三代食堂である理由|三代食堂 岡部 賢二

自分がやりたいことは

出身は茨城県です。大学進学時に上京をして、4年半ぐらい東京で暮らしていました。卒業後は、茨城に戻って、栄養士の資格を取りました。
このきっかけは、大学時代のアルバイトにあります。

アルバイトは、とんかつ屋で3年働いていたのと、他には居酒屋や、ホテルで働いていました。良いバイト先であったんですけど、とんかつ屋は近所だったという理由でやっていたので、どちらかというと、何となくやっていた感じです。
とんかつ屋では、最初は皿洗いからなのですが、盛り付けや、かつ丼作りまでいろいろなことを任せてくれました。当時は、「すごい楽しい。」と感じていましたね。

大学の後半から卒業に近づくにつれて、大学では全く関係ないことを勉強していたけど、漠然と「飲食店をやりたい。」という気持ちが芽生えてきました。
そこで、食に関してちゃんと勉強したいという想いから、地元の茨城県に戻り、栄養士の専門学校に入り直しました。
結構東京嫌になっちゃって、、。(笑)
殺伐とした感じとか、疲れてしまったのもあって、田舎に帰ろうと決めました。
別に東京に居続けて、資格を取る必要はないと感じていました。

1人の上司との出会い

専門学校の卒業後は、たまたま職場が長野県に決まって、委託給食と言う形で、老人ホームであったり、学校であったり、その場所にあった給食を作る仕事をしていました。


最初の配属は、老人ホームでした。期間は、1年間です。
その後は、約二年間、池田の方にある障がい者施設で食事を作っていました。
そこで1つの出会いがありました。

私の上司は、もともと京都の割烹で修行をしていた方です。
その上司は、「給食業界はなめれられている。」と言っていて、例えば、カレーを作るにしてもレトルトを入れて、食材を入れて完成となる。料理に凝る習慣がなく、技術を向上するという姿勢が見られないんですね。
それで良いんですけど。食べる側も完成度を求めていないから。
でも、その上司はたまたま働く場所がなく、入りやすい給食業界に入ってきたのですが、技術はあるので、給食だけど、給食らしからぬ味を出すんですよね。(笑)
味付けの段階でダシの比率や、味付けの順番など細かく調整していく。
そこで基本的なことを教えてもらいました。
調理師学校時代の勉強を、上司に弟子入りする形で実践へと変えていきました。
その出会いがなければ、今どうなっていたかわからないですね、、。(笑)

オープン前に山小屋に!?

その後は、2017年4月頭ぐらいに会社を辞めさせていただきました。
前職で働いている時には、もうこの物件は決まっていたので、お店を開く準備をしていたのですが、もろもろやっているうちにお金が足りなくなってしまって、、。(笑)
車も売ったりしたんですけど、サラリーマン時代の貯金でお店を完成するには、足りない状態でした。
また、そこで1つの繋がりがありました。

ここ1年ほど「ヒーターズ」というバンドをやっていて、そのギタリストのオーナーが、山小屋を経営していました。そこから「一緒に働いてみない?」という話をもらって、昔から山には興味があったので、2017年の夏に4ヶ月ほど山小屋で働いていました。
ある程度、お店の工事を出来るところまでやって、あとは6月末から4ヶ月山に行って稼いでいました。
山での業務は、基本的に小屋番と言う受付と、料理が出来るのもあって食事提供もしていました。あとは、道直しという作業があって、登山客の方が登ると道がどんどん崩れてきて、危なくなってくるので、その道を石で固定したり、歩きづらくなってしまうのを砂利で埋めたりしていました。
雪が積もっている時は、ベンガラというチョークがあるんですけど、真っ赤な粉を撒きに行ってマーキングをしたりもします。
そのような生活を送っていました。

予期せぬ事態

山小屋に帰ってからもすぐにお店のオープンはできませんでした。
そこからさらに4ヶ月ぐらいかかってしまって、、。
そもそもここの物件の状態が借りる前はひどい状態だったんです。
大体2ヶ月間山に行く前に基礎を作って、その後、山から下ってきて4ヶ月で上やって、キッチン作ってと言う感じで。思ったより時間がかかってしまいました。

ほぼ、全て自分の手でお店を作ったのですが、みんなやろうとしないだけで出来るんです。(笑)
最初は手探りでやっていて、昔の建築誌を見て「こういう感じにしたいな。」というイメージを持ってやりましたけど、出来ましたね。(笑)
会社辞めてからは、工期が半年、山に行っている期間を含めてほぼ1年かかりました。
オープンは4月3日です。

