」となんとなく感じる時があり、「今動かないと一生このままだな。」と思い、私は、踏み切ることができました。

何よりバランスが大切ですね。
行動した先のリスクを考えた時に、完全にそのリスクを背負って、行動する必要はないと思います。
例えば、「飲食店をやりたい」と思った時に、週2、3から始めても良いと思います。
今は、趣味から始めることもできるので、「やるか」「やらないか」ではなく、もっとグラデーション的に考える。
そして、徐々にやりたいことの比重を増やしていけば良い。
そうすれば、より自分の「やりたい」に近づけると思います。

あとは、あまり深く考えないことです。(笑)
考え出したらマイナス要素は沢山あるので、、、。
一年の短さを考えたら、本当に人生は短いです。
やる気はお金では買えないので、やる気があるうちに行動する。
これが大切だと思います。

プライベートでは

面白い空間のカフェ巡りが昔から好きでした。
時間を忘れて、様々なお店に行くことが好きですね。時間はけっこう気にしてしまいますが。(笑)海外旅行も行きたいなと思います。(笑)

最後に一言

中央通りから入ってきた、小道にお店があります!入りづらいかもしれませんが、是非一度入って来てみてください!

三代食堂である理由|三代食堂 岡部 賢二

自分がやりたいことは

出身は茨城県です。大学進学時に上京をして、4年半ぐらい東京で暮らしていました。卒業後は、茨城に戻って、栄養士の資格を取りました。
このきっかけは、大学時代のアルバイトにあります。

アルバイトは、とんかつ屋で3年働いていたのと、他には居酒屋や、ホテルで働いていました。良いバイト先であったんですけど、とんかつ屋は近所だったという理由でやっていたので、どちらかというと、何となくやっていた感じです。
とんかつ屋では、最初は皿洗いからなのですが、盛り付けや、かつ丼作りまでいろいろなことを任せてくれました。当時は、「すごい楽しい。」と感じていましたね。

大学の後半から卒業に近づくにつれて、大学では全く関係ないことを勉強していたけど、漠然と「飲食店をやりたい。」という気持ちが芽生えてきました。
そこで、食に関してちゃんと勉強したいという想いから、地元の茨城県に戻り、栄養士の専門学校に入り直しました。
結構東京嫌になっちゃって、、。(笑)
殺伐とした感じとか、疲れてしまったのもあって、田舎に帰ろうと決めました。
別に東京に居続けて、資格を取る必要はないと感じていました。

1人の上司との出会い

専門学校の卒業後は、たまたま職場が長野県に決まって、委託給食と言う形で、老人ホームであったり、学校であったり、その場所にあった給食を作る仕事をしていました。


最初の配属は、老人ホームでした。期間は、1年間です。
その後は、約二年間、池田の方にある障がい者施設で食事を作っていました。
そこで1つの出会いがありました。

私の上司は、もともと京都の割烹で修行をしていた方です。
その上司は、「給食業界はなめれられている。」と言っていて、例えば、カレーを作るにしてもレトルトを入れて、食材を入れて完成となる。料理に凝る習慣がなく、技術を向上するという姿勢が見られないんですね。
それで良いんですけど。食べる側も完成度を求めていないから。
でも、その上司はたまたま働く場所がなく、入りやすい給食業界に入ってきたのですが、技術はあるので、給食だけど、給食らしからぬ味を出すんですよね。(笑)
味付けの段階でダシの比率や、味付けの順番など細かく調整していく。
そこで基本的なことを教えてもらいました。
調理師学校時代の勉強を、上司に弟子入りする形で実践へと変えていきました。
その出会いがなければ、今どうなっていたかわからないですね、、。(笑)

オープン前に山小屋に!?

