信州酵母豚を選んでもらう為に|焼肉しゃぶしゃぶ「ぶう」#2 花岡 伴健

調理師になった理由

思い返せば、中学生の頃から食への関心は高く持っていたと思います。なので高校は普通科ではなく、食品加工科に入りました。そして、卒業後は東京の専門学校へ行きました。
私は、親が片親だったこともありますが、当時は、今ほどモノが無かったので、食べるものに困った。食べるものが無いので、自分で作る。作るなら美味いものを食べたい。自分で美味いご飯が作れるように料理師になりました。

専門学校を卒業後、和食、中華、洋食、デザート、焼肉屋など多くの業態を経てこのお店に来ました。一般的な人より転職の数が多いと思いますが、今まで必ず目標を立てて転職をしてきました。大変なことも多くありましたが、目標があったからこそここまで続けてこれたと思います。その目標を必ずクリアしてから転職してきましたので、色々な技術、知識を得てここまで来たと思っています。

信州酵母豚への想い

信州酵母豚は、生産者がこだわって作ってくれている。酵母飼料を使って、お肉の臭みが無いように作ったのが信州酵母豚です。色々な調理法で楽しむことができますが、豚本来の旨味、味を楽しめるしゃぶしゃぶがオススメです。そういう意味でお店としてはしゃぶしゃぶを推したいと思っています。
ですが、お客さんに飽きられないよう、加工しても美味しい豚肉を目指しています。例えば、バラ肉を使って生姜焼きを作ったり色々な挑戦をしています。
お店の役割は生産者さんが育てた酵母豚を、お客さんにさらに美味しく提供すること。
挑戦は終わらないと思います。

また、一般的に豚肉は牛肉よりランクが低いようなイメージが付いていると思います。
でも、そのイメージを覆したいと思ってやっています。
百種類もある豚肉の中で負けないようにしなきゃならないということです。
この多くの品種の中で酵母豚を選んでもらう。

豚肉のブランド肉というとアグー豚とかイベリコ豚はすぐイメージできるかと思いますが、そういう有名な品種に肩を並べれるように、信州酵母豚もやっていきたいと思っています。

そして、酵母豚は他の豚肉と比べて何が良いのか。そういうところまでお客さんには知ってほしいと思います。
もちろん輸入の豚肉を使えば安く提供することができます。それでもこの信州酵母豚は栄養価が高くて、美味しいんだよってことを広めたいと思っています。
「焼肉しゃぶしゃぶ ぶう」でしか食べれない信州酵母豚をどんどん推してやっていきたいと思います。

お客さんの為に

焼肉の肉は全てお店でカットしています。手切りです。大変なんです。(笑)
真空冷凍したものを並べるだけではありません。それをやっているのは大手チェーン店。


冷凍して解凍したお肉はどうしても旨味が逃げてしまいますし、それではお客さんも納得できない。そこをあえて手で切って、部位分けをして、お客様に説明できるようにやっています。内臓から何まで手で切ってる。そこまでやらないとお客様は満足してくれないと思っています。
チェーン店には負けたく無いよね。

最後に一言

信州酵母豚を食べにきてください!ご来店お待ちしております!

「自分のお店、やっぱりやろう。」|Wine Cafe「Sarto」木下 真奈美

「妹と一緒にお店をやりたい。」

出身は松本市です。就職も地元でしましたが、その後、東京へ転勤になり、それから7年程働きました。その中で気持ちの変化があったんです。
仕事はやりがいもあり、不満があったわけではなかったのですが、地元に帰りたい想いが強くありました。そして、松本に帰るのならば、「妹と一緒にお店をやりたい。」と考えていました。
妹のちーちゃんは長野でずっと飲食業をやっていました。お店をやるためにはもちろん自分も知識をつけなければならない。仕事と並行しながらフードコーディネーター、料理やお酒についてなど飲食店開業に役立つ資格の勉強をしていました。

修行を積む度に

それから長野に帰ってきたのが36歳ぐらいの時です。
今まで飲食店でアルバイトもしたことがなかったので、いきなりお店「ワインカフェ Sarto」 を出すなんて甘い世界ではないと思っていました。そんな想いから、アルバイトを始めます。最初は松本の飲食店。そのお店の取引先に、それからしばらく働くことになるイタリア料理店がありました。アルバイト募集の張り紙を見つけ、働かせてもらうこととなり、当時は、2店舗同時に働いていました。


しかし、働いているうちにもっとワインの勉強をしたくなり、イタリア料理店一本で働くこととなります。
そのお店では姉妹店での勤務も含め6年程働いていました。自分の中では、ソムリエになるきっかけとなったオーナーとの出会いから始まり、今でもお付き合いのある当時のお客さんや一緒に働いていた同僚、同業種で先々お世話になる方々など、様々な人達に出会う機会となり、確実にターニングポイントとなったお店です。大変なことはたくさんありましたが、本当にこの店に出会えてよかったと思っています。
しかし、ここで働いているときはお店をやろうという気持ちはどこか消えていました。最初は「お店をやろう。」と思ってこの世界に入ったのにです。働けば働くほど「まだまだスキルが追いついていない。」と感じていました。ソムリエの資格を取ったからってワインを知った気になっているけど、飲食業に入ってまだ数年。それでお店を出すなんてそんな甘い世界ではないと思っていました。「もっと色々なことをできるようにならないと、もっともっと勉強しないと。」とずっと思っていました。

「自分のお店、やっぱりやろう。」

イタリア料理店を辞めた後、飲食業は離れていましたが、地元で開催されるワインのイベントはずっと手伝っていました。そのイベントでワインを案内している時に、来場したお客さんが私の事を覚えてくれていて、「以前、お店でワインを色々教えてもらって嬉しかったです。」「去年もワイン案内してもらったんですよ。すごく美味しかったので、今年も案内してください。」と言っていただけることがありました。その時に「私、やっぱり接客の仕事が好きだから、やらなければダメだ。」と強く感じました。同時に、「自分のお店やっぱりやろう。」と。