本当は3月27日ぐらいだったのですが、あばらを折ってしまって、、。(笑)
最後の最後で怪我をしてしまって、2週間ほど延ばしてもらいました。(笑)
めっちゃ高いところならわかるんですけど、70cmぐらいの椅子から結構な勢いで落ちて、、。(笑)
死ぬかと思ったぐらい痛かったですね、、。(笑)
でも、オープニングパーティーは、予定通り開催しました。
店内をステージにして、ライブをやったりして、いろんな人が来てくれて。
結局、当日は興奮しているので痛み感じないんですよ。(笑)
それで乗り切ったのですが、オープニングパーティー終わってから病院に行ったら「やっぱ折れています」と言われて。(笑)
オープン前にものすごいださい怪我をしたという。(笑)
忘れられないです。(笑)

食堂、店名へのこだわり

小っちゃい頃から町の大衆食堂みたいなところに連れて行ってもらっていました。
その後、年を重ねていって、上京して学生をやって、そこで通っていたお店の偉大さに気づきました。
上京して茨城を離れた後に、飲食店をやりたい気持ちがあったので、いろんなお店に行きました。
その中で、昔通っていた記憶に残るようなお店を超える店が何1つ無かったんですよ。
本当に1個もないぐらい無くて。


単純に自分の舌が合っているというのもあるんですけど、何年か毎にブームがあって、料理の技術や食材とかの様々な変化があっても、人の味覚に訴えてくるその美味しさは普遍的で変わらないと思っています。
自分にとってそれが食堂で再現できればという想いがあって、自分の原体験が続けられる場所ができたらと思いました。

「三代(さんだい)食堂さんですか?」とよく聞かれるんですけど、三代(みよ)です。(笑)茨城のひたちの方だと名字でよくあって、母親の旧姓も三代(みよ)でした。
そこからきています。もう1つの理由は祖父の魚屋にあります。

私の祖父は、茨城で魚屋をやっていて、昔は築地で働いていた経験があります。
今も、お店はあるのですが、受け継いで、店主をやっていた、母親のお兄さんが10年ぐらい前に亡くなってしまって、今は、お兄さんの奥さんがお店をやっています。お兄さんには、魚のさばき方を教えてもらったり、すごい優しくしてもらった記憶が今でもあります。
店名は悩んでいて、自分の名前を冠するのには抵抗がありました。しかし、魚屋もそろそろ閉めるという話もあって、同時に自分が「継ぎたい。」という想いもありました。
字は三代(さんだい)で、魚屋ではないけれども、祖父、母、自分で三代目という意味もありますし、三代(みよ)という姓を継ぎたいという想いはすごいあって店名に込めました。

1人で来られる空間作り

自分が落ち着ける場所がすごい欲しいなという気持ちがありました。
茨城や東京にいたときになんとなく落ち着ける場所の条件が、“ちょっと暗めで”“外からあまり見えないけど、外の景色は見える”
そういうお店だと「入りやすいな。」という気持ちになって。

1番優先しているのが、お1人様、もしくは、お2人様の席が一番良い位置にあるという事です。


1人でふらっとごはんとか食べて、リラックスできる環境が良いなと思っていて、なにもしらない店に対面式のカウンターだとちょっと緊張したりするじゃないですか。
お店の人は、喋り慣れているから良いのかもしれないけど。
それを解消するためのスペースを作ってます。
1人用のカウンターは対面式ではなく、外が見える特等席。
「自分だったらどういう店に居続けたいか。」を基本のベースにはしています。

自分がやっている音楽の要素もお店に反映させています。
ミクスチャーというか、音楽だとビートルズの後に出てきたプログレシブロックという60年後期から出てきた音楽が好きで、音楽だけでなく芸術とかとかをまぜこぜにしているものです。もともと分析が好きで、音楽もいろいろ混ざっていると楽しいんですね。建築とかも昔の雑誌と今の雑誌を見比べたり。一見合わなそうなものも混ぜて、お店作りはしていました。

私のプライベート

ずっと音楽をやっているので、その繋がりが今、面白いと思っています。バンドもそうですけど、ソロでもやっていて、三軒隣の「Give me little more」が面白い外国のアーティストを呼んだり、たくさんライブもやるので、すごいインスピレーションが湧く場所になっています。
ソロの時は、結構めちゃくちゃなライブをします。(笑)エフェクターを使って、カリンバと言う民族楽器があるんですけど、どんどんループしていって、、、。
いろいろあるんですよ!(笑)ちょっと説明しづらいので会場に見に来てもらえば!(笑)

最後に一言

これから毎年店を2か月ぐらい閉めて、山小屋に行くと言うサイクルをやっていきますが、うちの店を忘れないでください!!(笑)