その後は、2017年4月頭ぐらいに会社を辞めさせていただきました。
前職で働いている時には、もうこの物件は決まっていたので、お店を開く準備をしていたのですが、もろもろやっているうちにお金が足りなくなってしまって、、。(笑)
車も売ったりしたんですけど、サラリーマン時代の貯金でお店を完成するには、足りない状態でした。
また、そこで1つの繋がりがありました。

ここ1年ほど「ヒーターズ」というバンドをやっていて、そのギタリストのオーナーが、山小屋を経営していました。そこから「一緒に働いてみない?」という話をもらって、昔から山には興味があったので、2017年の夏に4ヶ月ほど山小屋で働いていました。
ある程度、お店の工事を出来るところまでやって、あとは6月末から4ヶ月山に行って稼いでいました。
山での業務は、基本的に小屋番と言う受付と、料理が出来るのもあって食事提供もしていました。あとは、道直しという作業があって、登山客の方が登ると道がどんどん崩れてきて、危なくなってくるので、その道を石で固定したり、歩きづらくなってしまうのを砂利で埋めたりしていました。
雪が積もっている時は、ベンガラというチョークがあるんですけど、真っ赤な粉を撒きに行ってマーキングをしたりもします。
そのような生活を送っていました。

予期せぬ事態

山小屋に帰ってからもすぐにお店のオープンはできませんでした。
そこからさらに4ヶ月ぐらいかかってしまって、、。
そもそもここの物件の状態が借りる前はひどい状態だったんです。
大体2ヶ月間山に行く前に基礎を作って、その後、山から下ってきて4ヶ月で上やって、キッチン作ってと言う感じで。思ったより時間がかかってしまいました。

ほぼ、全て自分の手でお店を作ったのですが、みんなやろうとしないだけで出来るんです。(笑)
最初は手探りでやっていて、昔の建築誌を見て「こういう感じにしたいな。」というイメージを持ってやりましたけど、出来ましたね。(笑)
会社辞めてからは、工期が半年、山に行っている期間を含めてほぼ1年かかりました。
オープンは4月3日です。

本当は3月27日ぐらいだったのですが、あばらを折ってしまって、、。(笑)
最後の最後で怪我をしてしまって、2週間ほど延ばしてもらいました。(笑)
めっちゃ高いところならわかるんですけど、70cmぐらいの椅子から結構な勢いで落ちて、、。(笑)
死ぬかと思ったぐらい痛かったですね、、。(笑)
でも、オープニングパーティーは、予定通り開催しました。
店内をステージにして、ライブをやったりして、いろんな人が来てくれて。
結局、当日は興奮しているので痛み感じないんですよ。(笑)
それで乗り切ったのですが、オープニングパーティー終わってから病院に行ったら「やっぱ折れています」と言われて。(笑)
オープン前にものすごいださい怪我をしたという。(笑)
忘れられないです。(笑)

食堂、店名へのこだわり

小っちゃい頃から町の大衆食堂みたいなところに連れて行ってもらっていました。
その後、年を重ねていって、上京して学生をやって、そこで通っていたお店の偉大さに気づきました。
上京して茨城を離れた後に、飲食店をやりたい気持ちがあったので、いろんなお店に行きました。
その中で、昔通っていた記憶に残るようなお店を超える店が何1つ無かったんですよ。
本当に1個もないぐらい無くて。


単純に自分の舌が合っているというのもあるんですけど、何年か毎にブームがあって、料理の技術や食材とかの様々な変化があっても、人の味覚に訴えてくるその美味しさは普遍的で変わらないと思っています。
自分にとってそれが食堂で再現できればという想いがあって、自分の原体験が続けられる場所ができたらと思いました。

「三代(さんだい)食堂さんですか?」とよく聞かれるんですけど、三代(みよ)です。(笑)茨城のひたちの方だと名字でよくあって、母親の旧姓も三代(みよ)でした。
そこからきています。もう1つの理由は祖父の魚屋にあります。

私の祖父は、茨城で魚屋をやっていて、昔は築地で働いていた経験があります。
今も、お店はあるのですが、受け継いで、店主をやっていた、母親のお兄さんが10年ぐらい前に亡くなってしまって、今は、お兄さんの奥さんがお店をやっています。お兄さんには、魚のさばき方を教えてもらったり、すごい優しくしてもらった記憶が今でもあります。
店名は悩んでいて、自分の名前を冠するのには抵抗がありました。しかし、魚屋もそろそろ閉めるという話もあって、同時に自分が「継ぎたい。」という想いもありました。
字は三代(さんだい)で、魚屋ではないけれども、祖父、母、自分で三代目という意味もありますし、三代(みよ)という姓を継ぎたいという想いはすごいあって店名に込めました。

