1つの転機
出身は、富山県富山市です。小学生まで富山市に住んでいました。父親が転勤族だったのもあり、中学生からは、長野県長野市で暮らしていました。高校を卒業するまでです。
ずっと小中高とバドミントンをやっていて、スポーツマンでした。勉強は好きではないが、できなくもない。そんな学生でした。
高校時代を振り返ってみると、「とりあえず大学を出れば、就職も困らないかな。」と思っていたので、勉強したいことも特にありませんでした。そんな気持ちもあって、大学は推薦で楽に入学できるところを選びました。福井県の大学です。しかし、大学に入学する前に1つの出来事がありました。それは、入学式の数ヶ月前に両親が離婚したことです。
「大学のお金はどうするのか。」「母親、父親どっちにつくのか。」様々な問題がありましたが、その時考えたことは、「俺は、俺の人生を歩む。誰にもお世話にならない。」といったことです。親達が離婚したせいで、俺が生活できないとなったら、ヒモか何かでしかない。そういうのは好きではないし、学費は俺が出す。家賃も俺が出す。そんな想いでいました。ですが、どうしたって、お金が減っていく中で、1番最初に何が困るかというと、腹が減ること。
本当に。どんだけ一生懸命にやろうとも、能力が高かろうとも。これはそういう環境に身を置いた人にしかわからないと思います。
店長の一言と一杯のレタスチャーハン
腹減ってどうするかというと、大学生な訳だし、賄いのあるところでバイトするしかない。浅はかだね。(笑)「今日から働かせてくれないですか。」といろいろなお店に掛け合いました。時給は少なくても良いから、とにかく賄いが食べられるお店で。そんな中、1番最初に働いたのが、あるチェーン店の中華料理屋でした。
その店長さんも、学生の頃苦労されたみたいで、今までの事を伝えると「気持ちはわかるよ。」と話していただき、出勤初日にレタスチャーハンを作ってくれました。面接に行ってから、次の日です。
そのレタスチャーハンを食べた時に、色々我慢していたことや、境遇、自分の情けなさに、涙が出ました。「なんだこれ。なんでこんなに美味しんですか?」と聞いたら、「これはただのレタスチャーハンだ。俺はお前のために作った訳だけど、食べ物で人を感動させられるんだよ。」と。これを聞いて、「俺はこの人みたいになりたい。」と思いました。
必死に生きていたから、この衝撃を受けたのだと思います。人はいきなりガクッと落ちると、必死に生きる。必死に生きてきたからこそ「こういうのがやりたいんだ。」といったことが見つかってくるんだと思います。俺もお金がなくて、腹が減った状態でなければ、食べた賄いはただのレタスチャーハンだったかもしれない。色々巡った中での、店長の一言と、レタスチャーハンの一杯だったんだよね。「ここだな。」と思いました。それから店長に「俺は食べ物屋を目指す。」と伝えました。「学校をやめます。」と伝えたのは、この出来事があった次の日でした。
頑固親父のラーメン屋
中華料理屋さんでは、とにかく偉くなろうと思いました。まずは、もちろんアルバイトからスタートしましたが、店長からは、「誰から見ても、仕事ができるようになったら、社員も良いんではないか。」とお話しをいただきました。その言葉をいただいてからは、本当にがむしゃらに朝から晩まで働いていました。
しかし、働いていくと、「やはりマニュアルに過ぎないな。」という想いが出てきました。これからも真剣に食の道に携わっていくのであれば、チェーン店ではなく、個人店に飛び込んでみる必要があると感じていました。働いて2年ほど経過した時です。当初の約束通り、「社員になるか。」という話があったのですが、社員になっても、何も変わらないし、自分に保証がつくだけ。「それは違うのではないか。」と思っていました。
そんな事を思っている中、アルバイトで貯めたお金で食べ歩きをする機会がありました。その中で良いお店との出会いがたくさんありました。ある福井県のラーメン屋さんに行きましたが、そのラーメン屋さんが感動的に美味しかった。「ラーメンでこの美味しさどうした。」と。びっくりしました。オープンキッチンなんですが、驚くほど綺麗で、全員坊主で、ハチマキを巻いて、一切笑顔が無い。この姿を見て、「この人たちカッコ良いな。」と強く感じました。これが頑固親父がやっているラーメン屋というやつかと。それから、ずっとチェックしていました。その時は、社員を募集していなかったのですが、数ヶ月後に募集がかかっていました。「これだ。」と思って、すぐに面接をさせていただきました。面接が終わると「明日から来なよ。」とお話をいただきました。その時、返事はしたものの、バイトはあるし、「どうしうよう。」と。