妹のちーちゃんには毎年毎年「お店やらない?」と伝えていました。しかし、「お姉ちゃんとやりたいお店が違うからやらない。」「まだそのタイミングでない。」とずっと断られていて、、。
でも自分の中で心境の変化もあり、もう一度「ちーちゃんやろうよ。」と誘ったところ「じゃあ、やるか。」と折れてくれたんですよね。(笑)それでようやく一緒にお店をやる事となりました。
自分がお店をやろうと思った時にどうしてちーちゃんを誘ったかというと、料理を100%信頼して任せられるのはちーちゃんしかいないと思ったからです。ずっと断わられていたら一人でつまみ程度の料理を細々とやっていたと思います。(笑)
決してトントン拍子で来たわけではない。紆余曲折もありながらここまできました。

美味しい料理と美味しいワイン

ワインを出すことは決めていました。ワインは気軽なテーブルワインのようなものから、ちょっと手を伸ばせば飲める高いワインも取り揃える。多種多様なワインが飲めるお店を意識しました。
そして、ちーちゃんは料理は和洋なんでもできる(彼女なりの努力はかなりあったと思います)ので、ジャンルにこだわらない料理でワインと相性の良いもの。美味しい料理と美味しいワインは絶対にセットでありたい。そんなお店を目指していました。


いつもキッチン側からお店全体を見ると、みんな楽しそうに食べて飲んでいる。その度に「私はこういう場が作りたかった。」と思います。
お客さんの家族の形態が変わっていくのも嬉しいです。昔は独身だったけど、結婚して子供ができ、今度は家族で来店する・・・お店の歴史と共にお客さんの変化を感じることができるのはとても嬉しいです。
また、姉妹でやっているのでアットホームさが売りとも思っています。
若い人に来て欲しい!(笑)若い人にいっぱい来て欲しいと思っています。ワインってそんなに難しい飲み物ではないことを伝えたい。わからないことは会話をしながら楽しんでいただければと思います。
気軽に手に取ってもらいたい飲み物であって欲しいと思っています。

「翔のワイン売るね。」

週末お店でバイトしてくれている翔君とは、当時イタリア料理店で一緒に働いていました。彼はソムリエをとる勉強をしている時に「自分でワインを造りたい。」と思うようになり、ソムリエをとった後にお店を辞めて、須坂のワイナリーで働き、ワイン造りとブドウ栽培を経験。さらに地元が安曇野でもあるので安曇野のワイナリーでも勉強し、去年の11月に自分のワイナリーを作りました。


その時はまだワイナリーはできていませんでしたが、以前一緒に飲んだ時に、「ワインの勉強して、自分でワイン造ります。」と伝えてくれたことがあります。その時に「じゃあ、私がいつか自分のお店を出した時に翔のワイン売るね。」と返しました。実際に自分がお店をやることになって、そのワインを実際にお店で売っている。当時は夢を語っていただけだったんだけど、現実になった。その瞬間がとても嬉しかったのを覚えています。

母の作る唐揚げ

一回召し上がったお客さんは次に来店されても必ず頼むメニューですが、オープン当初はメニュー入りしておらず、ある時お客さんからのリクエストで作ったらこれが大好評。その次の日からメニューに入れることになりました。私たちの母が唐揚げが上手で子供の頃から大好きな料理でした。お店で出している唐揚げはニンニクが入っており、お酒に合うメニューになっていますが、その味に似ています。家族が多かったので、毎回「お母さん、唐揚げ何個ずつ?」と聞いて取合いになっていました。私たちも一番好きなメニューだし、思い出の料理です。

最後に一言

美味しいワインと美味しい料理を用意して皆さんをお待ちしております!

挫折の先に|有限会社神農素 丸山 隆英/丸山 真里子

先代の想い

出身は中野市です。学生の時に2年程東京へ出ていましたが、ほとんど長野県で育ちました。現在の仕事の前は実家が飲食店なので、その手伝いをしていました。
この仕事に就くきっかけは、もう亡くなっているのですが先代の神農素の会長が私の父で、生まれながらの畜産家だったことです。40年程畜産をやっていて、エサによって良いお肉ができることを研究していました。自ら土壌地質から酵母菌を見つけ、その酵母菌をうまくエサにできないかということを研究していました。また、酵母菌で発酵させることによって人間が残した食品残渣を再利用する事業を会社化したかったのが先代の願いでした。

父は40年間、その酵母菌をずっと温め続けており、その会社を設立すると相談を受けたときはあまり賛成することができませんでした。なぜなら、父は研究熱心なことは知っていましたが、それが世に出ることは考えられなかった為です。最後には私たち姉妹全員が、賛成をして会社を設立しましたが、その道には困難が多くありました。

挫折の先に

酵母菌を菌バンクに登録するまでに10年、特許を取るに8年程かかりました。酵母菌自体では特許を取ることができず、「どう特許をとるか。」を試行錯誤しながら探っていた日々でした。最終的には飼料を作るための過程を申請し、無事、特許を取ることができました。

特許を利用して事業を始めたのですが、実験、試験レベルを事業ベースに持っていくのにはすぐ結果が出ませんでした。エサを買ってくださる農家さんがいなかったんです。そこで一つ挫折をしました。食品残渣は沢山集まって原料はあるのに飼料を買っていただくことができない。
良いものを作っている自負ありましたが、それを証明するものがない。特許ばかり先走ってしまって、世に出すことができませんでした。
そのような経験から11年前、「自分達の飼料で自分達で豚を育てよう。」と養豚事業をやることにしました。
最初は20頭、それが40頭とどんどん増やしていくことができました。しかし、頭数が増えていくにつれて特許を取得した方法だと上手くいかない、、、。