1人で来られる空間作り

自分が落ち着ける場所がすごい欲しいなという気持ちがありました。
茨城や東京にいたときになんとなく落ち着ける場所の条件が、“ちょっと暗めで”“外からあまり見えないけど、外の景色は見える”
そういうお店だと「入りやすいな。」という気持ちになって。

1番優先しているのが、お1人様、もしくは、お2人様の席が一番良い位置にあるという事です。


1人でふらっとごはんとか食べて、リラックスできる環境が良いなと思っていて、なにもしらない店に対面式のカウンターだとちょっと緊張したりするじゃないですか。
お店の人は、喋り慣れているから良いのかもしれないけど。
それを解消するためのスペースを作ってます。
1人用のカウンターは対面式ではなく、外が見える特等席。
「自分だったらどういう店に居続けたいか。」を基本のベースにはしています。

自分がやっている音楽の要素もお店に反映させています。
ミクスチャーというか、音楽だとビートルズの後に出てきたプログレシブロックという60年後期から出てきた音楽が好きで、音楽だけでなく芸術とかとかをまぜこぜにしているものです。もともと分析が好きで、音楽もいろいろ混ざっていると楽しいんですね。建築とかも昔の雑誌と今の雑誌を見比べたり。一見合わなそうなものも混ぜて、お店作りはしていました。

私のプライベート

ずっと音楽をやっているので、その繋がりが今、面白いと思っています。バンドもそうですけど、ソロでもやっていて、三軒隣の「Give me little more」が面白い外国のアーティストを呼んだり、たくさんライブもやるので、すごいインスピレーションが湧く場所になっています。
ソロの時は、結構めちゃくちゃなライブをします。(笑)エフェクターを使って、カリンバと言う民族楽器があるんですけど、どんどんループしていって、、、。
いろいろあるんですよ!(笑)ちょっと説明しづらいので会場に見に来てもらえば!(笑)

最後に一言

これから毎年店を2か月ぐらい閉めて、山小屋に行くと言うサイクルをやっていきますが、うちの店を忘れないでください!!(笑)

ここまで来れた一つの想い|CAFE THE GROVE 由比ヶ浜 秀嗣

いつも見ていた親の姿

出身は長野市です。小学校の時に松本市に引っ越しました。その後、大学進学を機に神奈川へ行き、大学卒業後は二年ぐらいイギリスへ行っていました。
イギリスから長野へ戻ってきたタイミングが、ちょうど冬季オリンピックの時だったので、オリンピックのお伝いをしたりしていました。それから飲食の世界に入った流れです。
もともと親が今、お店をやっている場所でラーメン屋をやっていたので、飲食には小さい頃から馴染みがありました。その為、親の姿を見ていたからなのか、飲食に対しては構えるものは無かった記憶があります。

自分が好きなこととは

大学卒業後は、親のラーメン屋を継ぐつもりは全く無くて、サラリーマンするつもりでした。
就職活動はちゃんとしてはいましたが、「自分は何をしたいのだろう。」を整理していった時にサラリーマンになることに違和感を覚えたことも確かです。
そこで大きな影響を受けたのはイギリスへ行った経験でした。

イギリスへ行く目的は、英語を覚えることでした。
ですが、生活している中で、イギリスは見たことのない様々なお店があって、「こういう店カッコ良いな。将来的にこんなお店を持てたら良いな。」と漠然と思うようになっていました。
こういった気持ちを感じていた中で、「何したいのかな。」といろいろ考えた時に、「人との繋がりが自分は好きだな。」と感じていました。人と話したりといったことです。
実際に、いろんなものを見て、経験することで気持ちの変化が起きてきました。
最終的には、自分でお店を開いても面白いのかなという気持ちはどこかにあったと思います。親を見ていてというのもありますけど。
その中で、「最終的な目標が見えているのならば、最初からやっても良いのではないか。」という想いが出てきました。
これが飲食に飛び込むきっかけです。