ここまで来れた一つの想い|CAFE THE GROVE 由比ヶ浜 秀嗣

いつも見ていた親の姿

出身は長野市です。小学校の時に松本市に引っ越しました。その後、大学進学を機に神奈川へ行き、大学卒業後は二年ぐらいイギリスへ行っていました。
イギリスから長野へ戻ってきたタイミングが、ちょうど冬季オリンピックの時だったので、オリンピックのお伝いをしたりしていました。それから飲食の世界に入った流れです。
もともと親が今、お店をやっている場所でラーメン屋をやっていたので、飲食には小さい頃から馴染みがありました。その為、親の姿を見ていたからなのか、飲食に対しては構えるものは無かった記憶があります。

自分が好きなこととは

大学卒業後は、親のラーメン屋を継ぐつもりは全く無くて、サラリーマンするつもりでした。
就職活動はちゃんとしてはいましたが、「自分は何をしたいのだろう。」を整理していった時にサラリーマンになることに違和感を覚えたことも確かです。
そこで大きな影響を受けたのはイギリスへ行った経験でした。

イギリスへ行く目的は、英語を覚えることでした。
ですが、生活している中で、イギリスは見たことのない様々なお店があって、「こういう店カッコ良いな。将来的にこんなお店を持てたら良いな。」と漠然と思うようになっていました。
こういった気持ちを感じていた中で、「何したいのかな。」といろいろ考えた時に、「人との繋がりが自分は好きだな。」と感じていました。人と話したりといったことです。
実際に、いろんなものを見て、経験することで気持ちの変化が起きてきました。
最終的には、自分でお店を開いても面白いのかなという気持ちはどこかにあったと思います。親を見ていてというのもありますけど。
その中で、「最終的な目標が見えているのならば、最初からやっても良いのではないか。」という想いが出てきました。
これが飲食に飛び込むきっかけです。

一番幸せな手段

この人の繋がりを感じたのは、大学時代のアルバイトです。
レストランや、ホテルの配膳の仕事の飲食関係やお土産屋さん、ガソリンスタンドも経験していました。
“人の繋がり”だけを考えた時に、極端な話、飲食でなくても良かったかもしれません。
ガソリンスタンドでも人と関わることが出来て、どうコミュニケーションとるかを考えながらやることに楽しみを感じていました。
そう考えると、売っているものが違うだけで、接客という意味では同じです。

それでもなぜ飲食なのか。自分自身が食べるのが好きだったし、とにかくコーヒーが好きだった。人と繋がる仕事を考える中で、「どうせなら好きなことをツールに仕事にしたい。」と思うようになりました。
より自分が楽しめる。

飲食人生の第一歩

実は、親のラーメン屋を一度継いでいます。飲食をやるにしても経験がないといけない。そこで親のラーメン屋を継ぎました。

さらに、もう一店舗出す時に自分のやりたいコーヒー屋をやろうと決めていましたが、結局コーヒー屋をやるにしても、自分はずっとラーメンを作り続けなければならないし、「これはダメだ!」と。(笑)
コーヒーのアイデアはどんどん出てきたけど、ラーメンのアイデアは出てこなくなってしまった時期でした。
とはいっても、お客様からお金は頂いているので、このような気持ちでお店を続けるのは、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
自分で作ったものを潰すのは良いですが、親が作ったものを潰すことはしたく無い。
であれば、惜しまれつつ閉店という形を取りました。

しかし、その当時は大人という大人に猛反対されました。

開店までの大きな壁

「せっかくお客さんが入っているのにどうしてコーヒー屋にするの?」
「コーヒー屋なんて儲かるはずがない。」
会計士、銀行、両親、周りの人から猛反対です。
銀行の人にはコーヒー屋をやらない方が良い理由のレポートも出されたりして。(笑)
それは結構きつかったです。(笑)
でも、そのままでは悔しいので、次の日にはどうしてやりたいのかというレポートを銀行に返しました。(笑)
その当時は仕事しながら、銀行を説得して、会計士さんを説得してと、走り回っていました。

でも、ある時から「こういう事出来ますか?」「できますよ。こういう事も出来ますよ」のように、自分がボールを投げたら2つ3つになって返ってくるようになってきました。そうなると自分の中で導かれているのではないかと感じる部分もあって、根拠のない自信、勘違いとも言うんですが、、。(笑)
上手くいく気が何となくしていました。
でも、今、同じことをやろうと思ったら本当に嫌です。(笑)

辛くてもやり続けられた理由

やっぱり、「ただただ、コーヒーが好きだった。」
これにつきます。
コーヒーは子どもの頃から好きでした。コーヒー牛乳から始まって、次は、ミルク、砂糖を入れてと、ずっとコーヒーは好きで飲んでいました。
これは、親の影響もあります。親がコーヒー好きで家に常にコーヒーがある状態だった為です。
コーヒーが好きで調べていくと、いろいろ見えてくるものがあって、「コーヒーって奥深い」「面白い」と感じるようになりました。