そこで、店長に「良いお店があったので、行きたいです。できれば明日なんですけど」と話をしました。そしたら、「お前のことだから、そう言うと思っていたよ。」と言ってくれて。
それから、一気にラーメン屋の方に頭が切り替わりました。
小さく芽生えた想い
そのラーメン屋は何もかも手作業でやるお店です。厳しいお店でした。寸胴の洗い方一つでも、とにかく怒られる。見える景色が全く異なりました。「今まで何やっていたんだろう。甘く無いな。」と感じました。ある日、親方に、「何がそんなに駆り立てるんですか。」と質問したら、「そりゃ、借金だろう。今日、お客さん来なかったら潰れるんだぞ。」と。もう必死さで負けている。ラーメン屋では、渾身の1杯を「これでどうだ。」とお客さんに出して、その対価として、お金を頂く。この精神を特に叩き込まれました。プロとは、仕事でお金をもらうことができる状態。自分が作ったこの1杯を出している時点でプロということ。アルバイト、社員といった立場は関係ない。このラーメン屋では約5年働いていました。
働いている中で、ラーメン屋の社長とよくお話する場を設けてもらいました。その時、感じたのは、「社長って超えられないな。」という気持ちです。偉くなりたかったのですが、そういう想いでやっていると、やっぱりどこかで行き当たる。「これ以上は、上にいけないな。」と。それが社長でした。
どんだけ仲良くなっても、どんだけ話し込んでも、結局、立場が違う。社長は「俺の喜びとか、悲しみははっきり言って段違い。」と話していました。これがまた羨ましくて。どこか、経営する立場になってみたいという想いが生まれていました。
自分の人生を振り返ってみて、チェーン店の中華料理屋さん、個人店のラーメン屋さんしか経験していないなと感じました。当時、25歳の時です。これで、自分のお店を出すのは、「まだまだだな。」という気持ちがありました。将来の自分に聞いても、「まだ無理。」と言われる。
衝撃の出会い
これだけ長い間仕事をしていると、”誰と働くか”が大切だと感じていました。今度は、人を見たいと思い、社員で入るのではなく、アルバイトを複数掛け持ちしました。朝、昼、夕方、夜中。多い時は4つ掛け持ちしていました。
面接を色々受けている中で、富山の焼肉屋さんに面接に行きました。このお店で後に、師匠になる人に出会います。最初の面接は店長さん。キッチン志望の旨を伝えましたが、「今は、ホールのアルバイトしか募集していない。」とのお話でした。「キッチンで色々学びたい。」と熱く語ったところ、店長さんだけでは、決定ができないので、社長と話してくれとの話をいただきました。
社長との面接の時です。登場した時に、その怖さに衝撃を受けました。ダースベーダーの曲が流れているかのようでした。(笑)空気が全然違う。「うちのキッチンでやりたいらしいな。アルバイトではなく、社員で来いよ。」と。ただ、仮にこのお店が自分にとって、良くなかったら、お互いにとって迷惑がかかる。その想いを伝えると、「なんだ、俺のお店を試すのか。」と。しかし、ここで押し負けたら、一生ペコペコだなと思っていたので、意を決して「一度、試させていただきたいと思います。」と伝えました。この言葉が気に入ったらしくて、「よく言ったな。俺を試すか。明日来いと。」と言っていただきました。また、明日です。(笑)
大将軍が出来るまで
働いてみると異常にキッチンの人数が少なかったんですね。なぜなら、働き始めても、厳しすぎてすぐ辞めてしまうんです。どんなに頑張っても1ヶ月。正直、「鬼っているんだ。」と思いました。当時、アルバイトで働き始めましたが、1ヶ月、2ヶ月と経った頃に、すぐに親方に「是非、社員として働かせてください。」と伝えました。その時同時に、「僕は30歳になったら辞めます。独立します。その間修行させてください。」と。
以前、働いていたラーメン屋の親方は、お客さんありきの思考でしたが、焼肉屋さんの親方は、料理ありきの思考。「この料理を食べさせて、美味いと思ってもらえなかったら、お前なんて生きている価値がない。」というぐらいの人でした。和食出身の親方でしたが、やっぱり厳しかった。毎日「どうやって仕返ししてやろう。」と思っていましたよ。(笑)