「なんとかしなければならない。」と現社長が酵母菌をもとに色々試行錯誤をし、新しい方法を開拓したんです。それが「神農素菌」です。この経験から「特許だけでは食べていけない。」と勉強になりました。

信じ切るということ

うまくいかないことはたくさんありましたが、会社を設立して、株主さん達から支援をしてもらっていた中で「後戻りはできない。」という気持ちが強かったです。
また、自分達のやっていることに強い自信がありました。当初、商品になる豚が少なく、小さく売りにならない豚ばかりでした。その豚を引き取って私達が食べたのですが、その豚がとっても美味しくて衝撃を受けました。私は脂が苦手で豚肉があまり好きではなかったのです。しかし、育てた豚を食べたときは牛肉の脂のような脂だったので、改めて衝撃を受けました。


小さく商品にならない豚でもこんなに美味しく出来るなら、「この豚を大きくするだけで商品にすることができる。」と私もそうですし、社長も先代の父も信じ切っていたようです。
出来上がったお肉はとても美味しかったので、あとは波がなく安定して美味しい豚を育てるということだけでした。そこには「出来ないはずが無い。」という強い信念がありました。

今では、「豚肉って臭いな。」「脂がくどくて嫌だな。」と思われているお客様が酵母豚を召し上がった時に「あの豚だったら食べられる。」「今まで食べられなかったけれど食べれるようになった。」と喜んで頂けるまでになっています。
やっぱりお客様からのお声が一番嬉しいです。本当に信じてやって来てよかったと思います。

一人でも多くの方に

生産者様の中にはチーズや食パンをあげたり、ビール、日本酒をあげたりとこだわりを持って育てている方が多くいます。うちのこだわりはそのまま与えるのではなく、酵母菌で2週間以上発酵させたものを与えていることです。なので、体内吸収が良いはずなんですね。時間と手間暇をかけて飼料を作っているからこそ美味しい豚肉ができると私たちは信じていますので、その自信は強く持っています。

また、週に80頭前後の出荷をしているのですが、精肉の商品にならない豚をどうにか利用することはできないかと考えていました。豚を一頭使ったウィンナーや、ロースやバラはそのままベーコン、ポルケッタにしています。パテは「ぼたんこしょう」という中野市の名産を入れてさっぱりとした風味にしています。このように出来るだけ使えるものは皆さんに楽しんでいただく努力をしています。

その豚から出た有効発酵堆肥をまた農家さんに使って頂いて、次は野菜に還元していく。まさしくリサイクルをやっているので、多くの方に知って頂いて、ただ美味しい豚でなく、地域に貢献できる企業を目指しています。

中野市の中では徐々に酵母豚が伝わっているのですが、もっと多くの人に召し上がって頂いて、「信州といえば酵母豚」「信州に来たらこれを食べよう」「贈り物はこれにしよう」と言っていただけるように一歩でも近づけたらと思っています。
一人でも多くの人に召し上がって頂いて実感していただければと思います。

私のプライベート

食べ歩き、飲み歩きです(笑)ちょっと飲みすぎてしまうかもしれませんね、、。(笑)なんでも飲みます!昔は浴びるように飲んでたようですけど、。(笑)自宅では庭でBBQをやるのが定番になっています。自社製品も使っていてベーコンとポルケッタが人気です!

初孫が5月に生まれました。可愛いですね、、。息子、娘がとっても仲が良くて、一緒に買い物に行ったり、旅行に行ったりとしています。主人の母も一緒に暮らしているのですが、家族みんなで旅行に出かけています。

アメリカで見た景色|The Source Diner 安達 真

アメリカへの憧れ

アメリカに憧れるきっかけになったのは、映画だと思う。あと、ちっちゃい頃やっていたアメリカのドラマ。ナイトライダーとか特攻野郎Aチームとか。(笑)映画、ドラマを見ていたのが原体験だと思う。ナイトライダーって車が喋るのよ。悪い敵を倒すんだけどそいつがすごい車なの。「アメリカってこんな車あるの?」って。アメリカに対する憧れに繋がったと思う。アメリカや西洋に対する憧れは自然と刷り込まれていったから。「いつかアメリカ行きたい。」って。アメリカに対する想いはずっとあった。

アメリカで見た景色

人のフランクさとかをマネしたいというか、そうありたいとは思ったかな。日本だと特に従業員とお客さんって立場になるけど、アメリカは対等なの。日本はお客さんが神様だって思っている人たくさんいるだろうし。うちに来る人はあんまりそういう人はいないんだけど。俺が偉そうだからだと思うんだけどさ。(笑)アメリカだと必ず挨拶があるわけ「Hi!」「Hello!」とか。ほぼ挨拶から始まるし、日本みたいにどこ見て言ってるかわからない「いらっしゃいませ」に対してお客さんって「どう返すの?」って話じゃん。だから、俺はあの言葉が嫌いで必ず挨拶をする。まず挨拶から始まって、目を合わす。それが大切だよね。

当時、お店の奥にキッチンを作ることにしていたんだけど、内装をやってくれた友人に「やっぱりキッチンの位置変えたい。」と相談をして変えてもらった。奥にキッチンがあった方が、ストックルームが近くにあったりと便利は便利なの。でも、席が遠いお客さんと触れ合うことが無い。それが嫌だったんだよね。