コーヒーから生まれた違和感

ある時からただ、コーヒーを飲むだけではなくなりました。

単純に飲み物として面白いし、視点を変えてみると、生産国からは稼ぐ重要なモノになる。
当時、フェアトレードという言葉を良く聞く時代でした。
なんとなく自分の中で、それはチャリティーと同じ感覚があって、言葉自体に違和感を覚えていました。オープンしてからも考えていたことの1つです。

ある時に出会ったのが、コーヒーハンターと呼ばれる川島良彰さんの記事でした。
その記事を読んだ時に、「これだ。」と思うものがありました。
その記事には、「フェアトレードは一過性の側面が強く、お金持ちの国が貧しい国を支える構図が見える。そうなると、常に生産国は貧しくないとならないよね?」という問いでした。これを読んだ時に、モヤモヤが取れて、この記事が自分の想いがうまく言語化されていると気付きました。
美味しいモノを作っている生産国にはちゃんと対価を払わなければならない。
そして、最終的にコーヒーをカップにした時に、お客様が「美味しい」と飲んでもらう。中間業者、焙煎業者、消費者も泣くことが無く、コーヒーを通してみんながハッピーになる。こういった持続可能な世界が作れれば、みんながハッピーになれるよねと。
フェアトレードはもちろん良いと思っています。ですが、1つのきっかけにしかならないと感じていて、より一歩進んだ時にそれが持続可能になればよりハッピーになれると思います。生産国を貧しく位置づける必要は全くないと思いますし。

お店に散りばめられたこだわり

このお店は、以前のログハウスのラーメン屋がベースになっています。
店づくりのコンセプトは、男の人も気軽に来れるお店です。


カフェは女性が行く場所というイメージが少なからずあると思っていて、そうではなくて男の人も気軽に行ける場所が作れればと思っています。
“木”“レザー”“鉄”をキーワードにして、男ぽっさをアピールしたいと思っています。

例えば、お店の入口も鉄骨を使っていて、この色にはすごいこだわりました。
イメージの色味を出すために一回酸のプールにつけなければならなくて、関西に鉄骨を持っていって作ってもらいました。(笑)
そういったこだわりが店内に散りばめられています。
床もあえて隙間を空けているように、洗練されているよりも、武骨な感じを作りながら、隙がある不完全さを出しています。

隣には、ビーンズショップがあって、土蔵を使っています。
もともと祖父が管理していた建物で、よく言っているのは家の形をしたゴミ箱状態でした。当時、祖父がなんでも入れてしまっていたので。(笑)
それを1人で分別して、ごみを捨てに行ってというのを続けて、お店に使えるようになりました。
松本は蔵の街で色んな場所に残っていますが、うちの蔵は雰囲気が全く違います。
外見は当時のままですが、中を完全に洋風に振って、内と外にどれだけのギャップを作れるかを意識して作っています。蔵なのにシャンデリアがあります。(笑)

お客様の物語を感じる

オープンして12年目になります。
12年間お店をやっていると、結婚してなかった人が結婚しました。子どもが生まれました。といったようにお客さんの物語がどんどん進んでいて、一緒に共有できるというのは面白いと感じています。お店も成長していきますが、お客さんと一緒に歩んでいるんだなと実感しています。なので、お店としてもどれだけお客さんの傍らにいれるのかというのは同時に考えます。
入籍した日にお店でご飯を食べてくれた人が、毎年結婚記念日に来てくれたりして、そういうことがあるとやっぱり嬉しいです。
新しい出会いがあれば、転勤でいなくなってしまうお客さんもいますが、お客さんの物語を、お店をやりながら感じています。
今日も子連れの家族が来店してくださいましたが、「次は子どもが1人で来れるまで続けられたら良いな。」とか思いますね。

私の逸品

今までいろんなコーヒーの種類を扱ってきてそれぞれに思い入れはありますが、その中でも特にタンザニアに思い入れがあります。

それは、自分が一番好きなコーヒーだからです。人間って正直で自分が好きなコーヒーを淹れていると、普段より勝手に力が入ると言うか、「この豆のもっと良いところ引き出してやろう。」と無意識に思ってしまいます。
もちろん全部の豆をそう思っているのですが。(笑)
コーヒーの仲間を作っていて、他の焙煎業者の方にもタンザニアは好評なので、是非飲んでもらえたらと思います。

私のプライベート

バイクに18歳の時から乗っています。ずっと直しながら、同じバイクを20年間乗り続けています。湘南爆走族読んでいました。(笑)
今の時期だとビーナスラインが気持ち良いですね。
普段、お客さんとお話しさせていただいているので、休みの日は一人の時間を大切にしています。多くこういった時間をとれるわけではないですが、意識してとるようにしています。
バイクは一人で行って、走ってとすごく良い時間になっています。

最後に一言

「コーヒーを通して、生産者からお客様まで皆がハッピーに!」

この願いを込めて、カフェ、ビーンズショップともに営業しています!
是非、足を運んでください!