一番幸せな手段

この人の繋がりを感じたのは、大学時代のアルバイトです。
レストランや、ホテルの配膳の仕事の飲食関係やお土産屋さん、ガソリンスタンドも経験していました。
“人の繋がり”だけを考えた時に、極端な話、飲食でなくても良かったかもしれません。
ガソリンスタンドでも人と関わることが出来て、どうコミュニケーションとるかを考えながらやることに楽しみを感じていました。
そう考えると、売っているものが違うだけで、接客という意味では同じです。

それでもなぜ飲食なのか。自分自身が食べるのが好きだったし、とにかくコーヒーが好きだった。人と繋がる仕事を考える中で、「どうせなら好きなことをツールに仕事にしたい。」と思うようになりました。
より自分が楽しめる。

飲食人生の第一歩

実は、親のラーメン屋を一度継いでいます。飲食をやるにしても経験がないといけない。そこで親のラーメン屋を継ぎました。

さらに、もう一店舗出す時に自分のやりたいコーヒー屋をやろうと決めていましたが、結局コーヒー屋をやるにしても、自分はずっとラーメンを作り続けなければならないし、「これはダメだ!」と。(笑)
コーヒーのアイデアはどんどん出てきたけど、ラーメンのアイデアは出てこなくなってしまった時期でした。
とはいっても、お客様からお金は頂いているので、このような気持ちでお店を続けるのは、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
自分で作ったものを潰すのは良いですが、親が作ったものを潰すことはしたく無い。
であれば、惜しまれつつ閉店という形を取りました。

しかし、その当時は大人という大人に猛反対されました。

開店までの大きな壁

「せっかくお客さんが入っているのにどうしてコーヒー屋にするの?」
「コーヒー屋なんて儲かるはずがない。」
会計士、銀行、両親、周りの人から猛反対です。
銀行の人にはコーヒー屋をやらない方が良い理由のレポートも出されたりして。(笑)
それは結構きつかったです。(笑)
でも、そのままでは悔しいので、次の日にはどうしてやりたいのかというレポートを銀行に返しました。(笑)
その当時は仕事しながら、銀行を説得して、会計士さんを説得してと、走り回っていました。

でも、ある時から「こういう事出来ますか?」「できますよ。こういう事も出来ますよ」のように、自分がボールを投げたら2つ3つになって返ってくるようになってきました。そうなると自分の中で導かれているのではないかと感じる部分もあって、根拠のない自信、勘違いとも言うんですが、、。(笑)
上手くいく気が何となくしていました。
でも、今、同じことをやろうと思ったら本当に嫌です。(笑)

辛くてもやり続けられた理由

やっぱり、「ただただ、コーヒーが好きだった。」
これにつきます。
コーヒーは子どもの頃から好きでした。コーヒー牛乳から始まって、次は、ミルク、砂糖を入れてと、ずっとコーヒーは好きで飲んでいました。
これは、親の影響もあります。親がコーヒー好きで家に常にコーヒーがある状態だった為です。
コーヒーが好きで調べていくと、いろいろ見えてくるものがあって、「コーヒーって奥深い」「面白い」と感じるようになりました。

コーヒーから生まれた違和感

ある時からただ、コーヒーを飲むだけではなくなりました。

単純に飲み物として面白いし、視点を変えてみると、生産国からは稼ぐ重要なモノになる。
当時、フェアトレードという言葉を良く聞く時代でした。
なんとなく自分の中で、それはチャリティーと同じ感覚があって、言葉自体に違和感を覚えていました。オープンしてからも考えていたことの1つです。