日常と非日常

お店にずっといるわけでは無いので、街に出るじゃん。自分の生活している街に出る。その時に気持ち良いかどうかは大切。僕らよく旅行行きますと。みんなも旅行好きじゃん。なんで好きかというと色々な理由があると思うけど、日常から非日常に行きたいわけじゃん。そういうものが楽しくて行く。だけど、旅行行かなくても自分の街がそういう街であれば別に毎日生活していて、日常と非日常を行ったり来たりできるようになるなと思っていて。もう無くなっちゃったけど、ニューヨークで働いていた「The Adore」ってお店があるんだけど、The Adoreに関しては俺の日常だったわけ。でも、日本に帰ってきてしまえば完全に非日常だし、働く前も非日常。「俺、ニューヨークのカフェで働くのか。」とんでもない高揚感と緊張と不安。それが働いてしまえば日常になっていったわけ。


アメリカにいた時はよく国内旅行をしていて、サンフランシスコのTriesteに行ったときにそこにいる人ってこのお店に行くことが日常でしか無いわけ。俺だけ非日常でそこにいた。その交錯している感じがすごく良かったし、「その人たちの日常に溶け込みたい。」ってすごい思ったの。そんなこと出来ないんだけど。「こんなお店があるなんてすごい素敵な日常じゃん。」って。

街の日常

お店にはオシャレな人だけでなく、どんな人が来てくれても良い。でも、横柄な態度だけは許さない。俺はあなた達と対等だし、俺のお店のルール内で楽しんでくれればそれで良い。ここは他人の家だから。「他人の家行くときになんで自分のルールを持ち込むの?」って。
逆にオシャレな人しかいないのは嫌なのね。というのは、街の日常になっているカフェや、飲食店って色んな人がいるわけよ。若い人もおじいちゃんもいる。お店もカッコ良いんだけど、カッコつけたカッコ良さじゃ無いのよ。こういう絵がすごく好きだから、お店としてこうありたいと思ってるね。

当初、オープンしてすぐは若い人しか来なかったのね。でも、少しずつ色々な人が来てくれるなという実感はある。でも、これは10年20年やっていないとそういう絵にはならないし、難しいよね。おじいちゃんおばあちゃんが日々使うお店ではありたい。でも、うちはコーヒーだけとかやらないから日常使いはできないんだけど。

たまに近所のおばあさん3人が来て、「今日なにあるだ?」「メニュー見てください。」みたいなやりとりはするね。あの人達何にも見ないから(笑)めんどくさいなって思うんだけど、それがまた面白かったりするんだけどね。見ようとしない。全部聞く。(笑)でも、これは俺がやろうとしてたコミュニケーションだよなって気づいたりする。めんどくさいからメニュー置いといて聞くだけにしているわけだから。おばあさんは俺が忙しくても関係ないの。「何があるだ?」って聞いてくる。でも、これが本来の姿であって、「わからないことがあれば聞いてください。」ってスタンスだけど、出来ていないのに気づかされる。改めて「あっそうか。」って。

「抱きしめてあげなければダメだよ。」

誰に対して商売をしていくかは一番難しいところかなと思ってる。やっぱりマスに向けて商売しないと成り立たないと思っているから。でも、マスの人たち誰でもウェルカムはやりたくない。俺は俺のカッコ良いと思うことをやりつつ、その人達にもアプローチする方法を探らないといけない。例えば、「売れていないインディーズの時の方がカッコ良かったよね。」って言う人いっぱいいるじゃん。メジャーになってやめる人もいると思うけど。でも、「売れてお金稼いでなにがダメなの?」って思うの。昔のファンが離れることは残念かも知れないけど、でもあなた達よりお金くれるんだよって話で。自分のポリシーから外れたことをすることでこんなお金ってもらえるんだって。そのバランスだと思うんだよね。

でも、実際来てくれるお客さんって当初想定していた友達より、そうじゃない人達の方が圧倒的に多いのよ。このお店が好きになって来てくれる人の方が来店頻度は高いし、そういう人っていわゆるマスの人達。だけど、こういう場所に引っかかってくれる。世の中にはもっと入りやすいお店だったり、めんどくさくないお店って沢山あると思うけど。俺はルールを逸脱するとすぐ不機嫌になるから。(笑)でも、それをクリアしてくれればすごいウェルカム。

少し前に心に響いた言葉をもらって、名古屋の「EARLY BIRDS BREAKFAST」や、「Circles」っていうお店をやっている社長さんの言葉。「お店なんて入りづらくて良いんだ。だけどその門を開けて入って来た人に対しては抱きしめてあげなければダメだよ。」って。門を開けるのにすごい勇気を持って来てくれてる。「入りづらい。」ってよく言われるし、「なんのお店かわからない。」って言われる。だから一見さんってほとんど来ない。何かの情報を持っている人がやっと来るお店だと思っている。その言葉を聞いたときにハッとして。そうだなと。

飲食業を変える

飲食業って底辺だと思っていて。働きたくない職業ランキングでもコンビニ店員と並ぶぐらい。本当にそう思っていて。昔は、独立したら儲けられるという夢があったみたいだし、料理人も腐るほどいるっている感じだったみたいなのね。人の流動性は早かったと思うんだけど、地位が上がっていくと給料も貰えるし、独立すれば豊かな生活が送れる構図があったんだけど、今は違う。飲食業に人がいないし、どこも人が足りていない。


24〜27歳のときに働いていたニューヨークのお店は日払いだったんだけど、余裕があったの。週2日休めたし、1日8時間ぐらいしか働いていない。これが俺のキャリアのスタート。日本帰ってきて東京で働いたお店は、時給790円だよ。多分東京の最低賃金だと思うけど。時間もやけに長いじゃん。週1しか休めないし。ほんと嫌だったの。当時の料理長もボロボロになって働いていたし、子供が生まれたばかりだったのに子供とも会えないとか。何をしているんだろうという感じ。「早くアメリカ帰りたい。」って思ってた。毎日ね。