厳しい親方でしたが、厳しいのは俺の為。それがヒシヒシと伝わってきました。厳しくしてくれているのに、厳しくて辞めるなんて、大馬鹿者だと思っていました。厳しいながらも、愛を感じる。がむしゃらに働いていました。
30歳になったタイミングで、親方に独立の想いを話すと、「うちの看板持って行け。」とお話しをもらいました。実はこのお店、富山の大将軍というお店です。「後にも先にも、名前をあげるのはお前だけだよ。」と。それで看板を掲げさせていただくこととなりました。この焼肉屋では、約4年働いていました。
どこでお店を始めようかと考えていましたが、ふと中学、高校の時に長野市に住んでいたことを思い出し、長野市、松本市を中心に物件を探していました。
色々な親方から学んだことを集約すると、物件のポイントは、完全にオープンキッチンで、料理を魅せることが出来る事。それであって、圧倒的な美味さを出したい。その条件で探していると今の物件と出会うこととなりました。お寿司屋さんの居抜きです。
全てにこだわる
お店では、全部を大切にしています。1つに限定できません。お客さんは、綺麗なお店に行くわけでも無いし、美味いお店に行くわけでも無いし、接客が良いお店に行くわけでも無い。そのお店に行く。「このお店良いかな?」って思って来店する。大事なのは、来店したお客さんが帰る時に「良かった。」と感じるかどうか。そう考えると、大切にすべきことは、全部でしょ。手洗いにこだわっていると言って、従業員に清潔感がなければ、「どうした?」ってなるし。全部にこだわっています。
大事にしていることで言えば、日々感謝をしています。お客さんが来てくれるのは普通なことでは無いし、社員、アルバイト関係なく、従業員が働いてくれるのは、普通では無い。
俺は、今まで親方たちに教わってきたわけだけど、ただ、自分でお店を出すだけで、親方と呼ばれるように。それってそんなに簡単な事では無いと思います。「その責任は俺が絶対取るんだ。」という覚悟だけはあります。誰からも、「この人と働いて良かったな。」と思わせてあげたいと思っています。自分自身が親方達に対して、そう思っているので。いつか、従業員が自分のお店を持つようになったり、他の店舗を任せるようになった時に、初めて親方になる。その時に初めて身を以て感じると思うんだよね。そうなった時に恥ずかしく無いように育ててあげたい。そう思っています。全部が普通のことでは無いと思っているし、一生懸命頑張って当たり前でしょ。
人を育てるなんておこがましいと思っています。それよりも、「一緒にいこうよ。」という感じです。仲良くするの好きなんだよね。結局。お客さんと飲みに行くのも好きだし。中には、焼肉屋なのに、週に3回も来てくださるお客さんがいます。美味いのはもちろんだけど、その上で、うちのスタッフがいるから、俺がいるからと言ってくれる。こんなに嬉しいことはないよね。そういったお客さんの期待に応えるにはどうしたら良いか。毎日、毎日同じメニューでは良く無い。もっと品質を上げていったりとか、新しいことにチャレンジしていったりとか、店舗の改装をしたりとか、色々なやるべきことがある。どこにも手を抜けないんだよね。そういう姿を自分が率先してやって、できることならその姿を学んでいって欲しい。その学んだ従業員が自分の味方だったら、こんなに嬉しいことはない。楽しくてしょうがないと思います。
私のプライベート
趣味あるんです。(笑)当てられたことは無いけど。(笑)趣味は、”知らないことを知ること”です。「知らない!」ってなったら居ても立っても居られないんだよね。例えば、「あの映画見た?」とか、「新しいお店行った?」とかそういうことです。ジャンル問わずアンテナを張っています。ジャンルを狭めることは、こだわりではなく、価値観を狭めているだけ。多くの人が関心を持っていることを自分も試してみるのは、人に流されているのでは無い。知らないことは罪だと思っているので、自分が経験した上で、判断すれば良い。引き出しをいっぱい作っておく状態を作ることは重要だと思っています。ちなみに、今年の社員旅行はスキューバダイビングでした。去年は、富士登山。一昨年は、ディズニーランド。(笑)意味分からないでしょ。(笑)ディズニーランドでは、徹底された清掃、接客、イベントなどは見るべき。富士登山は、日本一の山登ってみたいでしょ。(笑)色々な刺激を受けて、考えることは必要だと思っています。
最後に一言
「美味いもの食べたい。」「旨いお酒が飲みたい。」
食の要望がある時は、うちのお店を思い出していただいて、是非足を運んでみてください!
お待ちしております!