ある時に出会ったのが、コーヒーハンターと呼ばれる川島良彰さんの記事でした。
その記事を読んだ時に、「これだ。」と思うものがありました。
その記事には、「フェアトレードは一過性の側面が強く、お金持ちの国が貧しい国を支える構図が見える。そうなると、常に生産国は貧しくないとならないよね?」という問いでした。これを読んだ時に、モヤモヤが取れて、この記事が自分の想いがうまく言語化されていると気付きました。
美味しいモノを作っている生産国にはちゃんと対価を払わなければならない。
そして、最終的にコーヒーをカップにした時に、お客様が「美味しい」と飲んでもらう。中間業者、焙煎業者、消費者も泣くことが無く、コーヒーを通してみんながハッピーになる。こういった持続可能な世界が作れれば、みんながハッピーになれるよねと。
フェアトレードはもちろん良いと思っています。ですが、1つのきっかけにしかならないと感じていて、より一歩進んだ時にそれが持続可能になればよりハッピーになれると思います。生産国を貧しく位置づける必要は全くないと思いますし。

お店に散りばめられたこだわり

このお店は、以前のログハウスのラーメン屋がベースになっています。
店づくりのコンセプトは、男の人も気軽に来れるお店です。


カフェは女性が行く場所というイメージが少なからずあると思っていて、そうではなくて男の人も気軽に行ける場所が作れればと思っています。
“木”“レザー”“鉄”をキーワードにして、男ぽっさをアピールしたいと思っています。

例えば、お店の入口も鉄骨を使っていて、この色にはすごいこだわりました。
イメージの色味を出すために一回酸のプールにつけなければならなくて、関西に鉄骨を持っていって作ってもらいました。(笑)
そういったこだわりが店内に散りばめられています。
床もあえて隙間を空けているように、洗練されているよりも、武骨な感じを作りながら、隙がある不完全さを出しています。

隣には、ビーンズショップがあって、土蔵を使っています。
もともと祖父が管理していた建物で、よく言っているのは家の形をしたゴミ箱状態でした。当時、祖父がなんでも入れてしまっていたので。(笑)
それを1人で分別して、ごみを捨てに行ってというのを続けて、お店に使えるようになりました。
松本は蔵の街で色んな場所に残っていますが、うちの蔵は雰囲気が全く違います。
外見は当時のままですが、中を完全に洋風に振って、内と外にどれだけのギャップを作れるかを意識して作っています。蔵なのにシャンデリアがあります。(笑)

お客様の物語を感じる

オープンして12年目になります。
12年間お店をやっていると、結婚してなかった人が結婚しました。子どもが生まれました。といったようにお客さんの物語がどんどん進んでいて、一緒に共有できるというのは面白いと感じています。お店も成長していきますが、お客さんと一緒に歩んでいるんだなと実感しています。なので、お店としてもどれだけお客さんの傍らにいれるのかというのは同時に考えます。
入籍した日にお店でご飯を食べてくれた人が、毎年結婚記念日に来てくれたりして、そういうことがあるとやっぱり嬉しいです。
新しい出会いがあれば、転勤でいなくなってしまうお客さんもいますが、お客さんの物語を、お店をやりながら感じています。
今日も子連れの家族が来店してくださいましたが、「次は子どもが1人で来れるまで続けられたら良いな。」とか思いますね。

私の逸品

今までいろんなコーヒーの種類を扱ってきてそれぞれに思い入れはありますが、その中でも特にタンザニアに思い入れがあります。

それは、自分が一番好きなコーヒーだからです。人間って正直で自分が好きなコーヒーを淹れていると、普段より勝手に力が入ると言うか、「この豆のもっと良いところ引き出してやろう。」と無意識に思ってしまいます。
もちろん全部の豆をそう思っているのですが。(笑)
コーヒーの仲間を作っていて、他の焙煎業者の方にもタンザニアは好評なので、是非飲んでもらえたらと思います。

私のプライベート

バイクに18歳の時から乗っています。ずっと直しながら、同じバイクを20年間乗り続けています。湘南爆走族読んでいました。(笑)
今の時期だとビーナスラインが気持ち良いですね。
普段、お客さんとお話しさせていただいているので、休みの日は一人の時間を大切にしています。多くこういった時間をとれるわけではないですが、意識してとるようにしています。
バイクは一人で行って、走ってとすごく良い時間になっています。

最後に一言

「コーヒーを通して、生産者からお客様まで皆がハッピーに!」

この願いを込めて、カフェ、ビーンズショップともに営業しています!
是非、足を運んでください!