もっと頭使えばお金もらえるはず。でも、現状に疑問を感じない人がほとんど。思考停止しているんだと思う。飲食業の人が地位が低いままなのは嫌だし、変えたいと思っているから。自分のお店は休みはとるし。それでも稼働している時に稼げば良いから。なかなか上手くいかないけどね。ちゃんとやっていれば俺らみたいに休んでも稼げるんだよって示さないと、自分のお店を持ちたいっていう人もいなくなっちゃう。俺よく「生まれ変わったら飲食業やらない。」って言ってるんだけど、大変だもんやっぱり。日本の飲食業の人達が思考停止しているのに物申す為に俺は休む。それ言いながらも俺が稼いでなかったらカッコ悪い。カッコつけていて、稼げないのが一番カッコ悪い。休んでて火の車じゃんってなったらダメなのよ。だから店が稼働している時に、お客さんがバンバンくる、休む時は休むって状況がなければならないんだけどね。難しい。日々考えていないとね。

負けたくはないよね。少なくとも松本の店では一番でいたいし。ナンバーワンよりオンリーワンって言葉があるけど、ナンバーワンじゃないと意味ないでしょって思うから。

心に響くこの一盃|岩波酒造 佐田 直久

将来の姿

出身は新潟県新潟市です。小学校低学年の時に、父親の転勤の関係で東京へ。中学校へ上がるタイミングでまた新潟へ戻って来ました。大学進学時は、特にやりたい事は無く、東京への憧れだけでした。一人暮らしの為に大学へ行ったようなもんです。学生時代はギターが好きでバンドをやっていました。フォークや歌謡曲に始まり、Kiss、ローリングストーンズなどのロックからパンクロックもやっていました。自分たちのオリジナル曲を作って渋谷の音楽ホールでライブもやりました。
音楽と並行してやっていたのは合気道です。社会に出るにあたって自分の精神面も鍛えなければならないと思い、武道を始めました。4年間部活を続けて、黒帯の2段まで取ることができました。

自分の仕事とは

就職の時期では、やりたい事、行きたい会社はありませんでした。とりあえずどこかの企業へ就職しようと思っていました。結局、地元の新潟へ帰り、金融系の会社へ就職します。当時は、特にやりがいを持って働いていたわけでは無く、お金をもらう為に働いていたような感覚です。最初の配属は、高崎店でしたが、5年目での初めての転勤が、長野県松本店でした。生まれて初めて松本にきました。松本で仕事をしながら、「なんていい所なんだ。」と思っていました。日本全国様々な場所に住んでいましたが、松本には他とは違う魅力を感じました。空が綺麗、川が綺麗、山も、花も綺麗。「ずっと住みたいな。」と強く思いました。
この会社には7年ほど働いていました。

当時、住んでいたアパートの隣人と仲良くなり一緒に遊ぶ機会が多くありました。その方は友人が多く、家に集まって食事をしたり、スポーツをやったりという場に招き入れてくれました。その当時は、お酒がそれほど好きでは無かったのに、仲間たちと話をしながら飲むお酒は「本当に美味しいな。」と感じていました。同時に、自分の姿を見ると「こんな人生で良いのかな。」と自問自答するようになりました。周りの人達は子供がいたのですが、僕ら夫婦にはなかなか子供を授かることができませんでした。その時に思ったのが、「もし子供がいて自分の仕事を聞かれたら胸を張って言える仕事ではない。」そう思いました。心から打ち込める仕事をやりたい。そう強く感じました。であれば、職人だなと。今では酒造りの仕事に就きましたが、醤油や味噌でも良かった。とにかく一つの事に一生懸命打ち込める仕事をしたかった。この気持ちに尽きます。ですが、漠然とした想いだったので、ハローワークへ行ってもなかなか仕事がない状況で、途方に暮れかけていたことがありました。

最後の望み

転職先を探していましたが、なかなか「これだ。」という仕事が見つかりませんでした。でも、その間にも家賃等の支出はある。自分の望みが叶ったわけでは無いですが、工場の仕事が決まりかけていました。ですが、心のモヤモヤは消えず、最後に一度だけとハローワークへ向かいました。そこに待っていたのは、岩波酒造の酒造りの求人でした。見た瞬間「これだ!」と。今までの酒造りは新潟の杜氏(とうじ)=越後杜氏が蔵人を連れて秋から春にかけて1年分のお酒を造るスタイルでしたが、自社社員でお酒を造ろうと方向性を変えたタイミングでした。秋から春は酒造り、その他は営業、配達といった業務内容です。最初は右も左もわからない全くの異業種で大変な時期もありました。


ですが、辞めたいと思った事は全くありません。「良い仕事を見つけることができた。」それだけでした。どの仕事だって、どの役職だって苦労があるのは当たり前。どんどん仕事を任せてもらうことが本当に嬉しかったです。ある時、1人で仕事をしているときに、涙を流したことがありました。「本当に良い仕事を見つけて良かった。」と。やりたい仕事をとことんやれるという事は本当に幸せだと思いました。そして、さらに幸せな事がありました。なんと、子宝にも恵まれたのです。

杜氏一年目

蔵人の中でも責任者を杜氏(とうじ)、その下に頭(かしら)といった役職があります。私には「やりきる。」といった強い気持ちと覚悟があったので、掃除だろうが洗濯だろうがどんな仕事でも一生懸命やっていました。この酒造りの世界では、1人前になるまでに最低15年かかると言われていました。杜氏と頭が担当者を決めていくのですが、その姿をちゃんと見ててくれていたんだと思います。ちょうど15年目に杜氏に任命されました。新潟から杜氏がくるスタイルから歴史が変わる瞬間です。大きなプレッシャーを感じました。良いお酒が造れるか不安で夜も眠れない日々でした。

1年目はとにかく怪我しない、体調を崩さない、やり切ることを目標に据えていました。無事1年間務めることができましたが、その結果、無難なお酒ができてしまった。品評会へ出品しましたが、評価はされない。他の蔵のお酒と飲み比べて「これではダメだ。」と悔しい想いを抱きました。長野県には約60の蔵があり、60の杜氏がいる。当時1年目でしたので、「自分が一番下っ端なんだ。一番下手くそなんだ。」と割り切り、誰よりも頑張らなければならないと、自分を鼓舞していました。

美味しいお酒を

「なんとか賞を取る。」と決意し2年目が始まりました。ですが、ある時「賞を取るよりも普通に飲んで美味しいお酒を造ろう。」と意識が変わり、その瞬間に心がすっと楽になりました。もし賞が取れなくても自分が全ての責任を取れば良い。それが醪(もろみ)にも伝わったのだと思います。9月の長野県清酒品評会でまさかの首席優等賞を受賞!長野県一位です。岩波酒造初の快挙でした。

恐らく長野県中の蔵が驚いたと思いますし、何より自分が一番驚きました。(笑)10月には国税局の関東信越鑑評会があり、それも長野県一位。ダブルで長野県一位です。本当に驚きました。もともと新潟の先輩が培ってきたやり方や教わったものがベースになっていて、それに私の少しの工夫、周りの努力が掴んだ賞だと思っています。

心に響くこの一盃

お酒は人の心に響くものだと思っています。飲んで心が温まる。悩んでいることが小さく思えたり、言えないことが言えたり、精神にも届くものだと思っています。この世の中は色々な人の頑張りで成り立っています。そういった人に美味しいお酒を飲んでもらって「明日も頑張ろう」と前を向いてもらう。そういった人が増えればもっと社会は良くなるのと思っています。自分にとって酒造りは一つの社会貢献です。

プライベートの私

休みの日にはギターを弾いたり、サイクリングをしています。きれな風景を撮ってSNSに上げています。以前、友人がきのこ鍋を作って振舞ってくれた時に、その美味しさにものすごく感動しました。それから山に入ってきのこを取り、食べることも趣味の一つです。
今は辞めてしまいましたが、岩波酒造に入社してから、旨い酒を造るには強く正しい精神と肉体も必要だと思い、空手を習い始め、黒帯2段までとりました。音楽を楽しむ、運動する、自然と親しむ。そういった感覚が五感を研ぎ澄まし、心に響く酒を造る事に繋がるのだと思っています。

佐田杜氏のブログで日々の酒造り様子がチェックできます!
■杜氏のブログ 心に響くこの一盃

娘たちの存在|小さなパン屋さん「weggli」小野 綾子 #2

 

踏み出した第一歩

プレオープンの時は、正直不安で一杯でした。事前告知は、ポスティングのみ。日時と、「パン半額」を記載し、1人で近所のご家庭のポストへ入れていきました。果たして本当に「当日、誰か来るのかな」と。そんな気持ちしかありませんでした。前日には、何種類ものパンの段取りをノートに書き出し、待ちに待った当日。


オープン時間には、すごい人がお店の前に並んでたんです!嬉しい悲鳴ですが、レジをまだ慣れていない状況で、オペレーションもままならない状態でした、、。あっという間に完売です。今後のオペレーションなど課題を多く感じましたが、「やっと、スタートが切れた。」とそんな1日でした。

酒粕でパン作り

天然酵母にこだわっています。自家製の天然酵母パンを作るのには時間がかかるけれど、味はやっぱり美味しい。このハードルの高さに惹かれて、パンを作り始めてから「いつか天然酵母で作りたい。」と思い続けていました。

試行錯誤の日々でしたが、初めて作れた時は、「本当に出来た!イースト使わずに出来るんだ!」と、超感動したんです!(笑)それからは、自分好みのパンを目指して、様々な挑戦をしました。培養する酵母によって味は全く異なるので、レーズン、いちご、人参等様々なもので、試していました。最終的に落ち着いたのは、酒粕。季節によって、室温等の変化があるので、当初安定した味を出すのが難しかったのですが、今では夏の暑い時期も納得できるパンを提供できています。この酒粕を酵母に使ったパンをめがけて、来店してくれるお客さんも多くいらっしゃいます。

ミルキーフランス

一番想い入れのあるパンは、ミルキーフランスです。


以前、宅配パン屋の仕事をしていたときに、本当に好きなパンだったんです。自分が好きなパンだったので、売り歩くときもお客さんにすごい勧めやすい。ミルキーフランスを山のように仕入れていました。(笑)その記憶があったので、「パン屋をやるときにはお店に置きたい。」と思っていました。当時の味を再現しようと、試行錯誤。今では、納得のミルキーフランスを置くことができています。常時置いているパンです!!(笑)

誰もが、日常的に

パン屋は日常使いできる場所です。日々のおやつにも、食事にもなる。地域の人に愛されるお店作りを意識しています。お母さんがおやつに「子供に食べさせたい。」と思えるそんなパン屋です。

その為には多くの人が口にできるパンを作らなければならない。今は、アレルギーを持っているお子さんが多くいらっしゃいます。牛乳や脱脂粉乳、卵を入れず、シンプルに美味しいパンを作っています。うちの食パンはパン粥として、離乳食にも使えます。私は子育てが終わった世代なのでわかるのですが、アレルギーを持つお子さんのお母さん達は、色々な苦労をされています。うちのパン屋がその一助になればと思っていて、安心して食べることのできるパンを作り続けたいと思っています。