世界中の人に会える場所|Healthy Penguin Cafe ルーニーマイケル/ルーニー千春

松本で生活した理由

喋るのへたくそだからな、、、。(笑)
無理だよ、、、。(笑)

もともと料理がすごい好きで家でよく料理を作っていました。
「カフェを開きたい。」という思いはもともと持っていて、松本に来てから4か月ほどカフェで働いていました。
でも、実際は、松本に来てから4か月後にオープンするなんて思ってもなかったよね。(笑)
当時は「いつか開く。」ぐらいに思っていました。(笑)たまたま良い物件が空いていたのです。

私はオーストラリア出身ですが、オーストラリアでの仕事に飽きてきて、新しいことをしたいと思っていました。それが松本に来た一番のきっかけです。少し日本語を勉強したことがあるので、日本語を覚えたかったこともあり、ワーホリで日本へ行きました。
そこで今の妻に連絡をしたんです。
妻は、学生時代にワーホリでオーストラリアに来ていた経験があり、そこで出会いました。それからはずっとお友達の関係でいたのですが、私が日本へ行く時に、妻以外お友達がいなかったので、当時、会った以来に連絡をしました。
その後、付き合って、結婚して、、、。(笑)

それから、日本でまずは二人で長く定住する場所を探していました。
私は、スノーボードが好きで、最初、新潟や北海道のスキー場で働いていた経験があります。長野はスノーボードも出来て、妻の実家である神奈川にも近い。
オーストラリア人の友達が松本に住んでいて、「すごい良いところだよ。」ということも言われていました。
実際に住んでみると環境的にも東京よりも人が少なくて、ゆったりとしたペースが良い。
松本のことがすごい好きになりました。

店名に込められたエピソード

妻にプロポーズをする時に、オリジナルなプロポーズで伝えたいと思っていました。
そう考えた時にペンギンのプロポーズの仕方がすごい可愛くて、そのようにプロポーズをしました。
オスペンギンがプロポーズの時に、メスペンギンに小石を渡すんです。
メスペンギンがその石を拾い上げたら、結婚成立です。(笑)
本当です!!(笑)

なので、私は、プロポーズの時にフォトアルバムと石をあげました。
そこから「ヘルシーペンギンカフェ」という名前が付けられています。
あとは、ヘルシーはカフェの象徴的な言葉なので、覚えやすい名前かなとも思います。
それから、友達からも親からもペンギンにまつわるプレゼントをもらうようになりました!(笑)

カフェを通して私たちが出来ること

カフェは去年の12月にオープンしたので、半年を過ぎたくらいになります。
お店のこだわりは、100%植物性原材料を使用していて、卵や乳製品などの動物性の食材は一切使っていないこと。
どんな人でも楽しめるというのは私たちのやりたかったことです。様々な食事制限がある人がいるとは思うのですが、この場所に来れば誰でも楽しく食べることが出来るというのが良いかなと思いました。
環境問題や、野菜、果物の持つパワーを意識していて、このお店にきて「体の調子が良いな。」と思ってくれれば、良いかなと思いました。
私達も普段から食にすごい気をつけているので、その想いを反映しています。

このようなカフェの形になったのは、自分でビジネスをするのならば、社会や環境問題、自然に貢献できるようなビジネスをしたいと思っていたからです。
オーストラリアには健康や、環境問題に配慮したカフェはとても多くあります。
例えば、ストローをステンレスにしてプラスチックは使わないことや、ラップを使わないといったことです。
私達もこのようなビーガンカフェがすごい好きで通っていたのですが、松本にはこういったお店がないと思っていました。
ただ、良い空間、美味しい料理を提供するだけではなく、環境問題などを考えなければならない時代かなと考えています。
今、子どもがいて、将来のことを考えるとすごい大切な問題かなと思います。
ビジネスとなるとこういったことに目を向けるのは難しかったりするのですが、意識してお店づくりをしています。

世界中の人に会える場所

お店をオープンしてから半年以上経ちましたが、オープン当初思っていたよりやることが多いと感じています。(笑)
そういった大変な部分もありますが、お客様から「美味しかったよ」「また、来ます」といった言葉をたくさん頂けることがすごくうれしく思っています。

また、お店をやっていて好きなところが海外のお客様がたくさん来店してくださると言うところです。松本市は東京みたいな大都会ではないのに、世界中の人の会えるんですよ!
旅人に会えて、いろんな旅の思い出を聞かせてくれて、自分も旅をしているような気分にしてもらえる。ヨーロッパ、南米、北米、アジア、世界中から来店されます。
特に、私はスコットランド人であり、オーストラリア人であるので、同じ故郷の方が来るのは地元の話ができて嬉しいです。
これは想定していない本当にうれしい誤算でした。
松本には、すごく良いコミュニティーがあります!
結構外国人通しの知り合いも多いんですよ。

Healthy Penguin Caféのこれから

今、カフェを中心に営業していますが、イベントなどを通していろんな方が来られる場所になって欲しいと思っていて、コミュニティーとしての機能を充実させたいと思っています。ここのお店に来て下さるお客様同士が仲良くなる姿を見ると、とても嬉しい気持ちになるので、こういったことが多く起きてほしいと思います。
「Healthy」という言葉には食事だけでなく、いろんな要素があるかと思います。
なので、ヨガなどといった様々なものを取り入れて、バランスの良いライフスタイルを提供していければと思います!
上手くしゃべれない、、、。(笑)

昔ながらの味で世代を繋げる|豆まめ 丸山 則文

“たまたま”から始まった料理人人生

一番最初に飲食に携わったのは、高校時代にバイトを探していて、たまたま雑誌に載っていた近くの小さい洋食屋さんに応募したことです。
そのアルバイト先では、最初、厨房に入りましたが、チーフが良い人だったのと、小さい店という事もあり、何でもやらせてくれました。そこから「料理がおもしろいな。」と感じていきました。魚をさばくとか、色々やらせていただけたので、続けることが出来ましたが、下積みを何年もやってとなると飽きちゃったかもしれないですね、、、。(笑)

高校卒業してからもしばらくそのお店で働いていました。私は横浜出身ですが、家族が長野県でペンションをやる予定がありました。ですが、その予定が長引いていて、なかなか動きだせない時に、兄貴夫婦と「もう長野に行った方が良い。」という判断で長野県へ引っ越しました。ペンションのスタートです。当時25歳の時でした。

働きながら抱いていた違和感

ペンションは7、8年やっていましたが、私が松本市の奈川の方と結婚することになったので、そのタイミングでペンションを出ることとなりました。
30歳過ぎの時です。
その後は、ゲレンデで食堂をやっていました。ゲレ食のキッチンです。
今まではペンションで一人前ずつ作っていたのが、どばっとオーダーが来て、それを捌くといった仕事に変わりました。
ですが、料理をずっとやっていたので、ゲレ食でも「ここはこだわりたい。」といったように所々で色を出していました。

その後の転機は、スキー場が食堂を閉鎖することになってしまったことです。
その時の想いは、「ずっと飲食やってきたし、夫婦でなにかやりたい。」といった想いでした。
それを形にするように、奈川でカフェを始めました。
松本市の施設を借りて、9年間やっていました。
カフェでは食堂や、お土産を扱っていましたが、その時抱いていた気持ちは、「ただ、お土産屋さんの横流しで売っていたのでは面白くない。」という気持ちでした。

うす焼きとの出会い

そんな違和感を抱いている中で、カフェに来たお客さんに、たまたま女房が作ったうす焼きを出しました。そのお客さんはうす焼きを食べて「珍しい!!」と言ったんです。
このシーンを見た時に直感的に「これだ。」と思いました。
色々な具材が入るし、家の畑も生かせる。豆や、リンゴを入れても面白い。おやつにもなる。
これがうす焼きを商売にしようと思ったきっかけです。

しかし、うす焼きを商売にしたいと地元の方に話すと、意外な反応が返ってきました。
「うす焼きを売るの!?」という反応です。
第三者の目から見ると、「地元食材を使った素朴な食べ物をもっと外に出したい。」という想いでしたが、地元の人は、その時にある物でうす焼きを作る認識しかありません。
ですが、私には地元食材をうまく使って、こだわりを詰めることで良いものが出来るのではないかという可能性をとても感じていました。