娘達の言葉

「こんな挑戦をしてしまって大丈夫かな。」と思うことは多くありました。寝られないくらい心配でした。「小野さんやらかしちゃったね。」と言われるのが関の山だと。そこで背中を押してくれたのは娘達でした。「パン屋やろうかな。今まで貯めたお金散財しても良い?」とぽろっと言った時に、「絶対パン屋やった方が良いよ!ママ絶対やるべきだよ!」と何度も言ってくれました。なんの根拠があったのかはわかりませんが、背中を強く押してくれたのは、紛れもなく娘達の存在と娘達の言葉でした。当時の心境を尋ねると、「絶対にママなら上手くやる!」と思ってくれていたみたいです。(笑)

何か挑戦したいと考えている人がいたら、それは是非やるべきだと思います。
「失敗したらどうしよう。」と思い始めると大事な一歩が踏み出せない。そう考えているうちに何年も過ぎて体力的にも厳しくなってしまう。私はパン屋をオープンした時は49歳でした。50歳目前でパン屋を始めたけれども、やって良かったと心から思うし、やらずにパートのおばちゃんになっていたら、どこかで絶対後悔していたと思います。一生後悔する人生になる前に決断をして、勇気を出して一歩踏み出せたことは良かったなと強く思っています。

私のプライベート

ズンバが大好きです。(笑)

フィットネスのプログラムの一種で、ラテン系の音楽や、洋楽の曲に合わせて踊っています。すんごい楽しいんです!(笑)老若男女100人ぐらいで一斉に踊る時もあるんですけど、汗をたくさんかいて、声を出してと、もうパーリーピーポー!(笑)もう10年選手です(笑)

あとは、釣りですね。海釣りは本当に楽しいです!海は得体の知れない魚が釣れたりするので。釣りは時間が限られているので、なかなか行くことができないですが、時間が取れればすぐにでも行きたいです、、、。パン屋を辞めたら海辺に別荘を借りて、釣りをする日々、、そして、近くにフィットネスがあればもう最高ですね!(笑)

最後に一言

小さなお子さんでも安心して食べていただけるようなパン作りをしています。お店に入って大きく深呼吸をしてみてください!幸せの香りがお迎え致しますので、是非weggliにお越しください。お待ちしております!

三代食堂である理由|三代食堂 岡部 賢二

自分がやりたいことは

出身は茨城県です。大学進学時に上京をして、4年半ぐらい東京で暮らしていました。卒業後は、茨城に戻って、栄養士の資格を取りました。
このきっかけは、大学時代のアルバイトにあります。

アルバイトは、とんかつ屋で3年働いていたのと、他には居酒屋や、ホテルで働いていました。良いバイト先であったんですけど、とんかつ屋は近所だったという理由でやっていたので、どちらかというと、何となくやっていた感じです。
とんかつ屋では、最初は皿洗いからなのですが、盛り付けや、かつ丼作りまでいろいろなことを任せてくれました。当時は、「すごい楽しい。」と感じていましたね。

大学の後半から卒業に近づくにつれて、大学では全く関係ないことを勉強していたけど、漠然と「飲食店をやりたい。」という気持ちが芽生えてきました。
そこで、食に関してちゃんと勉強したいという想いから、地元の茨城県に戻り、栄養士の専門学校に入り直しました。
結構東京嫌になっちゃって、、。(笑)
殺伐とした感じとか、疲れてしまったのもあって、田舎に帰ろうと決めました。
別に東京に居続けて、資格を取る必要はないと感じていました。

1人の上司との出会い

専門学校の卒業後は、たまたま職場が長野県に決まって、委託給食と言う形で、老人ホームであったり、学校であったり、その場所にあった給食を作る仕事をしていました。


最初の配属は、老人ホームでした。期間は、1年間です。
その後は、約二年間、池田の方にある障がい者施設で食事を作っていました。
そこで1つの出会いがありました。

私の上司は、もともと京都の割烹で修行をしていた方です。
その上司は、「給食業界はなめれられている。」と言っていて、例えば、カレーを作るにしてもレトルトを入れて、食材を入れて完成となる。料理に凝る習慣がなく、技術を向上するという姿勢が見られないんですね。
それで良いんですけど。食べる側も完成度を求めていないから。
でも、その上司はたまたま働く場所がなく、入りやすい給食業界に入ってきたのですが、技術はあるので、給食だけど、給食らしからぬ味を出すんですよね。(笑)
味付けの段階でダシの比率や、味付けの順番など細かく調整していく。
そこで基本的なことを教えてもらいました。
調理師学校時代の勉強を、上司に弟子入りする形で実践へと変えていきました。
その出会いがなければ、今どうなっていたかわからないですね、、。(笑)

オープン前に山小屋に!?

その後は、2017年4月頭ぐらいに会社を辞めさせていただきました。
前職で働いている時には、もうこの物件は決まっていたので、お店を開く準備をしていたのですが、もろもろやっているうちにお金が足りなくなってしまって、、。(笑)
車も売ったりしたんですけど、サラリーマン時代の貯金でお店を完成するには、足りない状態でした。
また、そこで1つの繋がりがありました。

ここ1年ほど「ヒーターズ」というバンドをやっていて、そのギタリストのオーナーが、山小屋を経営していました。そこから「一緒に働いてみない?」という話をもらって、昔から山には興味があったので、2017年の夏に4ヶ月ほど山小屋で働いていました。
ある程度、お店の工事を出来るところまでやって、あとは6月末から4ヶ月山に行って稼いでいました。
山での業務は、基本的に小屋番と言う受付と、料理が出来るのもあって食事提供もしていました。あとは、道直しという作業があって、登山客の方が登ると道がどんどん崩れてきて、危なくなってくるので、その道を石で固定したり、歩きづらくなってしまうのを砂利で埋めたりしていました。
雪が積もっている時は、ベンガラというチョークがあるんですけど、真っ赤な粉を撒きに行ってマーキングをしたりもします。
そのような生活を送っていました。

予期せぬ事態

山小屋に帰ってからもすぐにお店のオープンはできませんでした。
そこからさらに4ヶ月ぐらいかかってしまって、、。
そもそもここの物件の状態が借りる前はひどい状態だったんです。
大体2ヶ月間山に行く前に基礎を作って、その後、山から下ってきて4ヶ月で上やって、キッチン作ってと言う感じで。思ったより時間がかかってしまいました。

ほぼ、全て自分の手でお店を作ったのですが、みんなやろうとしないだけで出来るんです。(笑)
最初は手探りでやっていて、昔の建築誌を見て「こういう感じにしたいな。」というイメージを持ってやりましたけど、出来ましたね。(笑)
会社辞めてからは、工期が半年、山に行っている期間を含めてほぼ1年かかりました。
オープンは4月3日です。

本当は3月27日ぐらいだったのですが、あばらを折ってしまって、、。(笑)
最後の最後で怪我をしてしまって、2週間ほど延ばしてもらいました。(笑)
めっちゃ高いところならわかるんですけど、70cmぐらいの椅子から結構な勢いで落ちて、、。(笑)
死ぬかと思ったぐらい痛かったですね、、。(笑)
でも、オープニングパーティーは、予定通り開催しました。
店内をステージにして、ライブをやったりして、いろんな人が来てくれて。
結局、当日は興奮しているので痛み感じないんですよ。(笑)
それで乗り切ったのですが、オープニングパーティー終わってから病院に行ったら「やっぱ折れています」と言われて。(笑)
オープン前にものすごいださい怪我をしたという。(笑)
忘れられないです。(笑)

食堂、店名へのこだわり

小っちゃい頃から町の大衆食堂みたいなところに連れて行ってもらっていました。
その後、年を重ねていって、上京して学生をやって、そこで通っていたお店の偉大さに気づきました。
上京して茨城を離れた後に、飲食店をやりたい気持ちがあったので、いろんなお店に行きました。
その中で、昔通っていた記憶に残るようなお店を超える店が何1つ無かったんですよ。
本当に1個もないぐらい無くて。


単純に自分の舌が合っているというのもあるんですけど、何年か毎にブームがあって、料理の技術や食材とかの様々な変化があっても、人の味覚に訴えてくるその美味しさは普遍的で変わらないと思っています。
自分にとってそれが食堂で再現できればという想いがあって、自分の原体験が続けられる場所ができたらと思いました。

「三代(さんだい)食堂さんですか?」とよく聞かれるんですけど、三代(みよ)です。(笑)茨城のひたちの方だと名字でよくあって、母親の旧姓も三代(みよ)でした。
そこからきています。もう1つの理由は祖父の魚屋にあります。

私の祖父は、茨城で魚屋をやっていて、昔は築地で働いていた経験があります。
今も、お店はあるのですが、受け継いで、店主をやっていた、母親のお兄さんが10年ぐらい前に亡くなってしまって、今は、お兄さんの奥さんがお店をやっています。お兄さんには、魚のさばき方を教えてもらったり、すごい優しくしてもらった記憶が今でもあります。
店名は悩んでいて、自分の名前を冠するのには抵抗がありました。しかし、魚屋もそろそろ閉めるという話もあって、同時に自分が「継ぎたい。」という想いもありました。
字は三代(さんだい)で、魚屋ではないけれども、祖父、母、自分で三代目という意味もありますし、三代(みよ)という姓を継ぎたいという想いはすごいあって店名に込めました。

1人で来られる空間作り

自分が落ち着ける場所がすごい欲しいなという気持ちがありました。
茨城や東京にいたときになんとなく落ち着ける場所の条件が、“ちょっと暗めで”“外からあまり見えないけど、外の景色は見える”
そういうお店だと「入りやすいな。」という気持ちになって。

1番優先しているのが、お1人様、もしくは、お2人様の席が一番良い位置にあるという事です。


1人でふらっとごはんとか食べて、リラックスできる環境が良いなと思っていて、なにもしらない店に対面式のカウンターだとちょっと緊張したりするじゃないですか。
お店の人は、喋り慣れているから良いのかもしれないけど。
それを解消するためのスペースを作ってます。
1人用のカウンターは対面式ではなく、外が見える特等席。
「自分だったらどういう店に居続けたいか。」を基本のベースにはしています。

自分がやっている音楽の要素もお店に反映させています。
ミクスチャーというか、音楽だとビートルズの後に出てきたプログレシブロックという60年後期から出てきた音楽が好きで、音楽だけでなく芸術とかとかをまぜこぜにしているものです。もともと分析が好きで、音楽もいろいろ混ざっていると楽しいんですね。建築とかも昔の雑誌と今の雑誌を見比べたり。一見合わなそうなものも混ぜて、お店作りはしていました。

私のプライベート

ずっと音楽をやっているので、その繋がりが今、面白いと思っています。バンドもそうですけど、ソロでもやっていて、三軒隣の「Give me little more」が面白い外国のアーティストを呼んだり、たくさんライブもやるので、すごいインスピレーションが湧く場所になっています。
ソロの時は、結構めちゃくちゃなライブをします。(笑)エフェクターを使って、カリンバと言う民族楽器があるんですけど、どんどんループしていって、、、。
いろいろあるんですよ!(笑)ちょっと説明しづらいので会場に見に来てもらえば!(笑)

最後に一言

これから毎年店を2か月ぐらい閉めて、山小屋に行くと言うサイクルをやっていきますが、うちの店を忘れないでください!!(笑)