うす焼きの商品化

女房にうす焼きの作り方を聞くと、「みんな目分量で作っている。」との答えでした。その時家にあった食材を使うので、その時によって味が違ったりといったことが起きます。
本当に各家庭で味が違っていて、うす焼き自体に味付けをせず、味噌をつけて食べたり、砂糖醤油つけて食べたりという人もいます。
味にある程度の答えが無いものをレシピにするのは難しいので、女房が作っていた味を基本にしてレシピにしています。

レシピだけでなく、食材にもこだわっています。なるべく国産、長野県産、自分の畑の食材を使いたい。安心して食べることができる食材を使っています。
例えば、長野県産の小麦粉、中力粉なので、もっちりとした触感が楽しめる。
砂糖はキビ砂糖。卵は会田のたまご。お水は、松本の湧水を汲んできて使っています。
誰がつくったかがわかる食材を使いたいし、これは自分でも気になることで意識的にやっています。

「うす焼きっておせんべい?」

お店を始めての苦悩はうす焼きを知らない人が、うす焼きの文字を見た時に県外の人は見当もつかないことです。(笑)
「おせんべいかな?」と想像してお店に来るひともいますし。(笑)
名前を変えて販売することも違うなと感じていました。
「うす焼きってなんだろう。」とお店の前を通り過ぎてしまう人に、足を止めてもらって、食べてもらいたい。

食べてもらえれば美味しいと感じてもらう自信はあったのですが、食べてもらう第一歩を踏み出せずにいました。
今のお店は観光の人もいるし、地元の人もいるしといった客層ですが、外国から来た方に対してどう伝えるかは課題でした。
出た答えは松本のローカルのパンケーキ。これを表記してからは、観光客はローカルの物を食べたいと思って来ているのでお店に足を運んでくれるようになりました。
食べてもらうと、「美味しい!」と食べてくれます。

通販もやっていて冷凍発送もしています。
自然解凍をして、トーストで温めてもらえば美味しく食べることができます。
一口でも良いから食べてもらう。粉の美味しさ、豆の美味しさを味わってもらいたいと思っています。

うす焼きへの想い

このお店を通してうす焼きがどんどん広まっていけばと思っています。
うす焼きに馴染みがあるのは上の世代。近所のおばあちゃんがお店に来てくれて、懐かしんでいっています。
ある時に来た奥さんは、「よく母親が作ってくれた。今度作ってみようかな。」と言ってくれます。
うす焼きは栄養もあり、健康に良い子どものおやつにぴったりです。
上の世代に馴染みのあるうす焼きが、次の世代へ、また次の世代へと繋がってほしい。
そう願っています。

私がうす焼きにこだわる理由

自分で作ってもう10何年になりますが、す焼きを食べる度に「美味しい。」と思います。
自画自賛ではないですが、素直にそう思います。それが理由です。
閉店後にお店で残ったうす焼きを、嫁、娘がいる家族に持ち帰っても、同じ反応が返ってきます。
飽きない。それだけ自分が好きで、毎日食べても美味しいと思います。
季節を感じる食材を使用していて、身体にも良い。
こういったものをもっと食べてもらいたい。
それだけの想いです。

私のプライベート

休みの日はずっと家の畑です。
豆、じゃがいも、そばといったうす焼きに入れる食材を出来るだけ作っていきたいと思っているので、この時期はずっと畑です。(笑)

最後に一言

うす焼きは、季節によってさまざまな食材を使っていて、100以上の種類があります。
高原野菜の甘さや、美味しさは食べてもらえば分かると思うので、是非お店に足を運んでください!

 

「30才までに長野でコーヒー屋を開く!」|High-five COFFEE STAND 髙木 徹仁/髙木 尚美

High-five COFFEE STANDを営む二人は、異なるバックグランドを持つから面白い。

二つの視点が混じり合い、一つの空間が作られている。

二人の背景を、想いを知ることで、
もっとお店に行くのが面白くなるはず。
もっとコーヒーを飲むのが面白くなるはず。